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生命のコミュニティー

訳者コメント:
 前節では生物個体の中を探っても遺伝子やDNAに「自己」の実体は存在しないことが語られましたが、本節では個体の外を見たとき、自己完結する存在は生命の総体であるガイア以外に無いことに行き当たります。細胞内小器官が共存するミクロの世界から、マクロの生態系、そしてガイアまで、生命はどのレベルでも助け合いを基本としていることが分かります。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


6.7 生命のコミュニティー

複雑性理論は生命の起源の説明として重大な欠点がありますが、その特徴の多くは生命と進化についての新たに生まれつつある理解と強く一致しています。生態学と遺伝学における最近の発見は、複雑性理論が含む2つの基本的な意味あいを裏付けています。それは、(1)生命はその根本において協力的であり、(2)生物学的自己の絶対的な完全体は存在しないということです。

これらの新発見はネオダーウィニズムを根底から覆す別の理解のあり方を示唆し、進化の主体として自然淘汰と突然変異が最重要だとする考えに疑問を投げかけます。生態系や自己触媒集合の要素間には確かに競争が存在するかもしれませんが、それぞれが生き残るためには他の要素に依存してもいます。それぞれに適所ニッチがあり、必須の役割と機能があって、それを破壊する者は自らを危険に曝すことになります。自己複製する構成単位はどこにも存在せず、したがってダーウィンの法則が作用するのは、ずっと後になって半自律的な萌芽が独立し、個体として競争するのに十分な独立性を獲得したときです。しかし「半」という修飾語を強調しておきたいのは、どのような生命体も自然の他の部分から完全に独立していることはないからです。

現在生きている生命系に目を向けると、自己触媒集合と同じような状況が見られます。もちろん競争はありますが、行動や進化を決定する要因が競争だというのは誇張です。私たちは探すものを見つける傾向にあり、今や分断という文化的な目隠しが剥がれ始めたので、科学者たちは生物学において協力が重要だということを次々に発見しています。このような協力関係の広がりは個別の生物という概念の首尾一貫性に疑問を投げかけ、カウフマンの自己触媒集合がそうであるように、ネオダーウィニズムから自然淘汰の主体そのものを奪おうとしています。

自然界における協力の例を、私たち自身の細胞から見てみましょう。細胞の一つ一つには独自のDNAを持つミトコンドリアが住んでいます。このような原形質の断片は私たち自身の(そして他のすべての動物の)一部ですが、細胞核のDNAによって「コード」されてはいません。ある意味これは別の生物ですが、今では多くの科学者が認めるようになったリン・マーギュリスの説では、ミトコンドリアはもともと好気性細菌で、それが他の細胞と融合したのです。しかしエネルギーの少なくとも90%を供給しているので、ミトコンドリア無しで生きることはできません。細胞レベルでさえ、私たちは協力的な存在なのです。

ブルターニュの海岸に生息する扁形動物、ロスコフ・ムチョウウズムシ無腸渦虫は、口や消化管を持っていません。その代わり、透明な体内には何兆もの緑藻類が共生し、光合成によって渦虫にエネルギーを供給します。この保護された環境の中で、何世代もの藻類が生まれては死んでいきます。緑藻は渦虫の老廃物まで処理します。また、海底の熱水噴出孔の周辺に生息する線虫も消化管を持ちませんが、栄養体部と呼ばれる特殊な器官に細菌を共生させています。細菌は線虫が集めた硫化水素ガスからエネルギーを産生します。それはどんな細菌なのでしょう? 研究室での培養が不可能なため、誰も名前を付けていません。その細菌は線虫の中でしか生きられないのです。細菌と線虫は互いに完全に依存しています。

すう動物がセルロースの消化を細菌に依存していることは既に述べました。最近になって、人間も健康を保つためには複雑な腸内生態系を必要とするという証拠が蓄積されてきました。何百種類もの酵母、細菌、その他の生物が健康な人間の腸内には生息していて、その数は私たち自身の細胞をはるかに上回ります。ビタミンKやビタミンBを生成し、病原性細菌や真菌によるコロニー形成から私たちを守り、消化を助け、仕組みは良く分かっていませんが免疫系と相互作用します。人間はある種の回虫を「寄生」させるように出来ているという証拠さえあり、回虫は潰瘍性大腸炎やクローン病の治療に何百例も使用され、成功を収めています[41]。腸だけでなく、私たちの粘膜、皮膚、そしてまつげに至るまで、あらゆるところに細菌、酵母、微細昆虫が生息していて、それらは私たちの資源を奪う競争相手ではなく、健康のパートナーなのです。私たちがそのような生物群に部分的あるいは全面的に依存しているのは、心臓や肝臓に依存しているのと同じようなものなのに、いったい何の権利があって彼らを自己の定義から排除するのでしょうか?

スティーブン・ビューナーは美しい著書『失われた植物の言葉』の中で、自然界における協力の驚くべき例を数多く紹介しています。

中央アメリカやアフリカにあるアカシアの木はとげで覆われていて、空洞となった棘にはアリが住んでいます。共進化する細菌のように、アカシアアリは若い低木を共進化のパートナーと認識して、そこに巣を作ります。アカシアは幹に沿って特別な蜜を出し、アリに食べさせます。植物の根から放出される化合物のように、この蜜には油脂(脂質)、タンパク質、糖など、アリが健康を維持するために必要な化合物が豊富に含まれています。アリは木の根元の草を取り除き、日光を遮る他の植物の葉を取り除き、木にからみ付くつるを枯らし、アカシアを食べようとする草食動物を攻撃します[42]。

どちらが生物なのでしょう? 木そのものでしょうか、木+アリでしょうか? ほとんどの植物は根に菌根菌がいないと生存できず、菌根菌は植物から供給される糖分に依存しています。マメ科植物と窒素固定細菌の間にも同じような関係が存在しますが、直接関係する生物だけでなく植物コミュニティー全体が、この窒素固定に依存しています。これは象徴的です。自然界における協力関係は、植物と授粉昆虫、渦虫と藻類の相互依存関係をはるかに超えて広がります。多くの場合、依存関係は一対一ではなく高度に分散しています。何千もの生物種が相互に依存し合うパートナー関係を築いているのです。「自己」に含めるのが当たり前の心臓や肺といった器官がなければ哺乳類が生きていけないのと同じように、これらの植物、昆虫、菌類などは共生コミュニティーがなければ生きていけません。一つの要素を取り除けば、コミュニティー全体が崩壊するかもしれません。無生物環境に隔離された生命は健康に育つことができません。

ビューナーはソノラ砂漠のアイアンウッドの木についての記述の中で、生命のコミュニティーの特筆すべき例を挙げています。

より小さな植物が現れ始める。砂漠の太陽から絶えず日陰を作り、蒸散した水で冷却し、地下から揚水して毎日水を供給することで、約65種の植物がアイアンウッドの下で育つようになる。… このうち31種は他で育たないものだ。新たに出現したこの植物群落は菌糸ネットワークにつながり、植物の化学的情報はネットワーク全体を流れる。植物の根が触れるところならどこでも、化学情報を直接共有できる。全ての植物が揮発性の芳香族化合物を発散する。ある芳香族化合物は授粉昆虫を呼び寄せ、別の芳香族化合物は絶え間ない雨となって植物群落を覆い地上に降り注ぐ。それらを土が取り込み、アイアンウッドの下のコンパニオンプランツが吸い込む。小さな群落植物は地面を覆い、土壌の水分を高く保つ。どれも独特の植物化学物質を放出し、アイアンウッドが放つものと合わさって、木の下の微気候と土壌生物群を維持する。
葉、樹皮、枝が古くなると、地上に落ちて腐植の層を形成する。何百年もかけて、樹木とその群落は幹の周りや樹冠の下に有機堆積物の山を形成し、事実上それが砂漠の中の生命と豊かさの島、あるいは群島となり、生命を養う核となるのだ。数多くの昆虫、鳥、動物が群島へとやって来て、受粉し、種を撒き、群島の植物で巣を作り、巣穴を掘り、交尾をし、土壌に空気を送り込み、植物の化学物質を成長に利用し、薬として、食料として利用し、長い年月を掛けて何トンもの排泄物で土を肥やす。アイアンウッドが生育している地域ではどこでも、生物の数が88%、生物種の豊かさが64%増加する。絶滅の危機に瀕しているサグアロ・サボテンのような植物は、アイアンウッドのような樹木が作り出すような場所以外ではほとんど発芽できない。アイアンウッドやこれに類する樹木は、まさにそのような生物が生きる生態系を作り出している。

アイアンウッドの群落が普通でないのは、他と比べれば孤立しているという点だけです。他の生態系でも同じような関係が存在し、要となる生物種と、その種の定着を助ける守護植物、そしてそこに従属する植物が群落内の生命とエネルギーの流れを調整します。もちろん、昆虫や細菌、鳥類、哺乳類、真菌類を含むコミュニティーの全体としては、各々の生物の増殖を制限しますし、コミュニティーの確立と維持の中で、競争は確かに起きます。しかしそのような言葉でー全体の働きを理解しようとするのは間違いです。競争が主であって共生はそこから生まれるものだと見るのではなく、競争を生活共同体の中で資源の流れが最適化されるいくつかの方法の一つだと考える方が、より明快かもしれません。

人間社会の理解も同じような形で損なわれていて、全ての互恵関係を競争的な経済学の観点から見ようとすることがその原因です。人類学者の中にはまさにこれを試みた者もいて、個人や部族間の交易を純獲得カロリーや純獲得時間という観点から分析しました。しかし、この種の分析を動機づけるのは、カロリーや時間が希少な商品であるという暗黙の前提で(時間的欠乏や食糧不足という概念のない人々にとって、不公正な取引が心配の種となることははありませんが)、それゆえ思い起こさせるのが、原始生活は生き抜くための闘争だったという前提です。正統派の生物学も同じ前提を持っていて、人類学と同じように、競争が主でないシステムを完全に理解することはできません。いつも何かが抜け落ちているのです。

もちろん、上記のような生命コミュニティーで自律的なものは一つもありません。あらゆる生物と微小システムはそれが生息する生態系の健全性に依存していて、生態系の一つ一つが遠く離れた他の生態系に依存しています。そしてあらゆる高等生物は大気を生命維持が可能な状態に保つ細菌に依存しているのです。地球上の生物はいくつかの種が失われても耐えられますが、生物種の一つ一つは全体に依存しています。どんな生物も命のない裸の惑星に孤立して存在することはできません。したがって、唯一考えられる生存可能な生命単位があるとすれば、水循環と炭素循環に関連する無機的プロセスも含む、あらゆる生命の総体でしょう。生物を自己触媒集合と見る捉え方が誤解を招くのは、どの生物も完全に自己触媒的なわけではないからです。人間が必須アミノ酸などに依存しているように、あらゆる生命体は長期的な生存のため他の生命体に依存しています。唯一の自己触媒集合があるとすれば、地球全体です。

これらの渦虫や菌根の例は、異常でもなければ自然界の珍事でもありません。どこにでもあることです。協力は至るところにあります。生命はそこに依存しているのです。それが私たちに見えないのは、ダーウィンの適者生存、犬が犬を喰う世界という文化的な目隠しのせいです。私たちの住む協力的な生物界のことを、ガイアと呼ぶのです。

地球を生物と見なすことには異論を唱える人もいるかもしれませんが、生物として多くの特徴を備えていて、中でも注目すべきなのは、気温やガス濃度、塩分などを一定に調節していることです。生物種の一つ一つが地球の代謝と恒常性に何らかの形で貢献しているのです。サンゴは礁湖ラグーンを作って海から塩分を取り除くのを助けますが、サンゴがいなかったら塩分はわずか6千万年で倍増していたでしょう。光合成をする藻類と熱帯雨林は動物の生命を維持する酸素を作り出しますが、その一方で地球全体に壊滅的な森林火災を引き起こすほど酸素濃度が高くなるのを防ぐ仕組みもあります。細菌は岩石の風化を促進し大気中の炭素を除去しますが、最終的には海洋動物がその炭素を貝殻に変えて海底に貯留します。そして、太陽の見かけの明るさが30億年の間に30から40パーセントも増加する中で、有機的・無機的な働きが組み合わさって、地表の温度を安定させてきたのです。ガイアは恒常性を維持し、外部からの刺激に反応し、大きさはともかく複雑さにおいては成長するのです[43]。唯一ガイアが持っていない生物の特質があるとすれば、それは生殖能力だと言われます。

進化はしばしば軍拡競争のように描かれ、植物は捕食に対する化学的防御をより洗練されたものに発展させ、それを餌とする昆虫はその防御に適応しようとするか、そうでなければ飢餓に直面します。このような例は自然界にも確かに存在し、チーターとガゼルの関係に見られますが、それを私たちが典型的な状況だと受け止めるのは、それこそが私たちの探しているものに他ならないからです。もっと典型的なのはベイマツとハマキガの関係です。食害が非常に軽い間は、木は何の反応も示しませんが、ハマキガの数が増え始めると、木はテルペンの放出を変化させ、ハマキガの摂食と繁殖を妨げます[44]。ベイマツはハマキガなどの害虫を根絶して大地を独占しようとはせず、ハマキガを適切な数に維持する手助けをするだけです。他の多くの植物も同じように振る舞い、程々に食べられている間は耐えますが、激しい食害には攻撃的に反応します。また他の植物は、大量に摂取したときだけ毒性を示す化合物を持っていて、たとえば植物性エストロゲンは食べ過ぎると草食動物の繁殖を妨げます。

わずかな例外を除けば、現代人は競争相手を完全に駆逐することを良しとする唯一の生物です。自然とは、生き残るための情け容赦ない闘争ではなく、一つ一つの種が適切な位置を占めるように抑制と均衡が働く広大なネットワークなのです。実際、どんな種でも絶滅すれば生態系全体に悪影響を及ぼすのが普通であり、かつては獲物であった種でさえ不利益を被ることが多いのです。オオカミの残虐から解放されたシカたちは、より良い暮らしをしているのでしょうか? その結果生じた飢餓、樹皮の剥ぎ取り、森林生態系全体の劣化が改善だと考えるなら、そうなのかもしれません。

生態学の研究から導かれる自然観は、競争的で蓄積的なネットワークではなく、広大な贈与ギフトのネットワークと捉えます。ルイス・ハイドは代表作である『ギフト』の中で、原始文化において贈り物ギフトの本質は受け渡されるか消費されねばならないことにあると述べていて、じっさい多くの文化では「食べられる」という表現を用います。贈り物が貯め込まれることはなかったのです。同じように、種や生物の一つ一つは環境に与えるものを持っていて、資源は環境の中を自由に流れていきます。捕食という場合でさえ、「鹿は狼にその身を捧げた」のような言い回しには無意識の洞察が表れていて、まさに生死を賭けた現実の闘いの下には、捕食者と獲物の運命的で親密な繋がりがあるのです。

狩猟採集民が蓄財をしなかったのと同じように、動物や植物も、生態系を占拠したり他の種を絶滅させたりして世界を我が物にしようとはしません。(日和見ひよりみ的な雑草が一時的にその場所を「占拠」することはあっても、いずれは複雑な生態系に道を譲ります。最初の急速な占拠は、例えば破壊された土壌を安定させ浸食を防ぐように、植物コミュニティーへの贈り物かもしれません。)贈与に基づく世界では、自分以外のコミュニティーのニーズが命の目的を決めます。命とは、人生とは、生き残るための闘いではなく、一つ一つの生物、あるいは一人一人に与えられた役割を、卓越した美しさで果たそうと目指すことなのです。

人類が競合相手の排除という考え方をするようになったのは、農耕の出現以降のことで、雑草やオオカミや害虫は駆除の対象です。シカの問題はどうする? 群れを間引いてシカの個体数を管理しよう。単一栽培を苦しめる病気はどうだろう? 農薬を使って管理しよう。競合相手を排除する企ては、自然を秩序づけ管理しようとする野心と重なり、自然を完全に支配するという〈テクノロジーの計画〉の成就に至ります。それはサイエンティフィック・アメリカン誌の表紙を飾った言葉にも表れています。「地球を管理する」のです。

現在さまざまな危機が重なり、人生がますます管理不能になる中で、私たちはこの野心の破綻を悟りつつあります。自然を見るだけで、それが誤った前提に基づいていることが分かります。私たち自身の疎外感、競争心、生存不安を生物学に投影することで、私たちは生命をシュタイナーのいう「万人の万人に対する戦争」と見なしてきましたが、原始社会と同じように、自然はそのようなものではありません。確かに競争はありますし、不安や飢え、生死を賭けた闘いの時もありますが、それは生命存在を織りなす縦糸や横糸ではなく、単なる数本の糸に過ぎません。生命の総体であるガイアは、生物種の一つ一つに役割を終えるまで居場所を与えます。リン・マーギュリスが言うように、私たちは共生の惑星に生きているのです。

この全てが示唆するのは、非常に異なった自然との関わり方であり、言い換えるなら、異なるあり方のテクノロジーを示唆しているのです。これまで自然を管理し、支配し、置き換えることに向けられてきたテクノロジーは、自然の中で私たちが成就じょうじゅすべき正しい役割と職務に向けられるでしょう。そのようなテクノロジーのあり方の概要を次章で紹介します。そこで描き出すビジョンは、人類に美しい運命を、上昇を約束しますが、現在まで長く続いている消費的で直線的な「進歩」観は明確に否定します。おそらく、この上昇をより適切に表現する言葉は、「成就」でしょう。


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注:
[41] ウィッケルグレン[Wickelgren, I.] 『Immunotherapy: Can Worms Tame the Immune System?(免疫療法:寄生虫は免疫系を手なずけるか?)』サイエンスvol. 305, 2004年, pp. 170-171.
[42] スティーブン・ハロッド・ビューナー[Buhner, Stephen Harrod,] 『The Lost Language of Plants(失われた植物の言葉)』, Chelsea Green, 2002年. p. 163
[43] 冗談半分だが、地球は成長すると考える反骨の地質学者がいて、大陸移動の別の説明としてそれを挙げていることをここに記しておこう。
[44] ビューナー[Buhner,] p. 160

原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-6-07/

2008 Charles Eisenstein


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