生と死
訳者コメント:
個人的な体験ですが、私がJICAの青年海外協力隊に参加したのは30歳の時で、それまでの私は親が承認する生き方に縛られていました。親のいう通り、とにかく勉強して良い大学に行って良い会社に就職する。しかしそこに待っていたのは自分を殺さないと生きていけない世界でした。「会社が必要とするものを自分は持っていないし、自分の持っているものを会社は必要としていない。」そのとき私は生まれて初めて「無難な人生」を外れる決心をしたのです。試験に合格した後、両親には決めたこととして報告だけしました。両親には反対されるだろうと思っていましたが、「そうか」とひと言だけ、他には何も言いませんでした。
約3ヶ月の国内訓練の後、バングラデシュのダッカに着任した当初は言葉もままならず、迎え入れてくれた先輩隊員がバザールを案内してくれるのをただ「すごいなー」と見ていました。不自由な言葉に四苦八苦しながら4ヶ月が経つと次の隊次が着任し、自分らは迎える立場になる。ああ自分も4ヶ月前はこんな感じだったんだと思い、言語の上達なんて自覚できないものなんだなと思う。そうこうするうちにいつの間にか中堅隊員とか呼ばれるようになり、いつの間にか古参隊員になっている。帰国の日が迫り、自分の部屋に買いそろえた色々の生活用品も持って帰るわけに行かないから隊員チャリティー・オークションで配ってしまう。ああ、これって人生の縮図なんだろうな。先輩から受け取ったものを後輩に受け渡し、死ぬときは何も持たず、1サイクルが終わるのだな。という感慨にふけっていました。
「協力隊・人生アナロジー」をひっくり返せば、荒唐無稽に思えるでしょうが、私たちの人生そのものも、どこか別の世界から目的をもって派遣されてきている地球協力隊かもしれない、という直感に結び付きます。死とは、還ること。人生の理解としてこういうのも悪くないと思います。
今回訳した節でチャールズが語るのは死生観です。文明によって死生観がいかに息苦しいものへと歪められているか。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
5.3 生と死
ばらばらの自己という立場から見ると、〈テクノロジーの計画〉の究極の勝利とは、死そのものに打ち勝つことです。どんな形であれ、支配し、蓄積し、コントロールしようとする私たちの努力の全てを、この目標が駆り立てます。それは安全安心の追求という薄められた形で存在し、競争と適者生存というイデオロギーに刻み込まれています。しかし、何千年にもわたって強化されてきたコントロールが、偽りのプロパガンダにもかかわらず、死を遠ざけることには全くなっていません。死の主な原因は変わりましたが、死が避けられないことに変わりは無く、人間の寿命が延びたと思えるような変化はありません[14]。あいも変わらず、私たち人間は生まれ、生き、そして死んでゆくのです。
死を克服できない私たちは、代わりに死を隠し、死なないふりをして否定しようとします。礼儀正しい仲間の内なら、婉曲表現を使って否定します。最近50年のほとんどの童話で、(昔のおとぎ話とは対照的に)死に触れることはありません[15]。私たちの葬儀の慣習では、死化粧や死体防腐処理を施し、鉛張りの棺で何百年も遺体を保存することで、死を否定します。私たちは病人や死にゆく人々を病院の集中治療室に閉じ込め、あと数時間の命を何が何でも守ろうと必死で医療の儀式を行います。私たちが買う加工食品は、そのために動物や植物が死なねばならなかったという事実を覆い隠します。私たちの宗教では、死後の世界についての様々な概念を通じて死を否定します[16]。私たちの人生では、いずれは死ぬという事実に納得していたら意味をなさないような目標や野心を追い求めます。そして科学的空想の中で、私たちはいつかナノテクノロジーや遺伝子工学、サイボーグ技術、コンピューターによって死を超越できると想像します。
私たちは死を隠すことがとても上手いので、大多数の人は死人を見ることがないまま大人になりますが、これは地球上で前例のない現象に違いありません。弱気な絵本、礼儀正しい婉曲表現、死体の隠蔽のおかげで、子どもの目から見たら死はまったく存在しないかのようです。この印象はテレビアニメに蔓延する暴力と奇妙に一致していて、登場人物は10トンの金庫や爆弾が落ちてきても生き延び、何の障害も残りません。それはまた、大人向けのテレビや映画の生々しく致死的な暴力とも奇妙に一致していて、悪の軍団を殺す場面からは、死を死たらしめているほぼ全てのものが剥ぎ取られています。
死の否定が必要だと私たちの文化が考える深い理由は、死がその嘘を、私たちが狭く捉える自己の、意識の俎上に載せてしまうからです。死を静かに想い、死を含めた生を意識すると見えてくるのは、個別ばらばらの自己が現実ではないこと、あるいは条件付きでしか現実でないということです。私たちは自己の定義として、自分の身体、名前、知識、所有物、自己イメージ、物語を拠り所にしますが、そのような自己、つまりアラン・ワッツのいう「皮膚に包まれた自我」は、生まれる前には存在せず、死ぬときには消滅するので、現実ではなく一時的なもの、つまり無常なのです。それとともに、自己と環境の二元論もまた現実ではありません。私が知る限り、あらゆるスピリチュアルな伝統に、死を想う修練があるのも偶然ではありません。それが、死の瀬戸際に立つことで変容につながる理由でもあります。ある臨死体験者が語ったように、人生の些細なことに煩わされなくなり、「愛だけが本物だ」と自覚して歩むようになります。私たちが知っているような自己が無常であり条件付きの現実でしかないことを、死が露わにするとき、自己の膨張に基づく行動の全てはもう意味をなさなくなります。私たちが知っている社会はこのような行動に基づいているので、死を遠回しに言い、隠し、否定する必要があるのです。
そこには本当の自己の否定が伴っているので、死の否定は同じように生の否定であり、死からの分断は生からの分断でもあります。死は(私たちが思い込んだ)自己の幻想に穴を開け、心理的なレベルで現代世界の構造を引き裂いてしまうので、文化の上で否定が必要なのです。私たちはいつになったら死の否定をやめるのでしょうか? それはおそらく、もうそれができなくなった時で、そのとき死が私たちの生活へと強引に侵入し、古い幻想を維持することはできなくなります。健康を支えている社会的、生態的、生理的な基盤の崩壊が加速するにつれて、この侵入は勢いを増し、いたるところで見られるようになっていきます。個人的なレベルでは、私たちがこれまで生きてきた人生に意味はなく、これ以上続けられないと気付くことになります。集団レベルで気付くのは、まさに環境保護論者がこれまで言い続けてきたように、現代社会が「持続不可能」なことです。人は重病を患ったり死の瀬戸際を経験したりしなければ生命に目覚めることが難しいのと同じように、私たち人類も、自然から切り離された存在であるという二元論的観念の欺瞞に目覚めるまでには、おそらく同じことが地球レベルで起こる必要があります。私たちの集団的生存の危機が、目前に、劇的に、そして紛れもなく迫ったとき、初めて現在の集団的行動や他の生命との関係が意味を失うのです。
まだ分断の神話の奴隷となっていない文化では、死を恐れることも少なく、終わりではなく帰ることだと見ていました。私たちが死を恐れるのは、利子付きの貨幣など、あらゆる〈火の時代〉の現れの根底にあるものと同じ、直線的思考の産物です。贈与経済の根底にある循環的な世界観に浸りきっている人間には思いもつかないことでしょう。この世に生まれたおかげで、私たちはみんな分断という戯れの世界に滞在しているのですが、ここへ来る前にいた世界の完全性を忘れてしまうほど深く迷い込んだ人は、私たちより前の時代にはほとんどいませんでした。でも、私たちは自分が何者であるかを忘れていませんし、決して忘れることはできません。それは、管理下にある世界、ばらばらの自己という世界がもう持たなくなるまで、永遠に続く心の蠢きとして残るのです。私たちの目覚めた体験から追放された相互共存の感覚は、他の生き物たち、ひいては無生物への憧れや共感として現れます。
特徴的なのは、無生物に人間の属性を投影するのは軽い病だと心理学者が考えていることです。動物や植物でさえも、自分たちより劣った存在としての地位を与えます。(デカルトに言わせれば、何も考えていないのだから「存在感」は少ないのです。)精神的な病とは程遠く、こうした他者との同一化という綱引きの根底に真実の片鱗があるように私には見えますが、私たちがそれを不合理なものとして否定するのは、それが私たちの想定する分断を否定しているからに他なりません。同じ前提によれば、恋に落ちることも、もちろん不合理なものです。他人を気遣う理由がどこにあるというのでしょう? なぜ私が他人の利益のために努力しなければならないのでしょう? 私に何の得があるのでしょう? 愛は(そしてどんな形の思いやりも)分断の壁を打ち砕きます。生物学的な命令という説明でどのように片付けたとしても、恋愛経験者なら誰でも知っているように、そこには子孫繁栄への衝動や相互扶助のための無意識の駆け引き以上のものがあるのです。恋人たちに満ちあふれる恍惚と至福は、私たちの本当の合一状態に内在する根源的な喜びの表れなのです。愛は、私と汝の間の壁を取り払い、私たちをその状態へと結びつけます。それは私たちが正気を保つための、そして自分という存在の全体性へと繋がる命綱なのです。(それはキリストを言い表すのにふさわしい言葉でもあり、初期の宗教指導者たちがもっと明晰な心を持っていた時に認識していた定義でもあります。)愛は私たちを束縛された自我から救い出し、分断の砦を打ち破り、コントロール中毒が避けがたく生み出す地獄から私たちを救います。
多くの詩人や神秘主義者が見抜いてきたように、愛と死は密接に関係しています。この両方に伴っているのは、自己の通常の境界が解消することです。個人のレベルでは、この解消は「あなたと私は、本当は別々ではない」という実感を伴っています。集団のレベルでは、人間は自然から切り離された存在ではないという認識です。本書が予告する意識の変化を別の見方から言えば、私たちは再び世界との愛に落ちるということです。
人間と自然が一体だということを集団的に認識すれば、「私たちが世界にしていることは、私たち自身にもすることになる」のが分かります。この概念を「生態系のカルマ」と呼ぶことにします。これは相互関連性や、私たちが 「自然に依存している」という実用上の認識を超えるものです。人間と自然の二元論は、私たちが略奪の結果を回避して、そのコストとメリットを管理できることを意味します。この森林を皆伐し、あの山を露天掘りするよう選択できるのは、私たちの合理的な計算によれば、この森林は他の森林よりも重要性が低いからであり、「重要な生態系」ではないからです。私たちには必要ないのです。その価値は条件付きです。私たちはコストとメリットを十分に計算し、その影響を慎重に見極めさえすれば、あるものを保存する一方で他のものを破壊できると思っています。対照的に、生態系のカルマという理解では、自分の行動の影響をコントロールしたり回避したりすることは決してできないと説きます。地球の健康と美しさを損なうことで、私たち自身の健康と人生の美しさをも損なうことになるのは避けられません。自然の法則は人間に対しても例外なく適用されるということでもあります。
現在の自己概念が崩壊することによって生まれる、個人と集団の新しい自己概念がもたらすのは、したがって全く異なる種類のテクノロジー、経済、医療、生活様式であり、それらは美の創造を追求し、自然の作用を手本としたものになるでしょう。それは「自然への回帰」というよりも、自然が私たちに戻ってくること、自然を回復すること、自然と繋がり直すことなのです。もちろん、自然が私たちを見捨てたことなどなく、私たちの全てはある意味で自然なのです。そうではないと思い込んでいるからこそ、人生はこれほどまでにバランスを欠いたものになってしまったのです。死を否定し、死を征服し、どんな犠牲を払っても機械的な手段で人工的に延命させようとする現在の努力は、死への恐怖を増大させ、分断の妄想を強めるだけです。人間は自然の掟から免除されたつもりになり、誕生、死、腐敗という循環から免除されるかもしれないと思っているのです。そして死への恐怖は、ほんとうは生への恐怖に等しいのです。生とは、成長、変化、変容を意味するのであり、季節ごと、瞬間ごとに、古いものが死に、新しいものが生まれ続けることです。
死を否定することは生を否定することです。オリンポスの神々がもつ永遠の若さ、美しさ、余暇、そして超自然的な力という、私たちが目指す神のような理想について考えてみましょう。永遠の若さとは、一種の永遠の死であり、生きているというよりエジプトのミイラのように静止した状態です。(エジプトの死体防腐処理は、結局のところファラオの永遠の命を守ることに向けられていました。)「老いるという事実を軽んじることは、人生を軽んじるだけでなく、人生の本質に対する哀れな無知をさらけ出すことでもあります。… 若さとは守るべき状態ではなく、超越すべき状態なのです。」[17]
死を否定するコントロールの体制は、私たちを人生からも遠ざけます。安全のために、私たちが完全な人生を生きることを妨げるだけでなく、世界を他者にすることによって、私たちが完全に生きる可能性さえも断ち切ってしまいます。コントロールとは要するに、世界との闘いなのです。医療介入が自然を打ち負かすのは死の自然な過程を中断し否定するときです。それは、汚れ(つまり泥や土、大地であり世界)が家の中へと入り込むのを、掃除して逆流させるのと同じです。
先に述べたオリンピアの理想に具現化される自然の完璧な支配は、生命を否定するものであり、その理想が現実的な形に生まれ変った、現代人の安全で秩序ある生活でさえ同じことです。トーマス・ハンナはこのように言います。
老化という神話のひとつに、以前なら出来たことが出来なくなるというものがあります。しかし老化の実態は、以前やっていたことが全て出来なくなるということです。天職の探究がお決まりの「仕事」に落ち着き、伴侶探しが結婚に落ち着き、多くの期待が限られた数の充足に落ち着き、願望が安定した確信に落ち着き、幅広い潜在的な動きが狭い習慣的な動きに落ち着くにつれて、必然的に私たちはより少ない方向を見て、より少ない方向へと動くことになります。私たちの人生における可能性が選別され、取捨選択され、最終的に日常的な現実へと編集されるにつれて、私たちの活動は制限され特化されていきます。
「大人になる」という個人的な目標は、落ち着き、安定を得ることであり、自由がもたらす不安や新たな願望がもたらす不安定さから逃げ切れるような、決まった生活パターンを手に入れることです。個人的な充足とは、落ち着き、安全で、制限された生活様式を意味するという一般に認められた信念に、個々の人間が誘惑される度合いに応じて、自分の生体機能さえも、適応し、より単純で、より素直で、より硬直したものになるのです。[18]
完全に保護され100%保証された人生というのは、メディアや学校、そして多くのばあい両親を通して、私たちの社会制度が押し付けてくるものですが、不確実性を最小限にするよう予め計画されたものであり、そんなものは人生ではありません。しかも、私たちがその不確実性を和らげようと努力しているにもかかわらず、人生は根本的に不確実でコントロール不能です。誰もがある程度感じ取っているのは、私たちの人生計画は永続性と安定性を信じ込ませるための見せかけに過ぎないことで、本当は永続も安定もないということです。この巨大な「ごっこ遊び」の中で、私たちは現代生活が正常だと信じている振りをしていますが、本当に信じている人はおらず、したがって大人の世界の根底にあるのは、インチキと空虚さという普遍的な感覚なのです。読者の皆さんは、自分が大人の振りをしている子供だと感じたことはないでしょうか? 責任感があり、正しい考えを持ち、文明的な大人の役割を演じているとき、私たちはその振りをしているにすぎず、私たちはその見せかけの中で自分を見失っているだけなのです。ご安心ください。それは永遠に続くものではありません。私たちは皆いつか、自分の人生や自己の一見安全な構造を打ち破って、本物の人生が入り込んでくる体験をします。このようなことが起こると、人はしばしば 「どうしてこんなことが起こるのだろう」、「こんなはずはない」、「まさか自分に起こるとは思っていなかった」と考えます。
秩序あり安定し永続するかに見える「コントロールされた」生活の崩壊よりもっと悪いのは、時間と若さが尽きる時までそれが順調に進んでしまうことです。これこそ真の災難であり、それは自分が本当の人生を生きていなかったことに年老いてから気づく後悔の苦しみのためだけではありません。最初から感じているのは、自分の人生は誰か他の人が計画したものであり、本当に自分のものではないということです。私が大学で教えた学生たちは、親や社会全体が期待する生き方に囚われていると感じることがあると言います。専攻を「実務的ではない」ものに変えるとか、学校を中退して世界を旅するとか、しばらく休学して自分探しをするなど、理屈の上では可能性があると分かっていても、そのような一歩を踏み出す大胆さが持てないのです。「そんなことをしたら親に殺される」と彼らは言います。その言葉が露わにするのは、生存への不安が規範にまでなっていることです。もちろん親がそれを止めることなどできませんが、彼らはもう権威の声を内面化しており、親にとって受け入れ難いことは自分にとっても受け入れ難いことになっています。彼らはこうして完全に社会化され家畜化されているのです。ただ、隠れた憧れや、檻に閉じ込め柵で囲った野生は、自制心が消えたとき、めったにない外的状況が一時的な解放をもたらすときはいつでも、否定された憧れを暴力という形で爆発させることが可能であり、それが必然なのです。
死への嫌悪と人生の不確実性への嫌悪は、同じ基本的な世界観から生じています。確かに、不確実性とは慣れ親しんだものの終焉であるならば、死は私たちが胎内から出て以来、誰もが直面する最大の不確実性です。どちらも、これまで私たちが自分自身を定義してきた固定的な区分けを手放すことが伴います。新しい仕事、新しい人間関係、新しい人生。私たちはこのような事態を避けるために、厳重な安全策を採り、慣れ親しんだ生活と自己に必死でしがみつくこともできますが、その代償は大きくなるばかりです。
どのようなシステムであれ、それを野生から切り離された状態で維持するためには、絶え間ない努力が必要です。拙著『食のヨガ』の中で、それを私は駐車場に喩えています。
身体だけでなく、あらゆる自然の物は、邪魔せず放置すれば、自然に美と全体性へ向かいます。醜い駐車場も、数年ごとに舗装し直すのを止めれば、ひび割れ、草が生えて、おそらく100年も経てば美しい森になるでしょう。あなたの体も同じです。人工的に「舗装」するのを止め、ありのままの自分以外になろうとするのを止めれば、健康で美しく自然な状態へと向かいます。変化はあなたが思うより早く起こります。なぜ休息がこれほど癒しになるのでしょうか? 眠っている人の美しさに気づいたことがあるでしょうか?
コントロールの対極にあるのは、自然の成り行きに任せることです。郊外の住宅地では、タンポポに除草剤を散布し、芝を刈り、花壇の草を取り、低木を剪定することで、芝生が整然とした状態を保てるよう管理していますが、このような活動を止めれば土地は着実に野生の状態へと戻っていきます。美しいと認められる手入れの行き届いた芝生を維持するには努力が必要ですが、それこそが、手入れされていない芝生の持ち主が怠け者だと思われる理由です。同じような努力は、家を清潔に保つため外界から来たものを掃き出すのにも必要です。あなたの体臭を抑えたいなら、頻繁に入浴し、香水や制汗剤をいろいろ付けなければなりません。遅くまで寝たいだけ寝ていたら、仕事は欠勤になってしまいます。時間を把握しなければ、予定された義務を果たすことができません。
このような分野で文明人がコントロールを放棄することはありません。文化が教えるのは、そんなことをすれば災難に見舞われ、私たちの安全で快適な現代生活の基盤が急速に崩壊してしまうことです。この信念は原罪をめぐる考え方と正確に一致しています。原罪から必然的に導かれるのは、私たちの奔放で堕落した本性が世界や人間相互に大混乱を引き起こさないために、自制心が必要なことです。世界は管理下に置かれなければならないのです。現代生活はテクノロジーによる世界のコントロールをどんどん強めていくことが前提となっているので、コントロールを維持する努力も常に高めていくことが求められます。時間のスケジュールはますます細かくなり、休息は減り、同時並行作業が増え、携帯電話や電子カレンダーなど、より効率的にするための技術的補助に頼るようになるのです。成功者は全てを管理下に置いています。時間を管理して責任ある仕事をこなします。全てを掌握しているのです。
コントロールが強ければ強いほど、それを維持するために多大な努力が必要となります。思い浮かべてください。拒食症の人が示す鉄の規律、雑菌恐怖症の人の絶え間ない手洗い、潔癖症の人がする毎日の拭き掃除と磨き上げ。よく知られているように、拒食症や潔癖症の人は、失った自律性を、安全でコントロール可能な人生の別の領域で補っているのです。文明社会に生きる私たち一般人も同じです。私たちの表面的なコントロールの構造の下に横たわるのは、同じような自律性の喪失であり、自分の人生が自分のものではないという半意識的な感覚です。それは恐怖であり、不吉な予感であり、人生において最も重要なもの、もっと言えば人生そのものが裏切られたという感覚です。私たちは安全安心を求めるあまり、束縛のない人生の可能性という無限を、予測可能で安全なものという有限と引き換えにしたのです。
これと同じ生命の落とし込みが、象徴文化や家畜化、世界の名付けや数値化、〈機械〉の標準化、〈科学革命〉という還元主義の企てに内在しています。その結末は、存在のあらゆる側面に〈テクノロジーの計画〉をどんどん当てはめることに他なりません。
コントロールの拡大は、自己を孤独で恐怖に満ち切り離された自我に縮小することへの反応です。様々な形をとりながら、世界をコントロールし、我と我が物の領域を拡大しようとする努力の原動力となっているのは、死への恐怖です。私たちが人生を、私の利益はあなたの損失であるというゼロサムゲーム以外のものとして捉え始めるとき、世界との闘いは動機を失い、人生をコントロールしようとするのではなく、受け入れるようになります。理屈はいたって簡単です。他者が他者でないとき、他者に対して良くすることは、自分自身に対して良くすることになります。視点を変えれば、世界は基本的に敵意を持ってはいないということです。土埃があなたを傷つけることはありません。まだ文化を受け入れていない子供は、泥だらけになることを恐れません。子供たちを文明化し、私たちが生きているコントロールの世界に参加させるためには、子供たちの全存在という大きなものから切り離し、恐怖を植え付ける必要があるのです。私たちが生まれながらに持つ内なる荒野を家畜化するためには、いったい何が必要なのでしょう? 私の全存在はどのように壊されたのでしょう? その答が分かれば、取り戻す方法が分かるかもしれません。
注:
[14] 人間の寿命の歴史については第1章を参照のこと。古代社会や中世社会の寿命が現代よりはるかに短かったのは事実かもしれないが、その死亡率の多くは、伝染病、飢饉、戦争など文明そのものによるものである。遠隔地の農耕社会と採集社会ははるかに長生きである。
[15] グリム童話の結末をいくつか紹介しよう。「そして激情に駆られ、両手で自分の左足を掴み、自分を真っ二つに引き裂いた」(ルンペルシュティルツヒェン)。「その後、みなが教会から出て来るとき、上の姉は左側に、下の姉は右側にいて、鳩がそれぞれのもう片方の目をくり抜いた。こうして、彼らはその邪悪と偽りのために、残りの人生で盲目という罰を受けた」(シンデレラ)。「しかし鉄の靴は火で熱され、すぐに火箸で運ばれてきて、[王妃の]前に置かれた。そして、彼女は赤熱した靴を履いて、倒れて死ぬまで踊り続けなければならなかった」(白雪姫)。 ディズニー版とはちょっと違っている。
[16] ここで死後の世界という概念を否定するつもりはない。ただ、私たちは死後の世界についての理解に、現在の存在に適用しているのと同じ、自己についての誤解や誤った定義を持ち込んでいるだけなのだ。
[17] トーマス・ハンナ [Thomas Hanna,] Somatics: Reawakening the Mind’s Control of Movement, Flexibility, and Health.(ソマティクス:痛みや不調を取り除き、しなやかな動きを取り戻す方法) (p. 90)
[18] トーマス・ハンナ [Thomas Hanna,] The Body of Life: Creating New Pathways for Sensory Awareness and Fluid Movement(命の身体:感覚的覚醒と滑らかな動きのための新たな道筋を作る) (p. 58-59)
原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5-03/

