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勝者と敗者

訳者コメント:
自他の二元論が支配する現代社会では、どの宗教にもある「自分を愛するように他人を愛せよ」という教えは曲解され、神の罰を受けない限り何をしても良いことになってしまいました。他人に優しくする理由は、閻魔大王に怒られないためなのです。私たちがすべきなのは、自分自身に制約を課して、善き人間であるように「頑張る」こと、ということになります。世界から切り離し不完全な存在となってしまった自分を補うには、自らが勝者となって、敗者の世界から奪い取ったものを自分の周りに蓄積する努力を永遠に続けるしかありません。でもそれは逆効果で、ますます疎外感の牢獄に落ちてしまうのです。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


5.2 勝者と敗者

二元論に支配された私たちは、世界を基本的に無限と有限の二つの部分に分け、有限ゆえコントロールに従う世界の中だけで生きようとしてきました。私たちは井戸に飛び込んだ蛙のように、他の何も見ることができず、その向こうに広がる広大な世界を思い出すこともできないまま、全宇宙の宗主そうしゅだと宣言したのです。私たちが自然を支配することの本質にひどい自己欺瞞があるわけは、その第一歩から怒濤のごとく自然を矮小化しようとするからです。それは生命の矮小化であり、体験の矮小化であり、感情の矮小化であり、存在の矮小化でもあります。それはまさにファウストのような、無限と有限の取引です。

この矮小化は様々な姿で現れ、様々な名前で呼ばれています。それは野生の飼い慣らしであり、自然の測定と定量化であり、文化、自然、社会、魂の富をお金に換えることです。生命を矮小化するのですから、暴力は必然的に付きまといます(じっさい暴力の定義として、生命の矮小化以上のものはないと思います)。しかし、それゆえ何千年もの間、私たちの文明に流血を招いてきた暴力が高まって熱狂的な頂点へと近づき、現在も進む全面的な破壊行為は、生物種、海洋、生態系、言語、文化、そして民族の全体にまで及んでいるという結論に達するのです。

いちご畑の草取りから、子供への無理強い、国家安全保障の名の下に敵を排除することまで、世界を手なずけ支配することは、本質的に暴力を必要とします。暴力は私たちの世界観に組み込まれた特徴であり、生存競争する個別の他者からなる宇宙の中で、自分自身を別の存在として考えることの中に、暴力は暗黙のうちに含まれていて、さらには他の存在や生物種や人々、そして地球自体をモノ扱いすることが、それらに対する暴力を可能にし、正当化するのです。それが単に雑草や動物や、野蛮人や敵や、単なる物であるうちは、暴力が暴力ではないように見えます。被害者の非人間化は、拷問や大量虐殺を可能にする手段としてよく知られていますが、非人間化、つまり人間をモノに変えることは、私たち自身を世界から切り離すことの特殊な例に過ぎません。この切り離しが人為的な錯覚である限り、暴力の根本原因は明らかです。それは単に、自分が何者であるかを知らないという、最も深い種類の無知の結果なのです。

こうして、人類史における偉大な平和の化身たちが勧めたのは、自制心を強めることではなく、いい人であろうとする努力を強化することでもなく、むしろ本当の自己に身を委ねることだったのです。本当の自己とは、現在の科学や宗教に見られる個別ばらばらの自己ではありません。仏陀が示唆したのも同じことでした。彼のオーラに目を奪われた人々から「あなたは何者ですか?」と尋ねられたとき、彼はただ、「私は目覚めている」とだけ答えました。これこそが人間の本当の姿です。そしてイエスもまた、神の愛について語ったとき、それに匹敵することを語っています。神の愛は私たちの可能性や理想像ではなく、本当の自己に対するものだということです。モーセは山頂で神の本源に「誰が私を遣わしたと言おうか」と尋ねました。その答えは「私だ」。 私とは何でしょう? 万物であり、無です。自分をバラバラに切り離しても、私たちが自己と呼ぶ特別な部分(魂、精神、心、意識)はそこにありません。したがって私たちは無なのです。私たちを宇宙の他のどの部分からでも切り離すと、私たちは小さな存在になります。したがって私たちは万物なのです。

自己と他者という区分は偽りなので、私たちが他者に振るう暴力は、けっきょく私たち自身に振るわれることになります。ここにもまた、最も由緒ある精神的な教えからの警告が見つかります。カルマ(ごう)という教義では、私たちの行動の影響は避けられないものであり、私たちが他人にすることは私たち自身にすることでもあるとしています。しかし特徴的なのは、それを現代の宗教団体が「善良でなければ罰せられる」という意味に曲解していることです。〈黄金律〉も同じように働きます[訳註1]。「何事でも人々からしてほしいと望むことは,人々にもそのとおりにせよ」という本来の意味は、二元論的な心にとっては支離滅裂で無意味なものに過ぎないので、私たちはそれを目指すべき行動基準として、つまり規則として曲解したのです。本来は、カルマの教義も黄金律も、自己の異なる概念に基づいて単に事実を記述しただけでした。

「隣人を自分のように愛せよ」 (レビ記 19章18節、マタイの福音書 22章39節、など)という声明は、同じように二元論的な誤った解釈の犠牲になりました。これを私たちは、規則ではなく単に事実の記述として解釈することもできます。隣人を愛するように、自分も愛するということです。自己と隣人は、本当は別々ではないのです。イエスは単なる道徳的な決まり文句をふれて回ったのではありません。しかし、彼が語りかけた人々はばらばらの自己という神話にどっぷり浸かっていたので、彼の教えがすぐに誤解され、現在の形で書き残されたのだとしても、何ら不思議ではありません。宗教の教えにある規範的な形と禁止的な形、つまり「すべきこと」と「してはいけないこと」は、教祖の存命中はともかく、亡くなった瞬間から全ての宗教運動を支配してきた政治権力の制度的利益と一致しているのです。

二元論的な心でカルマや黄金律の考え方に取り組む唯一の方法は、自分の外に「裁判官」の存在を仮定することです。それは人の行動を量り、応分の報酬と罰を与える宇宙的な審判員なのです。あなたと隣人が根本的に別々であるなら、あなたが隣人に対して行ったことが、必然的に自分自身にも影響を及ぼすという理由は、本質的にありません。影響に対して予防線を張りさえすれば尚更です。そのような影響をあなたに及ぼすには、全知全能の〈神〉が必要となります。したがって、自然界の外部に別個にあって道徳を強制する力としての〈神〉という考えは、分断の神話に迷い込んだ心の拠り所であり、他者に対する扱いの影響を理解するための手段なのです。このように、天上の神という考え方は短期的には有益な効果をもたらすかもしれませんが、分断の幻想を強めてしまう危険性があります。それこそが、現代のほとんどのキリスト教会で起きたことであり、人類の地球破壊を世俗的な問題として扱い、魂にかかわる喫緊きっきんの課題として扱うことはありません。

クリスチャンの何人かが言うのを耳にしたのですが、二元論的な視点から見たら、神への信仰がなければ道徳は有り得ないという言葉は、実は正しいのです。「神が存在しないなら、何だって許される。[8]」そうでないとしたら、私が隣人に悪さをするのを押し留めるものがあるでしょうか。返ってくる影響に対して十分に予防線を張っておけば良いのでしょう? 理屈の上では、逃げ切ることができます。私たちは森林を遠慮なく伐採することもできます。もしかしたら、その影響が私たちに降りかかることなど無いかもしれませんし、そうなったとしても対処することはできます。またもやこれが、コントロールされた世界へとつながって行くのです。世界を資源や物、他者として扱うことは、その実際上の影響をコントロールできるなら許されるのであって、いけないと考える理由はありません。私たちが十分に賢いなら、世の中に対して好きなことを平気でやってもいいのです。この全てが変わるのは、自己と世界、人間と自然が本当に別々のものではないと分かったときです。なぜなら、そのとき逃げ場はどこにも無くなり、いくらコントロールしようと努力したところで、避けようもないことを先延ばしにするだけだからです。私たちとは別の、全知全能の神、裁き、報い、罰する神という考えは、この理解を二元論的な心へと橋渡しするものです。残念なことに、神に対する二元論的な概念が必ず行き着くのは、神を喜ばせること、神の規則に従うこと、神の報いを得ようとすること、神の罰を避けようとすることです。つまり、コントロールの体制へと逆戻りするのです。

世界を二分する二元論は、自己と他者との間に人為的な断絶を作ることで、私たちを自分自身の一部から切り離し、部分的な存在にしてしまいます。その不完全さを埋めるために、私たちは自分自身に際限なく付け足していきます。財産を増やし、物質的・精神的な荷物を増やし、エゴを増長させ、自惚れを高めます。それは自己の領域を拡大し、全世界を支配下に置くことで従属させようとする企てです。しかし、世界を可能な限り多く所有しようと目論んでも、私たちは残る宇宙からの疎外感を悪化させるだけであり、どんなに多くのものを手に入れても、宇宙の無限を前にして、私たちは取るに足らなぬほど小さな存在になってしまいます。内なる傷、つまり自然との内なる繋がりの喪失は、雪だるま式に自己を膨らませていくことでは決して癒やすことができません。

世界の危機の根源は、生まれながらの利己主義や貪欲さを克服できないことではありません。解決策は、少ないものでやりくりすることでも、最優先の利益を犠牲にすることでも、自分自身に制限を課すことでもありません。このような解決策は、欠乏の心理から生まれるとともに、それこそが(世界の数量化と所有化の中に暗黙のうちに含まれ、無限を有限にしてしまう)欠乏の心理であって、溜め込んで蓄積し、我が物にして所有し、持ち続けて守り、囲い込んで管理する動機となります。逆の心理を考えてみましょう。「世の中に良いものはあふれている。誰にとっても十分なものがある。私に必要なものは豊かに満たされている。私は心の望みを叶えることができる。」そのような考え方で生きている人が、所有したり溜め込んだり管理したりする必要がないのは、結局のところ豊かにあるからです。先住民の狩猟採集社会を最初に訪問した者たちが驚いたのは 悪意がなく物惜しみしない寛大さでした。コロンブスが(殺害し奴隷化する前の)アラワク人について次のように書いています。「彼らはとても純真で、持つもの全てを惜しむことがない。見たことのない者は誰も信じないだろう…。何でも求められれば決して嫌とは言わない。それどころか、彼らは分かち合おうとあなたを誘い、まるで自分の心がそれとともにあるかのような愛情を示すのだ…。[9]」アラワク人は子供が本来持つ貪欲で利己的な性格を矯正し、分かち合いたいという欲求を植え付けるために、強い文化変容の手法を使ったのでしょうか? そうではないと思います。直感的に、私たちは彼らのような行動を、子供っぽく、無邪気で、悪意がないと表現します。このような形容詞が示唆するのは、彼らこそ汚れのない人間本来の姿だということです。現実と豊かさの精神にどっぷりと浸かっていたので、分かち合うことが自然にできるようになったのです。「我が物」という概念がなければ、分かち合うのは簡単です。

特徴的なのは、現代の人類学者の中には、原始的な寛大さや贈与関係を、個別の自己に対するコストと利益という経済学の観点から説明しようとする者がいることです。この論調に先鞭を付けたのは20世紀初頭のマルセル・モースで、他者に義務を負わせるための競争的手段として贈与ギフトを分析しましたが[10]、この考えはリチャード・ポズナーのような現代の理論家にも支持されています[11]。両者とも、贈与は名声を生み出す手段であり、原始社会には蓄財の仕組みがないため、一種の保険だと考えています。もし私があなたに贈り物をしたら、あなたは私に「一つ借りがある」ことになるのです。そのような動機が存在することは間違いありませんが、それを第一義的なものと見なすなら、私たち自身の文化的偏見を投影することになります。このようなイデオロギーの歪曲は、その前提を維持するために必要なのであり、私たちの文明が自己と世界をそのように理解しているということです。利他主義は、個別ばらばらの自己という観点からすると、何らかの取引モデルを持ち出して、偽装した利己主義であると示せるのでなければ、単に無意味なものとなります。

デリック・ジェンセンは、ルース・ベネディクトが文化を善(生命を肯定し、非暴力的で、平等主義的で、穏やかで、友好的で、残酷さ、厳罰、搾取、嫉妬、屈辱、憂鬱のないもの)と悪(暴力的で、攻撃的で、残酷で、戦争好きで、競争的で、階層的なもの)に分類し、それらを区別する規則や要因を発見しようとした試みについて述べています[12]。彼女の結論は次のようなものです。「非攻撃的な文化の社会形態や制度は、集団全体に利益をもたらす行為を促進する一方、集団の一部のメンバーに害を及ぼす行為を妨げ(また、そのような目標を排除し)ている。一方、攻撃的な文化の社会形態は、個人の利得を強調する行為に報酬を与えるが、その利得がコミュニティ内の他者に害を及ぼす場合であっても、あるいは特にそのような場合にこそ、報酬が与えられるのだ。」ですから、「我が物」という概念が存在しないというわけではなく、社会形態や制度が「我が物」の蓄積を妨げているだけなのです。例えば、普遍的な分かち合いの仕組みがあれば、所有物を溜め込むことは明らかに不合理となります。

しかし、「社会形態や制度」を変えなければならないと結論づける前に、もう少し掘り下げて、「これらの社会的形態や制度は、どのような基盤から生じているのか?」と問うべきでしょう。狩猟採集民は確かに平等主義的な社会を維持するための複雑なメカニズムを持っていましたが、こうした社会形態は彼らの自己に対する感覚から自然に生まれたもので、まだ「個別ばらばらのもの」という厳格な定義はありませんでした。おそらく、客観的で外面的な規則やタブー(ベネディクトのいう「形態と制度」)は、旧石器時代を経て自己の分断が進むにつれて、初めて必要となったものでしょう。いずれにせよ、より広い開かれた自己意識という適切な基盤がなければ、促進と阻止の新たな社会形態をゼロから生み出すことはできません。

私たちは訳が分からなくなっています。合理的な利己心は、私たちの文化認識に騙されて、合理的でもなく自分の利益にさえなりません。私たちの利己的な行動は表面的にそう見えるだけであり、実際それは私たちの本当に一番の利益とも相反しています。そのような行動の筆頭は、皮膚に包まれた自我エゴの利益を情け容赦なく最大化することです。私たちの破壊的な性質を制限することは、生まれついた利己的な衝動を抑えることではなく、私たちが本当は何者であるかを理解することなのです。自分が何者であるかが分からなければ、利己心が本当の自己のためになるはずはありません。それゆえ、この社会では不幸が勝者にも敗者にも蔓延しているのです。

世界が本質的に勝者と敗者を生む運命にある競争の場であるならば、そうかもしれません。ならば、勝者の仲間入りをするためにあらゆる努力をするのは当然のことです。しかし悲しいことに、私たちの社会では、勝者がじつは最大の敗者の一員なのです。今これを言うと叩かれそうです。あなたはこれを読んで、私の知識や思いやりが欠けているのではと疑うかもしれません。私たちの文化の犠牲になった者たちの恐ろしい苦しみに比べれば、金持ちの些細ささいな悩みなど何だというのでしょう? 飢餓、貧困、殺人、大量虐殺、専制政治、拷問、文化の破壊、生態系の略奪に比べれば、少々の不安や憂鬱など取るに足らないことでしょう。きっと私は、恐怖の本当の大きさが見えていないに違いありません。

私たちの文化の犠牲にされた者を数え上げたらきりがありません。先住民、貧しい人々、生態系が、富と権力の犠牲になってきました。でも、そうしなければ自分たちが犠牲にされるとしたら、搾取する側を責めることはできません。自分に良くしようとする人を、誰が責めることができるでしょうか? もし世界が本質的に「飯を食うか、飯にされるか」であるならば(こんなふうに生態学を定義することもありますが)、前者の一員になろうと努力する人を責めることはできません。そのような世界での適切な倫理大系とは、勝者が敗者に対してできる限り優しくし、貧しい人々にはセーフティネットを提供し、環境には修復を施し、勝者の程度に限度を設けることでしょう。これは要するに政治的自由主義リベラリズムであり、根本的な前提を疑問視することはありません。加えて、聖人君子やその真似をする者たちは、(その気になれば「勝者」になれるのに)わざと敗者の仲間入りをすることで、自分がいかに素晴らしい人間であるかを示し、自分の取り分以上のものを取ることを拒絶し、特権的報酬を受けるチャンスを気高く犠牲にするかもしれません。もちろん、実際に聖人でない限り、このような自己犠牲的な考え方は、勝者としての果実を享受する人々への憤りを生みますが、それは社会活動家や環境活動家にしばしば見られる憤りです。しかし、この全ての前提にあるのは、勝者が本当に勝者だということです。でもそれは欺瞞です。勝者は「合理的な自己利益」の最大化に成功しましたが、安全確実な幸福という約束は、けっきょく裏切られたと分かるのです。

金と権力を持つ者に腹を立ててエネルギーを浪費してはなりません。ボリシェヴィキが意図せずにも示したように、富裕層や権力者を打倒したところで大きな変化は起きません。しかも、その怒りはかえって逆効果となります。往々にして、活動家の言葉に隠されたメッセージは、「自分に甘えるな」、あるいは「自分に甘いのは悪いことだ」というものです。それでは多くの人が引いてしまうのも無理はありません。罪悪感や恥に頼って地球とその人々の破壊への関わりを控えるよう説得する人々は、ほとんど気付かないような方法で、そもそも破壊を推進する深い原理のいくつかを永続させているのです。彼らは一種のコントロールに訴えているのであり、それは不道徳な人間の本性をコントロールするということです。ほとんど気付かないような方法で、彼らは地球をボロボロにしてしまった征服戦争を、再現し強化しているのです。

もうひとつ隠れた前提があって、「良い人生」とは、私たちが臆面もなく追い求めようとも、あるいは気高く犠牲にしようとも、良い人生には違いないということです。でもそれは間違いです。私たちは蜃気楼を追いかけているのです。私たちは騙されていて、突き詰めれば存在すらしない狭い自己を拡大強化するよう仕向けられているのです。

この詐欺の最も明らかな兆候は、コントロールの計画が(一時的にでも)成功したときに現れます。すべての塁を守備し、あらゆる事態を想定し、健康、富、権力の頂点に立ったとしても、倦怠感は人生に忍び寄り、空虚な隙間や退屈な瞬間から始まって、最終的には存在全体を包み込むように広がっていきます。最初は否認できるかもしれませんが、成功や力、刺激を高めると、倦怠感はますます強くなり、目覚めている間も容赦なく支配するようになります。ルイス・マンフォードが言うように、これは新しい現象ではありません。

エジプトの物語は…ファラオの人生の虚しさを明らかにしている。そこでは、あらゆる欲望があまりにも簡単に満たされてしまい、彼が担っていたのは耐え難いほど重苦しい時間だった。自棄やけになった彼は、彼の相談役たちに退屈を紛らすものを求めたところ、一人が昔ながらの方法を提案した。薄いベールをまとったほぼ全裸の女子たちを小舟に乗せ、水の上を漕ぎながら歌を歌わせるのだ。その間、ファラオの恐ろしく退屈な時間は吹き飛び、彼は大いに喜んだ。 [13]

そして『伝道の書』にはこうあります。[訳註2]

…私はまた、銀と金、王と地方の宝を集め、私は男たちの歌い手、女たちの歌い手、男たちの息子たちの楽しみ、楽器、あらゆる種類のものを集めた。…わたしの目が望むものは何であれ彼らの手から取り上げ、どんな喜びからも心を遠ざけなかったが、私の労苦のゆえに私の心は喜んだのであり、私の労苦全てに対する正当な分け前だった。それから私は、私の手が成した全ての仕事と、私が働いて成した労苦を顧みた。そして見よ、すべては虚栄であり、風を追い求める努力であり、全く何の利益もなかったのだ。

私たちの文化がもつ貪欲さは、安全、快適、支配という名のもと、これといった理由もなく、この世に計り知れない不幸を生み出しました。成功の頂点に立つ人生は、親密さや仲間、真正性や意味がないことで悪名高いだけでなく、これらを犠牲にして得たはずの安全安心や支配力さえ見せかけのものです。私たちは安全安心のために現実の生活を遮断しますが、その見返りに得るものは安全ですらなく、一時的な見せかけの偽物です。

世界のモノ扱いと支配の体制によって引き起こされた数々の危機が、いつの日か私たちを飲み込もうと一点に集結するとき、私たちの安全保障の試みがいかに無意味なものに見えるかを想像してください。災難が自分の身に降りかかり、私たちのコントロールという幻想が嘘のように崩れ去るとき、私たちの門と錠前、保険と投資、履歴書と専門知識など、なんと哀れで無駄なものでしょう。もう私たちの未来として決定づけられている集団的で全世界的な災難のことことを考えれば、なおさらです。

私たちの生きている地球、社会、コミュニティー、そして私たちの精神を飲み込んでいる破壊の流れを逆転させるには、もっと優しくしようと努力するだけでは足りません。宗教は何千年もの間、私たちにそうするよう命じてきました。それが成功したことはありません。しかし、宗教や従来のコントロールに基づく道徳が下す結論は、もっと努力しなければならない、つまり上手くいっていないことをもっとやれということです。それが唯一の解決策だとしたら、実に悪い知らせであり、多くの活動家の絶望はもっともだということになります。たとえ努力が成功したとしても、私たちは永遠に続く努力と闘争を強いられることになります。平和と持続可能性と善良さは、個人にとっても世界にとっても、自分との終わりなき闘いによってしか実現し得ないのでしょうか?

本書が提案するのは別の道です。自己の感覚を拡大し、それによって利己心を癒しの力へと変える、意識の転換です。問題は利己心ではなく、自己を誤解していることなのです。天空に達する塔を建てるため超人的な努力をする必要はありません。空はもう私たちの周りにあるのです。


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注:
[8] この引用は通常ドストエフスキーの言葉とされているが、一般に言われているのとは違い、この言葉は実は『カラマーゾフの兄弟』には出てこないと、デヴィッド・コルテシは主張している。(http://www.infidels.org/library/modern/features/2000/cortesi1.html)この文章が他の形で引用されているのを見たこともある。おそらく翻訳の問題であろう。いずれにせよ、その感情は確かにそこに込められている。
[9] この引用はインターネット上に溢れている。一般的に引用される実際のコロンブスの手記をあえて探し出すことはしていない。
[10] マルセル・モース [Mauss, Marcel,] The Gift(贈与論), W.W. Norton & Company, 2000年 (フランス語の初版は1925年)を参照
[11] リチャード・ポズナー [Posner, Richard.] “A Theory of Primitive Society, With Special Reference to Law(原始社会の理論、特に法律を中心として)”, Journal of Law and Economics, 1980年4月
[12] デリック・ジェンセン [Jensen, Derrick,] A Language Older than Words(言葉より古い言語), Chelsea Green, 2004年. p. 212
[13] ルイス・マンフォード [Mumford, Lewis,] The Myth of the Machine: Technics and Human Development(機械という神話 技術と人間発達), Secker & Warburg, 1967年. P. 206


訳註1:黄金律は、「新約聖書」のマタイ伝(第七章第一二節)の教訓。
訳註2:『伝道の書』とは、旧約聖書の一つ、『コヘレトの言葉』とも。「ダビデの息子」のコヘレト(Qohelet)が警句と格言によって人生のむなしさと、いかにして神を恐れる人間になれるかを説く。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5-02/

2008 Charles Eisenstein



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