目的の本性(前)
訳者コメント:
ジェームズ・ラブロックが提唱した「ガイア理論」は、地球全体が「あたかも生きているかのように」温度や塩分や酸素濃度を一定に保ってきたことを科学の世界に受け入れさせましたが、ラブロック自身はそれを個々の生物の働きによる還元主義的な理由で説明可能だと主張したのです。それが科学を説得するために有効だったのですが、ガイア理論が多くの人々に呼び起こしたのは、世界が持っている目的論的な意味合いでした。
還元主義に基づく科学が忘れ去ろうとしている目的論ですが、それを通して世界を見るとき、私たちがここにいる「理由」へと思いは至ります。利己的な遺伝子が弱肉強食の生存競争を勝ち抜くという以外の、目的があるはずなのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
6.4 目的の本性
還元主義の論理には、理解の手段としてもコントロールへの道としても、絶対的で本質的な限界があるという認識が、私たちを自然との新しい関係へと誘います。創発現象が私たちに求めるのは、部分の働きによって全体の働きを説明しようとするのではなく、全体の目的に従って部分の働きを説明することも、時には受け入れねばならないということです。この関係のあり方が求めるのは、物事の根本的な〈原因〉や〈理由〉を探すのではなく、〈目的〉を探すことです。このような理解を表す言葉が目的論(テレオロジー)であり、物事を将来の目的に向かって牽引する、一種の因果律です。
この二つのレベルの説明は補完的なものであって、矛盾するものではありません。スチュアート・カウフマン氏の提供による例を紹介しましょう。バクテリアがグルコース濃度勾配の中を泳ぎながら餌のある方に向かっているところを想像してください。還元論的な理解では、「何が本当にその方向に向かわせているのか?」と問うことになり、グルコース受容体がどのように働くのか、どのようなタンパク質メッセンジャーを発動させるのか、それらがどのように細胞膜の変形を引き起こし、運動を発生させるのか、などを観察することによって、その疑問に答えることになるでしょう。目的論は、同じ分子レベルの現象を逆の方向から理解するという方法を取ります。そのような物事は、バクテリアが餌に向かって移動できるように〈するために〉起きているということになります。本質的に、還元論は「何がそう〈させる〉のか?」を問うのに対し、目的論は「なぜそうするのか?」を問います。この言い回しから明らかなように、還元論は工学やコントロール(つまり、物質に特定の振る舞いを〈させる〉)という心理構造と自然に結び付く一方、目的論の問いかけは、まだ発見されていない目的を前提としており、それゆえに注意深さと敬意を育むことになります。
イデオロギーを別にしても、科学者は目的論の考え方をかなり日常的に使っています。生態系の隙間が空いていると、それを埋める生物種を引き寄せるという見方で考えるなら、それがどうして起こるか説明するのに還元論的な動作原理を持ち込んだところで、それは目的論の論法なのです。同じような目的論の論法は、鳥が冬に南へ飛ぶ理由、サケが産卵期に川を遡上する理由、クマが冬に冬眠する理由の説明も与えてくれます。テクノロジーの歴史でも、目的論が働いているのを見ることができます。技術者は、より大きな全体の必要を満たすために部品を開発します。実際、多くの部品は、より大きな全体がすでに存在した後に初めて登場しました。例えば自転車の変速機です。なぜ発明されたのでしょうか? 還元論的に答えることもできるでしょうが、最も明確な答は「自転車が変速できるようにするため」というものです。これが「本当の」理由ではないと言い張るのは単なる教条に過ぎません。還元論と目的論は、同じ現実を見るための二つのレンズです。多くの現象は「その目的は何なのか?」という目的論の説明でしか理解できません。たとえ還元論的な説明が可能であっても理解の助けにはなりません。(非線形システムでは還元論的な説明が不可能なことも多いのです。)ではなぜ私たちは還元論的な説明を強調するのでしょうか? なぜ私たちは、落とし込み抽象化し測定することができる特性を、全体が持つ創発的な特性よりも〈本物〉だと勝手に宣言するのでしょうか?
その理由の一つは、目的論的な理解が絶対的な確実性とコントロールのどちらも与えてくれないからです。私たちはしばしば、何かがどのように働くかを知ることなく、それが何をするものかを理解しますが、どのように働くかを知ることでしか、それをいつか人工的な代用品で置き換えることはできないのです。ニンニクには抗真菌作用があることが分かるでしょう。還元論的な〈理由〉、つまり「活性成分」が分かれば、それを分離し、おそらくは合成することができ、ニンニクはもう必要でさえなくなります。私たちはリンゴが美味しいことを分かっています。化学者が風味の因子を分離すれば、リンゴがなくてもリンゴの風味を再現できます。このようにして私たちは自然を超越し〈テクノロジーの計画〉を達成するのです。私たちは土壌の肥沃度がバクテリアに依存しているのを分かっています。その理由が正確にわかれば、技術的な手段でバクテリアの機能を代行することで、バクテリアを駆逐できるかもしれません。私たちは森林の健全性が頂点捕食者の存在に依存しているのを分かっています。捕食者の働き(シカ捕殺数の分布など)を正確な記述に落とし込むことができれば、その機能を再現することができ、捕食者は必要なくなります。このイデオロギーの最終的な成就は、完全に人工的な現実の中にあらゆる自然の機能を再現することであり、切り離された人間の領域を全体にまで押し広げることです。
目的論的な説明では、このような力は得られません。全体の論理が部分の進化を導くと考えるならば、私たちが認識しなければならないのは、身体、生態系、生物圏の各部分には目的があって、たとえその構成要素を全て測定したとしても、完全には理解できないかもしれないということです。あらゆる物に目的があることを意識すれば、もう私たちは傲慢に自然を改良しようとはしなくなります。その一方、目的の無いことが〈私たち〉を宇宙の支配者にします。私たちが邪魔をするような崇高な計画もなければ、乱すような自然の秩序もないのです。
今では、そのような傲慢さが見当違いであることを私たちは発見しつつあります。かつて何の役にも立たず無駄だと考えられていた自然や身体の構成部品が、実は全体の健康や完全性を維持するために、思いもよらない機能を持っていたのです。私たちの「改善」につきまとう隠れたコストは、こうした目に見えない機能に起因するものですが、そのために更なる改善策を講じることになります。目的論の観点からすれば、技術的対策とコントロールの計画が失敗することは避けられません。
「何のためなのか」という目的論的な問いは、その質問の対象に対しても、その対象を内包し目的を与えた宇宙に対しても、本質的に尊敬の念を持つものです。それが単なるモノ以上のものであり、世界が単なるモノの集合体ではないと考えさせます。「何のためなのか」という問いは、世界の物体やプロセスに、個性、自我、唯一性、生命を与えますが、それは標準化可能で無個性な構成要素として説明のつかないものです。「何のためなのか」という問いは、世界を〈それ〉から〈あなた〉へと変えるのです。
「何のためなのか」を他の人々や社会に適用すると、その結果は同じように深いものとなります。それは、人間を標準化された交換可能な部品にするという〈機械〉の計略を覆し、地域固有の関係性や伝統といった社会資本を無個性な貨幣へと転換することに抵抗し、人間を型にはめて完璧な社会を構築する膨大な数の構成部品のようにするという社会工学者の夢を打ち砕きます。人は「人材」などではなく「資産」でもありません。世界とそれが含む全てのものは、私が使うために置いてある道具の山ではありません。世界にはすでに目的があり、有機的な必然性があるのです。
個人のレベルでは、目的論は尊敬の念を育みます。目的論とは対照的な利己的な遺伝子の世界では、各々の生存マシーンは自らの利益を最大化するために競合する生存マシーンを操作します。また経済学的な見方では、私に何の得があるかという損得勘定の取引モデルに従って人間関係を分析します。目的論を通して他の人々を見るなら、「それ」の集まりなどではなく、自らの目的と運命を持つ「あなた」たちなのだと分かります。好きなように操れる資源ではなく、別の自己たちとして見るようになります。私たちは現実に抵抗しコントロールしようとすることをやめ、人間関係を通じてしか見出せない内なる目的に自分を沿わせようとします。私たちは人を利用することをやめ、人を知ろうとします。
他人と同じことが、自分にも当てはまります。目的論が呼び起こす人類永遠の問いは、「なぜ私はここにいるのか?」というものです。私たちが受け継いできた科学にはその答えがなく、答を出す能力もありません。遺伝学や人類の起源という言葉で説明しても答にはならず、じつは答とは逆のものです。あなたがここにいるのは、あなたの祖先が生き残ったからなのだ。これ以上の答が不可能なのは、目的が存在せず原因があるだけだからです。幸いにも、その空虚なイデオロギーは崩れつつあります。先に私は「私たちは人を利用することをやめ、人を知ろうとします」と書きました。それを自分に当てはめると、個別の自己という幻想をほんの束の間でも誇示するために自分の才能を利用するのではなく、自己認識を通して自分の目的を知ろうとします。そのような目的がある、あるいは存在しうると信じることが、「なぜ私はここにいるのか」という問いに答えがあると信じることさえもが、すでに人生を力づけてくれます。その目的が何なのかを見出さねばならないという切迫感を生むのです。〈機械〉が差し出す標準化され圧搾された人生のような、他のどんな人生も耐え難いものになります。自尊心、つまり自分に対する尊敬の念が、自分の目的に従って生き、それを果たそうとすることを求めるのです。
「私たちはただここにいるのではなく、理由があってここにいるのだ。」こんな陳腐なスピリチュアルの決まり文句を書いたことは今まで無かったと思いますが、それでもこれは真実です。それを骨の髄まで感じることができますか? 若者たちはそれを最もよく知っていて、その認識を私たちは理想主義と呼ぶのです。世界にはあるべき姿というものがあり、より美しい世界における壮大な役割が自分たちにはあることを、若者たちは知っているのです。私たち大人が提供する劣った生活に打ちのめされた若者たちは、敵意、怒り、皮肉、抑うつ、逃避、あるいは自己破壊で反応しますが、それら全てが現代の思春期の特質となっています。そして私たちは、若者がそのような特質をコントロールできないことを非難し、最終的に理想主義を捨てたとき、彼らを成熟したと呼ぶのです。理想主義を捨てたら、生き残るための仕事に取り掛かることができます。実用性と安心、快適性と安全。目的のない私たちにはそれしか残っていません。そこで私たちは若者に、何か実用的なことを専攻し、トラブルに巻き込まれず、リスクを冒さず、良い履歴書を作るように勧めます。私たちは自分が現実的で世の中の道理に通じていると思っています。本当は、私たちは打ちのめされ恐れているだけなのです。私たちは若者に代わって恐れているのであり、卑近な言い方をすれば、私たちが恐れるのは彼らの理想主義が私たちに見せるもの、つまり私たち自身の若い可能性が略奪され裏切られているということなのです。目的の回復、つまり科学の言葉に目的論を受け入れることは、直接的であれ比喩的であれ、その全てを覆すことを約束してくれます。
残念ながら、ほとんどの科学者にとって目的論はいまだに受け入れ難く、魔術や迷信にも等しいものです。そう、とりあえず私たちは、バクテリアが餌のほうに行きたいのだと言うことはできますが、「行きたい」が本当に意味するのは一連の生化学的状態なのだと知っています。第一義的な現実は分子レベルにあるのだ。目的論的な説明は本当の説明ではなく、推測に基づいた便宜的なものにすぎないのだ。この見解がもはや通用しない理由は、この章で既に説明しました。しかし皮肉なことに、それは科学が拒絶する宗教の見解と完全に一致していますが、それは両者がともに、目的は物質に内在する本当の性質ではないと同意しているからです。
ガイア理論の共同提唱者であるジェームズ・ラブロックは、彼の理論に批判者がつける「目的論」という蔑称を振り払うため多大な努力を払ってきました。ガイア理論を裏付けるラブロックの見解のひとつは、地球に入射する太陽光のエネルギーが30~40パーセント増加したにもかかわらず、30億年以上にわたってほぼ一定の地表温度を維持してきたというものです。同じように、地球は大気中の酸素と海洋中の塩分濃度をほとんど一定に保っています。あらゆる生命が、無機的なプロセスも含め、この恒常性の維持に寄与しています。還元主義のパラダイムによれば、これは偶然の一致のようなもので、結局のところ、全てが上手く行くようにするために各々の生物種や生態系が今年何をしなければならないかを決める年次委員会など、存在しないのです。取締役会もなければ、全てを調整する超自然的な力もありません。ラブロックの答はデイジーワールドでした。これは単純化された温度恒常性のコンピューターモデルで、気温が上昇すると白い花が地球を覆って太陽光をより多く反射して地球を冷やす一方、気温が低下すると濃い色の花が増えて太陽光を吸収し地球を暖めます。ほら、コーディネーターは必要ないでしょう、と彼は言ったのです。
でもラブロックは本当に目的論から逃れたのでしょうか? 確かに、彼は外的な調整力の必要性から逃れてはいますが、外的な調整力と目的論を同一視するのは、私たちの二元論的な考え方だけです。なぜなら、実際ラブロックに対する批判は正しいのです。ガイア理論が提供する理解のモデルが目的論的だといえる理由は、生命現象をその原因ではなく目的という観点から理解するよう促しているからです。藻類はなぜ硫化ジメチルのガスを発生するのでしょうか? 代謝に伴う副産物でしょうか、それとも雨雲の種を蒔くためでしょうか?なぜマメ科植物の根粒菌は窒素を固定するのでしょうか? アンモニアがたまたまATP変換経路の廃棄物だからでしょうか、それとも植物が成長できるようにするためでしょうか? なぜ他のバクテリアは岩石の風化を促進するのでしょうか? 生き残るために岩石のミネラルが必要だからでしょうか、それとも大気中の炭素除去を早めるためでしょうか? これらの質問に対する最初の答えが間違っているわけではありませんが、限定的な理解にしかなりません。
ガイアの必須機能が全て満たされたという幸運は、偶然で片付けられるものでしょうか? 好気性細菌が地球上の生命を酸素中毒から救ってくれたのは、単に幸運だったからでしょうか? 私たちの存在そのものが、次から次へと起きた不条理なほどあり得ない偶然の出来事の産物なのでしょうか? もしそうだとすると、私たちは宇宙の中の孤独な存在で、運が尽きれば忘却の彼方に追いやられる運命なのは間違いありません。だからこそ、自然を支配する必要があるのです。
コントロールの心理構造は、目的を否定する根本的な科学の世界観に、緊密に依存しています。それが変わるまで、コントロールの体制は存続し、全体を覆い尽くすまで進み続けるでしょう。私たちのイデオロギーであるランダムで無関心な宇宙は、コントロールを誘う、というより、要求するのです。そして常に私たちの立場は不安定であり、不安は人生に織り込まれています。だからこそ、科学における激変が集中的に起きていることの意味は極めて重大なのです。それは単なる見解の相違にとどまらず、世界との新たな関係と、人間の新たなあり方を予兆しているのです。
「偶然で片付けられるものでしょうか…単に幸運だったからでしょうか…次から次へと起きた不条理なほどあり得ない偶然の出来事…」という言葉を読んだとき、私が代わりに〈神〉を持ち出そうとしていると思いましたか? 神学者たちは長い間、自然の不気味なまでの調整を〈神〉の証拠として挙げ、思い上がりや絶望や略奪の許可が機械論的世界観に暗黙のうちに含まれていることを、私と同じように指摘してきました。「見てみなさい、神を信じないとどうなるか」と彼らは尋ねます。物質の世界と肉体の生活には神聖さがないと考える宗教者たちは、外部の神を呼び起こして人生に意味を与えます。同じように、秩序や美が自然発生することに気付かない彼らは、生気がなくランダムに相互作用する物質でできたこの宇宙に、秩序と美と生命を吹き込むため、創造主たる〈神〉、あるいは「知性ある設計者」たる〈神〉を呼び起こします。
私たちは長い間、宗教者のいう外的で超自然的な〈神〉を、無関心で機械的で無目的な宇宙に代わる唯一の選択肢と見てきました。もうその必要はありません。数学、化学、生物学的システムにおける組織性の自然発生は、第三の選択肢を与えます。私たちが目にする協調性、目的、美しさが、物質から切り離すことのできない性質だとしたらどうでしょう? 神性が現実の有機的な性質だとしたらどうでしょう?
私たちは二元論的な考え方に染まり切っているため、自然に目的があるとしても、超自然的な意図をもつ力、つまり〈神〉によって外から規定されたもの以外、ほとんど想像することができません。物質世界の外にいるそのような〈神〉は、定義からして科学の対象外です。とはいえ、自然を超越し、自然から切り離された力としての〈神〉という概念の全体は、農耕と同じくらいの歴史しか持っておらず、その時代に勢いを増した他の二元論的な分断を映し出していることを忘れてはなりません。しかし、人生の意味や意義に対する人間の直感は、超自然的な〈神〉を伴う農耕よりも前から存在していたことは確かで、意味の付与者、目的の設計者を世界の外に想定しなければならないのは、二元論的な心だけだということを示しています。
(後半につづく)
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-6-04/

