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自然の目的

訳者コメント:
 「利己的な遺伝子」に代表されるネオダーウィニズム世界観では、自己のプログラムを自己中心的に実行して環境を操っていくことになります。子供の頃にたくさん読まされた偉人伝では、大志を抱いた主人公がひたすら頑張った末に成功する様が描かれ、「お前もそのように頑張るのだ」と教え込まれます。しかし自分が生きてきた実感としては、自己中心的にを押し通して何かを達成できることはなく、与えられるチャンスと自分の才能ギフトとが一致し共鳴したときに、わくわくするような仕事が出来るものです。本節で提示されるネオラマルキズム(新ラマルク説)では、DNAが自己の固定的なプログラムなのではなく、生体全体や環境からの求めに従って融通無碍ゆうずうむげに姿を変える「タンパク製造工場」であり、その命令を下している「主体」つまり自己の在処ありかは曖昧にぼやけたものになります。つまり、私は世界、世界は私なのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


6.5 自然の目的

生命進化に関するネオダーウィニズムの説明が依って立つ二つの主要な柱は、ランダムな突然変異と自然淘汰で、各々が私たちの世界観に深く織り込まれています。ランダム性は目的性の対極にあるもので、標準的で無個性な構成要素からできた世界から必然的に生じる付属物です。自然淘汰は私たちの文化が持つ不安や競争心を生物学に投影したものです。この関連から確実になるのは、ネオダーウィニズムが〈分断の時代〉を代表する正統論であることです。

しかし突然変異と自然淘汰は、いったい何に作用するのでしょうか? 突然変異に苦しめられ、他の自己と生存競争を繰り広げる生物学的自己とは何でしょうか? この質問に対する首尾一貫した答は、ネオダーウィニズムというパラダイム全体の首尾一貫性にとって極めて重要です。生物学的自己が文化的に構築された自己概念の投影だと見るなら、ネオダーウィニズムの大系全体もまた投影ということになります。

標準的な答は、自然淘汰の対象は遺伝子であり、それこそが生物学における個別ばらばらの自己だというものです。遺伝子は(それが「コードする」生物を通じて)環境を操作することにより生存競争を実行し、進化を促す。すると必然的に、両者の主な関係は競争的なものになる。生物が今ここにいるのは、長い年月をかけて全ての競争相手を打ち負かし生き残って繁殖したからだ。遺伝子は進化しようと望んだりしないが、ときおり偶然に変異して、生存や複製に優れた新しい遺伝子に変化することがある。こうして、何の意図も目的も計画もないまま、遺伝子は進化していく。進化の唯一の方向は、生存し複製する能力が優れた遺伝子へと一方的に向かうこと。「目的」という言葉に意味があるとすれば、これが遺伝子の唯一の目的なのだ。遺伝子がコードする私やあなたのような生物は、遺伝子が生存し繁殖するための道具にすぎない。デカルトのいう魂のように環境から隔離された遺伝子にとっての利益は、その生物の利益と偶然一致しているにすぎない。その生物がどのように争い、望み、適応しようとも遺伝子には影響せず、他の生物の要求の影響も受けない。遺伝子と環境の関係は一方的である。遺伝子はそれがプログラムする生物を通して環境を変えるが、環境が遺伝子に与える影響は、遺伝子が受け継がれないようにするか、突然変異によってランダムに変化させるかのどちらかしかない。遺伝子があるじであって生物は従者であり、その環境は資源の貯蔵庫であると同時に脅威の源なのだ。

これと対応するように、人類があるじであってテクノロジーは従者であり、その環境は資源の貯蔵庫であると同時に脅威の源でもあります。個人のレベルで、経済学など人間行動を取り引きとしてモデル化したものは、構造的に同じ枠組みを利用しています。つまり、人生とは自分のことであり、何がどうすれば手に入るかということなのです。

ネオダーウィニズムの世界観が完全なものであるためには、これら全ての要素が必要です。一つでも取り除けば、織物の全体がほころびます。それとともに、自己の本質や世界のあり方についての様々な直観が全て消滅します。

今まさに、ネオダーウィニズムの織物全体が綻びつつあります。これが埋め込まれているさらに大きなパラダイム、つまり世界と自己についてのパラダイムも綻びていて、これら二つの綻びは互いに助長し合っています。ネオダーウィニズムのほつれた糸のどれから引き始めても、他の糸すべてに繋がっています。ですから、生物学的な自己定義の中核である遺伝子から始めましょう。

一般的な教条ドグマとは裏腹に、遺伝子は実際には細胞の管制センターではなく、環境のランダムではない(したがって、ある意味で意図的な)影響から隔離されているわけでもありません。高名な生物学者H・F・ナイハウトは、1990年に発表した論文『遺伝子と発生のもつメタファーと役割』の中で、生物学がもつ二つの中心的メタファー、つまり遺伝子が発生を「コントロール」し、遺伝子が発生の「プログラム」を実体化するというたとえが、非常に誤解を招くものだと論じています。彼はこう書きます。「遺伝子の機能について最も単純かつ唯一厳密に正しい見方は、遺伝子は細胞に、ひいては生物に、(ひいては環境にも?)化学物質を供給するというものだ。」また、「遺伝子の生産物が必要とされるとき、遺伝子自体の創発的な性質ではなく、環境からの信号がその遺伝子を発現させる。[18]」もし遺伝子が生物学的自己であるなら、それはデカルトのいう自己の属性をほとんど持っていません。これは投影なのです。遺伝子は管制センターではなく、細胞の頭脳でもありません。実際、有核細胞は遺伝子がなくても数ヵ月間生存することができ、移動、食物の消化、老廃物の排泄、ガス交換、他の細胞とのコミュニケーションなど、環境への対応能力を損なうこともありません[19]。タンパク質部分の消耗が始まると、細胞の機能は劣化を始めます。

遺伝子を自己のたとえと見るなら、私たちが一部をなす大きな全体に対して、自分の才能を貢献するために、私たちは存在しているのです。私たちを取り巻く環境の何かが私たちに呼びかけ(遺伝子の発現を活性化させて)、その人に特有な能力を私たちは提供し、それが他の人々の貢献も促します。これは私利私欲の最大化などでは全くありません!

微生物学者のブルース・リプトンが提案する細胞の概念モデルは、遺伝子の役割を明確に示します[20]。彼によれば、細胞の頭脳は核ではなく、じつは細胞膜なのであって、それが受容タンパク質を介して細胞外の環境を感知し、その情報をエフェクター・タンパク質によってDNAなど細胞内部への指令に変換するのです。これはまさに脳が行っていることと概略レベルで全く同じなのだと彼は見ます。遺伝子は自分でスイッチをオン・オフすることはできませんが、細胞膜が化学伝達物質を使ってするのです。核やリボソームは単なる製造施設であって本部ではなく、ハードディスクであってCPUではありません。実際、細胞膜は環境との仲立ちをしていて、指令はそこから発せられるのです。つまり、支配的な自己が本部から外の非自己を操るイメージとは対照的に、私たちが環境と結ぶ関係は、環境が自己を規定すると同時に自己が環境を形作るという双方向の相互作用であって、両者の区別は曖昧です。デカルトのいう「魂の座」、つまり意識と自由意志の中心が、死んだ物質からなる機械論的な世界を眺めている、というような比喩的なモデルを、もはや生物学は提供することができません。

自他の区別をさらに掘り崩すのは、環境がDNAのオン・オフを切り替えるだけでなく、DNAをランダムでない方向に変化させることさえあるという事実です。細胞や生物、そしてそれらを通じて他の生命や環境全体が、必要な形質を生み出すために自らのDNAを改変できるのです。さらに、これらの改変は生殖系列細胞にも影響を及ぼすため、それと関連する獲得形質は遺伝する可能性があります。

ちょっと待って。私が主張したのはラマルク説じゃないでしょうか? ジャン=バティスト・ラマルクが1806年に提唱した後天性遺伝の理論であるラマルク説は、完全に否定されたはずです。ラマルク説の主唱者であるジョージ・バーナード・ショーは、1921年にこう書いています。「哀れなラマルクは、(ダーウィンの)誤った前身と名指すに値しない、粗雑な想像で言いたい放題の主張をする者として一蹴された」[21]。200年にわたって絶え間なく嘲笑されてきたにもかかわらず、ラマルクの基本的な考え方はますます正当性を得つつあります。危機に瀕しているのは単なる進化のメカニズムに留まりませんが、それはラマルクの理論が、「キリンは何世代も高い葉に届くように首を伸ばし、その長い首が次の世代に受け継がれた」などという、しばしば嘲笑の対象となるような単純なものではなかったからです。彼の考えの核心は次のようなものです。

動物の習性や生活様式を生み出すのが身体や各部分の形状なのではなく、その反対に、習性や生活様式、その他あらゆる環境の影響によって、動物の身体や部位の形状は長い年月をかけて形成されてきたのである。新しい形状によって新しい能力が獲得され、自然は徐々に私たちが実際に目にするような動物を作り上げることができたのだ。[22]

もちろん、遺伝子によって遺伝と形態が説明できるという知識を通して、私たちはラマルクの理論を解釈しなければなりません。この理論が成り立つためには、獲得形質が遺伝子の変化から生じ、その遺伝子が次の世代に受け継がれる必要があります。現代のラマルク説では、このような変化が目的をもった適応によって一生涯のうちに獲得されるとしますが、ネオダーウィニズムでは、それらはランダムな突然変異からしか生じないとします。したがって、ラマルク説を完全に否定すると称した実験は、実際にはラマルク説の検証には全くなっていません。ワイスマンがマウスを使った実験では、何世代にもわたって尻尾を切り落とし続けたところ、次の世代は常に正常な長さの尻尾を持って生まれてくることが分かりましたが、せいぜいラマルク説の矮小化され歪曲された戯画を打ち壊したに過ぎません。

もし獲得形質が遺伝するのであれば、この遺伝が生物と環境の両方の目的を反映するという可能性が開けます。ショーはラマルクを次のように解釈します。「その長い首はどうやって手に入れたのだろうか? ラマルクならこう言うだろう。木の高いところにある柔らかい葉を手に入れたいと望み、必要な首の長さを実現させることに成功するまで試したのだと。」言い換えれば、進化は望むことによって、意図することによって起こるのです。ショーはこう続けます。

別の答も有り得た。つまり、先史時代のある畜産家が、自然の珍奇さを生み出そうと、見つけうる限り首の長い動物を選び、それを繁殖させ、ついには意図的な淘汰によって首が異常に長い動物が進化したということだ。それは競走馬やクジャクバトが進化したのと全く同じことだ。これらの説明はいずれも、動物自身の側か、あるいは動物の運命を支配する優れた知性の側に属する、意識や意志や、設計や目的が関係しているのが分かるだろう。ダーウィンが指摘し、ダーウィンの有名な発見となったのは、まさに第三の説明が可能だということだった。そこには、動物のであれ他の誰のであれ、意志も目的も設計も関係なかった。首が短くて食物に届かなければ死ぬだけだ。それは、葉を食べる動物で生き残っているものは全て葉に届くほど長い首か鼻を持っているという事実の単純な説明だろう。こうして、首が食物に届くよう設計されているに違いないというあなたの信念はとどめを刺される。だがラマルクは首が最初からそのように設計されていたとは考えなかった。長い首は願望と努力によって進化したものだと確信していたのだが、そうとは限らない、とダーウィンは言ったのだ。…葉を食べる動物の平均的な体高が4フィートだとして、全ての木の地面から4フィート以下が食べ尽くされるまで動物の数は増えるとしよう。すると、たまたま平均に1、2インチ足りなかった動物は餓死することになる。たまたま平均より1インチほど高い動物たちは、みな他の動物たちよりも良い餌を得て強くなる…。そしてこれが重要なのだが、人間であれ神であれいかなる育種家の介入もなく、空腹を満たすという盲目的な意志を超えた意図や目的、設計や意識などは存在しないのだ。この盲目的な意志こそが事実上の生きる意志であって、問題の全てを解明してくれるのは確かだが、それでも、ラマルク説の動物が聡明な目で物事を見極め試行錯誤を重ねたことに比べれば、ダーウィンの過程は偶然の産物だといえよう。だからこそ、それが簡単なことのように思えるのは、それが含んでいることの全てに最初は気づかないからだ。だが、その重要性の全体像が明らかになるとき、あなたは心の中で砂山に呑まれる。そこにはおぞましい宿命論があって、美と知性、強さと目的、名誉と願望を、恐ろしく忌まわしい方法で矮小化する。…これを自然淘汰と呼ぶのは冒涜だが、〈自然〉が生気もなく死んだ物質の無造作な集合体でしかないと考える多くの人々にとっては有り得ることだ。

まったく皮肉なことに、インテリジェント・デザインと偶然の産物以外の「第三の説明」を提供しているのが新ラマルク説ネオラマルキズムであり、外部の設計者や計画者がいなくても、「意識、意志、設計、目的」が進化を導くことができるとします。そして、この異説の全容を明らかにするために強調しておきたいのは、生物や細胞がDNAを改変するというだけではなく、自他の区別はいっそう不明確になるということです。体外の環境も遺伝子の改変に関与していて、そうすることで、生物としてだけでなく、共同体や生態系、地球…、もしかしたら宇宙の目的にさえも貢献するのです。

言い換えれば、単にキリンが高い葉を取ろうと望んだり、原生人が道具をつかむ手を望んだりしたというだけだけではないのです。環境に空いた隙間ニッチは進化を牽引します。展開するパターンが生き物を引き寄せ、必要な役割を担わせます。つまり、世界もそれを望んだということなのです! たとえて言うなら、私たちの才能や潜在能力は人生の機会や世界の求めによって呼び起こされるのです。もともと宇宙とは無関係に存在していたものを、意識を持たない宇宙に力ずくで押しつけるのではありません。魂の進化であれ生物種の進化であれ、全ての進化と協調して展開するのです。「ラマルク説」が蔑称扱いされるのは、その教義が避けようもなく目的論的だからです。

遺伝的変化とは、ランダムに発生した候補を無計画に選別しただけのものではないということが、私たちの文化にあるコントロールの企てにとって大問題なのは、それが私たちを「自然の支配者にして所有者」だとするイデオロギーを根底から覆すからです。ダーウィンの図式で、生命の究極的な目的は生き残ることですが、ラマルクの図式では意志や意図が絡む高い種類の目的を認めます。もし自然の形態やシステムが目的を表現しているのだとしたら、私たちは自然に対する絶対的な宗主そうしゅ権を疑わねばならず、私たちが無制限に自然を操作できるという思い込みを疑わねばなりません。特に自然の目的を知らずにそうしている場合はなおさらです。盲目的で無目的な宇宙で、私たちは完全な自由をもって好き勝手を行うことができますが、それは、私たちが侵す可能性のある自然の秩序など存在しないし、干渉するような運命も存在しないからで、実際、私たちが創り出した運命以外に運命など無いのです。しかし、世界のあり方に目的が内在しているのであれば、科学の方向性は、コントロールのための理解から、自然の目的に寄り添うための理解へと変わらざるを得ません。「私たちは何のために存在するのか」と自問して、私たちは地球と宇宙における本来の役割と職務を模索するのです。この移行は、ここに記した新たな科学パラダイムから必然的に生じるはずであり、私たちが自然に対する支配者意識を放棄し、自然の謙虚な学び手となることを意味します。

分断と競争と生存不安という文化的なレンズを通して自然を観察してきた私たちは、自然が常にそのように機能しているわけではないという事実に長い間気づいていませんでした。にもかかわらず、遺伝子変化の非ランダム性を示す証拠は増え続けています。生物がストレスに曝されると遺伝子の変異率が上昇することが、現在では広く受け入れられていますが、これはおそらくストレス要因に適応する突然変異の生じる可能性が高まるためでしょう[23]。この合意を反映して、『ネイチャー』誌の最近の記事はこう論評しています。「ストレス反応が突然変異を引き起こすのは理にかなっており、遺伝的変異を増大させる〈選択された〉特徴である可能性があるため、生物の環境適応が最適とはなっていない場合、ストレス下での〈進化可能性〉を増大させる。突然変異のほとんどは有害か中立だが、まれに適応に役立つ突然変異も起こるのだろう。[24]」最近の研究では、この「ストレス」は食料不足という当たり前の出来事でもよく、突然変異の加速がバクテリアのもつ普通の特徴であることを示唆しています。このような突然変異は依然としてランダムだと考えられていますが、ストレスによる突然変異の誘発は標準的な利己的遺伝子理論にとって非常に大きな問題です。淘汰の単位は遺伝子であり、生物ではないのです! 突然変異性など次世代での遺伝子複製を促進しないような方法で生物に利益をもたらす遺伝的特性は、不利に選択されることになります。

それよりはるかに物議を醸すのが適応変異と呼ばれる概念で、ジャン=バティスト・ラマルクの時代から生物学で断続的に様々な形で登場してきました。これは1988年にジョン・ケアンズによって再び提唱されたもので、突然変異は完全にランダムなのではなく、何らかの形で適応的な目的への偏りがあると主張します[25]。ケアンズは大腸菌の遺伝子を操作して乳糖消化酵素の産生を無効化し、その大腸菌を乳糖しかない培地に入れました。驚いたことに、この無効化された遺伝子は酵素を産生する元の型に変異しました。変異は全ての菌に起きたわけではありませんが、乳糖以外の栄養源を与えた対照培養菌よりも高い比率で起きました。この発見はストレスが誘発する変異率の(ランダムではありますが)全体的な上昇で説明できるというのが科学界の合意ですが、突然変異が本当に適応的かもしれないという考えを支持する他の研究もあります。B.G.ホールの研究で、大腸菌の同じような突然変異が、飢餓状態で糖質アルブチンを利用可能にするよう起きるのを発見しましたが、それは培地中にアルブチンがある場合だけだったのです[26]。突然変異はそれが有用なとき特に高い割合で起きました。他の研究で分かっているのは、ストレス下で増加する変異率はゲノム全体に均等に分布しているわけではなく、有益な突然変異を生み出す可能性のある領域に限って非常に高くなることです[27]。この論争は今日も続いており、正統派の意見では、ストレスによる変異誘発性の亢進で適応変異を完全に説明でき、したがってダーウィン説を維持できると主張しています。

主流派が真の適応変異を忌み嫌うのには、いくつかの理由があります。評論家の中には、どのような突然変異が有用であるかについての「不気味な予知能力」[28]が必要になってしまうと感じる人もいるようです。個人的には不気味な予知能力が大好きなのですが、適応変異にそれは必要ありません。必要なのはDNAが環境からの信号を感知し取り込む方法だけであり、言い換えれば、DNAが生物を仲立ちとして環境を改変するように、環境がDNAに語りかけ、目的を持ってDNAを変化させる方法です。適応変異は遺伝子と環境の密接な結びつきを意味し、生物学的自己の定義そのものに疑問を投げかけます。遺伝子が環境に反応するというのはおごりであって、環境が遺伝子を形成するとも言えるのです。

これが起こる正確なメカニズムは不明で、そのほとんどが未解明なのは、自然がそのようには働かないという考え方が広まっているからです。とはいえ、すでにいくつかの事例が確認されており、興味深い憶測もあります。主流の生物学で長らく受け入れられてきたのは、逆転写酵素によってRNAがDNAを書き換えること、そして免疫細胞内の抗体がそれを作り出すDNAの改変を助けることです。より急進的ですが今では広く受け入れられているのは、DNAの二重らせんを包んでいるエピジェネティック・タンパク質も、遺伝子の発現方法に影響を与える遺伝情報を持っているという観察結果です。さらに、これらのエピジェネティック・タンパク質は遺伝性の環境修飾を受けることもあります。さらに急進的な説では、電磁波などの波動が遺伝子の変化を誘発する可能性もあると提起します。最後に触れておきたいのはジョンジョー・マクファデンの非常に巧妙な取り組みで、「不気味な予知能力」を量子ゼノ効果によって進化論の中に取り戻そうとするものです[29]。彼の主張の全貌は本章の範囲に収まりませんが、彼の確信の要点は、遺伝子が量子状態の重ね合わせを利用して、起こり得る変異の探索空間全体を見渡し、その生存率が自分の子孫の観察者オブザーバー効果によって確認されるということです。

そのメカニズムが何であれ、単なる自然淘汰を超えた仕組みによって環境が遺伝子に影響するという証拠が増えつつあります。実際、長らく証拠は積み重ねられ、ダーウィニズムのドグマに囚われることの無かったチャールズ・ダーウィンは1888年に次のように認めています。

私の考えでは、私が犯した最大の誤りは、自然淘汰とは無関係に、環境、すなわち食物や気候などが与える直接的な作用に十分な重きを置かなかったことである。…私が『種の起源』を書いたとき、そしてその後数年間は、環境の直接的な作用を示す良い証拠はほとんど見つからなかったが、今では多くの証拠が見つかっている。[30] (強調は筆者による)

もしダーウィンが1888年に気付いていたなら、なぜほとんどの生物学者は現在もこの「良い証拠」を無視しているのでしょうか? 実際、現在の証拠は遥かに膨大なものになっています。形態と行動の「管制センターとプログラム」であるDNAの優位性と、自然淘汰のみによって駆動されるDNA進化のランダム性についての組織的な主張は、証拠から来るものではなく、私たちが何者であるかについてのより深い文化的な思い込みに由来します。

適応変異がもたらす挑戦は、私たちの文化における世界と自己に対する二元論的観念の核心を突くものです。かつて「目的」は、心理学の「意識する自己」(あるいは少なくとも生物学の「知覚する自己」)に限られた領分でしたが、今では個々の行為者(つまり計画者)の枠を抜け出して、世界全体が持つ性質となります。もはや遺伝子は、必ずしも自分の利益のためだけに行動するわけではなく、後述するように遺伝子が属する生物にとっての利己的な利益のために行動するわけでもありません。遺伝子は(ただ生き残るという)目的の源ではなく、生物と環境が目的を実現するための手段なのです。その場合、どのような意味で遺伝子は生物学的自己の中核なのでしょうか? そう、遺伝子は身体を作るための遺伝情報を伝えますが、それを発動するのは外部からの信号です。またこの情報は不変でもなく、必要に応じて簡単に改変できます。この「遺伝子を改変するもの」のほうが、自己の定義として適切ではないでしょうか? 私たちのデカルト的直感は、究極の支配者がどこかにいるはずだと語ります。しかし、この発動者や改変者もまた個別の存在ではなく、細胞であり、生物であり、環境でさえあるのです。もはや自己はそれほど厳格に定義できるものではなく、したがって自己利益も同様です。私たちは何者でしょうか? この問いに明確な答はありません。目的によって適切な答は異なりますが、完全なものはありません。自然淘汰の優越性は、それが作用する個別の自己をり所としますが、いま私たちが知りつつあるのは、自然淘汰の主体である生物学的自己は個別的なものではなく流動的なものであり、遺伝子で満ちた空間へと徐々に融合していくことです。

適応変異の直接的な証拠はまだ曖昧なものです。しかし、複製するDNAのランダムな突然変異に対する自然選択が進化の原動力ではないとすれば、私たちは生命、その起源、そしてその進化について、個別の遺伝的主体間の競争に頼らない首尾一貫した理解を構築しなければなりません。幸いなことに、今まさにそのような物語が生まれつつあり、主流の生物学へと徐々に浸透しつつあります。その物語では、競争と並んで協力が生物間の関係を定義し、流動的な遺伝子の境界をまたぐ共生と融合が進化を促し、生物の内と外の両方から目的が生まれるのです。もはや生物学は競合する個別ばらばらの自己についての学問ではなくなり、その考えが世界のあり方についての直感を伝えることもなくなるのです。


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注:
[18] H.F.ナイハウト[Nijhout, H.F.], 『Metaphors and the role of genes in development.(メタファーと発生における遺伝子の役割)』 BioEssays, vol.12 (1990年) p.444-446.
[19] ブルース・リプトン[Lipton, Bruce.] 『The Biology of Belief(信念の生物学)』 Mountain of Love Productions, 出版前の草稿、ページ番号なし。
[20] 同上。
[21] ショーの戯曲『メトシェラに帰れ』の序文より。この注目すべきエッセイの全文を読む価値はあり、ダーウィンのパラダイムの精神的な影響の多くを雄弁に語っている。
[22] ジャン=バティスト・ラマルク[Larmarck, Jean Baptiste,] 『Philosophie zoologique, ou exposition des conside’rations relatives a` l’histoire naturelle des animaux (動物学の哲学:動物の自然史に関する解説) 』、1809年。ヒュー・エリオット・マクミランによる英訳、ロンドン1914年、シカゴ大学出版局より再版、1984年
[23] この主張を裏付ける研究は枚挙にいとまがない。多くはバクテリアを使って行われた。例えばL・ロエベ [Loewe, L. ], V・テクスター[Textor, V.], S・シェーラー[Scherer, S.], 『High deleterious mutation rate in stationary phase of Escherichia coli.(大腸菌の定常期における高致死突然変異率)』 サイエンスvol. 302 (2003年), pp. 1558-1560
[24] スーザン・M・ローゼンバーグ[Rosenberg, Susan M.] 、P・J・ヘイスティングス [P.J. Hastings,]『Genomes: Worming into Genetic Instability(ゲノム:遺伝的不安定性へのワーム)』, ネイチャー vol. 430, 2004年8月5日, , pp. 625 – 626
[25] J・ケアンズ[Cairns, J.]、J・オーバーバウ[J. Overbaugh:、S・ミラー[S. Miller,] 1988年『The Origin of Mutants(ミュータントの起源)』 ネイチャー vol. 335, pp. 142-145
[26] B・G・ホール[B.G. Hall,] 『Activation of the bgl operon by adaptive mutation(適応突然変異によるbglオペロンの活性化)』, Molecular Biology and Evolution. 1998年1月15日, pp. 1-5.
[27] スーザン・ローゼンバーグ[Rosenberg, Susan.] 『Evolving Responsively: Adaptive Mutation(応答的進化:適応変異)』 ネイチャー Reviews Genetics , vol. 2, 2001年, pp. 504 -515. 本論文は適応変異に関する研究の現状を包括的にレビューしたものである。
[28] T・ビアズリー[T. Beardsley,] 『Evolution Evolving(進化する進化)』サイエンティフィック・アメリカン, 1997年9月, pp. 15–18
[29] ジョンジョー・マクファデン[McFadden, Johnjoe,] 『Quantum Evolution(量子進化)』, Norton, 2001年.
[30] チャールズ・ダーウィン[Darwin, Charles,] 1876年のモリッツ・ワグナーへの書簡、英国王立協会紀要(vol. 44, 1888年)の訃報に引用。

訳註:本節のタイトル「自然の目的(The Purpose of Nature)」は、前節のタイトル「目的の本性(The Nature of Purpose)」と対になっている。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-6-05/

2008 Charles Eisenstein


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