人間の完全な堕落
訳者コメント:
2020年の東京オリンピックを招致するため、当時の安倍晋三首相が2013年の国際オリンピック委員会総会で高らかに宣言したのは、(2年前の震災で破壊された福島原発の状況は)「アンダー・コントロール」だというものでした。この言葉が象徴的に示したのは、コントロールできないものをコントロールするという人間の欲望でした。
この節では、キリスト教プロテスタント主義の概念である「人間の全的堕落」を手がかりに、宗教と科学とテクノロジーが、内的・外的世界の両方で、自然状態を悪と見なしてコントロールしようとしてきた様を描き出します。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ)
第5章:管理下の世界
5.1 人間の完全な堕落
火や石器の成形、象徴文化といった最も初期のテクノロジーに始まった人類の上昇は、自然と人間の本性に対するコントロールをどんどん拡大させてきた歴史です。その頂点は、コントロールを完成させることです。病気や苦しみや死を完全に克服すること(つまり自然に対する完全な勝利)が可能だと考える人は、もうほとんどいなくなりましたが、〈テクノロジーの計画〉は暗黙の前提や態度、そしてテクノロジーのユートピアという夢の中で生き続けています。生活はますます良くなり、もっと安全で、もっともっと便利で、効率的で、近代的で、クリーンで、自動化され、安全なものになっていくのです。
この信念の根底にあるのが、私たちは正しい道を歩んでいるという思い込みで、じっさい私たちはもう長らくこの道を歩んできました。その前提となっているのは、トマス・ホッブズの有名な言葉にあるように、ありのままの人生が「孤独で貧しく不快で野蛮で短命」だということです。私たちがこの偏見にしがみつく頑固さが明らかに示すのは、進歩というイデオロギーの全体にもまして、この偏見にどれほど依存しているかということです。私たちが知っている意味での進歩は、低い状態から高い状態へと、自然界から切り離された人間界へと上昇する場合にのみ意味を持ちます。そこから逆に考えれば、本来の自然と本来の人間性は悪いものだと考えなければなりません。したがって、コントロールという目標が生まれます。テクノロジーが自然をコントロールし、文化が人間性をコントロールするのです。
本章では、生命と世界を支配下に置くという企てがもたらす広範な影響について概説します。私たちは集団として、科学技術によって自然を支配し屈服させようとしていますが、コントロールという目標は個人生活にも影を落としています。私たちは自分自身を、自分の身体、感情、衝動、食欲をコントロールする必要があると感じています。なぜでしょう? それは、ホッブズの自然観を個人に当てはめれば、自然のままの自分も悪いものだからです。私たちが自制心を獲得するために使う心理的「テクノロジー」の数々は、罪悪感、意志の力、規律、恥、動機、脅し、報酬として、幼児期から内面化されます。私たちが自分自身を支配しコントロールしなければならないのは、テクノロジーによって自然を支配しコントロールしなければならないのと同じであり、そうすることで自然を改良する、つまり人を寄せ付けぬ荒野とは反対の秩序ある耕作地へと変えるのです。未開人はまさに自然の状態にあるので、手付かずの自然とコントロールされていない人間が、本来的に悪いものであることを示す二つの記述は、じつは同じことなのです。
宗教においてこの仮定は〈原罪〉という概念へと具現化され、もっと広く言えば、スピリチュアリティー(霊性)とは自己改善への闘いであるという、制度化された宗教の全てに見られる考え方となります。私たちは肉体の誘惑から魂の領域へと自らを引き上げ、獣のような傾向を克服し、自制心を発揮するよう努力します。言い換えれば、私たちは道徳規範に「自らを縛りつける」のです[1]。ヒンドゥー教でもキリスト教でも、その他の世界宗教でも、私たちは親切であるよう努力すべきだというのが基本的な教義です。同じことが、あからさまに宗教的ではない倫理・道徳的な仕組みにも、おそらくもっと強く当てはまります。それは、この社会の世俗的なものと宗教的なものの間にあるように見える文化的断絶が、ほとんど見た目の問題でしかないことを示すもう一つの証拠です。
〈原罪〉という考え方は、今日ほとんどのキリスト教会で中心的なものですが、ペラギウスのような宗教指導者によって激しく議論され、トマス・アクィナスのような後世の人物によってうやむやにされました。プロテスタント主義の創始者であるマルティン・ルターとジャン・カルヴァンは、「人間の全的堕落」、つまり人間が生まれながらにして持っている罪深さを主張しました[2]。彼らにとって、善人になろうと努力するだけでは不十分だったのです。この教義が極めて重要なのは、キリストこそ超自然的な贖い主であり、私たち自身の外側にある神性の代理人であり、私たちの唯一無二の救いであるという教義全体の基礎となるからです[3]。また、アブラハム・マズローは次のように観察しています。
人間の生来の堕落に関する教義や、人間の動物的本性に対する悪意は、善良さ、聖人らしさ、美徳、自己犠牲、利他主義などが人間の外側にあるという解釈へと、いとも簡単に導いてしまう。それらを人間の本性の内側から説明できないなら、それでも敢えて説明しなければならないなら、人間の本性の外側から説明する他ない。人間が悪いものであればあるほど、貧弱なものだと考えるほど、神の必要性はますます高まるのだ。[4]
人間という生物種が生まれつき堕落しているという考えに基づいているのは、宗教だけではありません。この教義は神学にとどまらず、無神論的な心理学にも及んでいて、最も有名なのはジークムント・フロイトの著作ですが、最近ではリチャード・ドーキンスやスティーブン・ピンカーなど、様々なダーウィン説の社会生物学者や認知心理学者の著作に見ることができます[5]。
ここに意義深い皮肉があります。プロテスタント原理主義者はダーウィン進化論を中傷し、公立学校からの排除を目指しますが、人間が生まれ持つ罪深さについて彼らが取る見解は、生命の起源と進化についてのネオダーウィニズムの説明と完全に一致しているのです。お互いが見事に噛み合っています。ダーウィン説も〈原罪〉も、自己と宇宙に対する同じ深い文化的概念から生じているので、これは驚くことではないはずです[6]。
ダーウィン説が暗示する自然は、人間の本性も含めて、あまり良いものではありません。そこでは競争が当たり前であり、生命の最も深い目的、行動の最も深い動機は生存と繁殖であり、協力は時たま利害が一致しただけの偶然の産物なのです。協力するのも良いですが、もっと良いのは他の生物を騙して自分を助けてもらいながら、自分はその生物を助けるためのエネルギーを使わないでおくことです。リチャード・ドーキンスはこう書いています。「自然淘汰は、環境を最大限に利用するよう生存マシンをコントロールする遺伝子を好む。これには、同種・異種を問わず他の生存マシンを最大限まで酷使することも含まれる。」[7]
生物発生と進化に関する支配的な理論が暗黙のうちに示している自己の定義は、私たち一人ひとりが、生き残り繁殖するため他の存在と闘っている、個別ばらばらの存在であるというものです。この考え方では、単細胞の段階から現在に至るまで、成功した生物とは、同じ資源をめぐって競合するライバルを犠牲にして、自分たちの利益を守ることができたものということになります。生存と繁殖の可能性を低下させるような行動、例えば自分のために十分な資源がない場合にそれを共有するような行動をとるよう遺伝子によってプログラムされた生物は、繁殖しにくくなり、その遺伝子は遺伝子プールから死滅します。言い換えれば、私たち(つまり生命)は他の生き物の犠牲の上に利益を得るようにプログラムされているのです。「不親切」を言い表すのにこれ以上の定義を思い付くでしょうか? 利己心が人間の本質である以上、その利己心を抑制して文明人となるために、法律や道徳や自制心が必要なのは当然です。
このように、主流科学と主流宗教で意見が一致しているのは、人間は生まれつき悪い存在であり、したがって私たちが自然をコントロールしなければならないのと同じように、自分自身をもコントロールし、管理し、改善し、そして支配しなければならないという点にあります。この合意に経済学を加えてみましょう。経済学もまた、人は自己利益を最大化するように動くということを中心的な公理としているからです。科学、宗教、経済学がすべて一致するのなら、生まれながらの悪という教義は本当に根深いものに違いありません。科学と宗教のどちらの分野でも、それが通説となっているのは偶然ではありません。私たちの文明のイデオロギー、つまり進歩や上昇は、それを拠り所にしたものです。したがって、何が真実であるかという私たちの反射的な思い込みの多くに、それは組み込まれています。それは私たちのお金のシステムにも組み込まれているので、私たちが根本的に正しいと勘違いしているのと全く同じ行動を生み出します。
原罪という教義は、私たちの神話、イデオロギー、文化、経済に深く染み込んでいるので、私たちの文化にどっぷり浸かっている限り、本当に正しいものとなります。私たちのイデオロギー的な基盤や、文化制度に組み込まれた動機を考えれば、それは正しいのです。
ホッブズが『リヴァイアサン』を書いたのは、ダーウィンが自然淘汰による進化を着想するよりずっと前であり、利己的な遺伝子という理論が発明されるよりずっと前のことでした。「(人も自然も)天然は悪」という考え方は、ダーウィン以前、ホッブズ以前、ルターやカルヴァン以前にまで遡ります。それは二元論そのものに暗黙のうちに含まれていて、その起源はいわゆる新石器革命にありますが、完全な形で発現するのは科学革命を待たねばなりませんでした。
二元論で考える宇宙は、物質と魂、神と被造物、人間と自然、あるいは最も基本的には自己と他者と呼ばれる二つの部分に分かれています。このような二つの部分は決して対称ではありません。自己の方が重要であり、他者はそれほどでもありません。宗教では、魂が自己であり、身体は他者です。魂が重要である一方、肉体はよくて無関係、最悪の場合は魂の営みの邪魔になります。宗教の外では、同じ二元論がデカルト以降に、心=自己、身体=他者として現れます。いずれにせよ、私たちが自己だと捉えるのは自分の心であって、自分の身体ではなく、他の生命体でもなく、世界全体でもありません。思いやりの心を育てようとどんなに努力しても、切り離された幻影のような自己という狭いアイデンティティーが、私たちの最も深い世界観に組み込まれています。(実際、私たちが思いやりを持つために「努力」する必要があると感じるのは、そのような世界観の症状です。)どうりで私たちは自分の身体と断絶し、慢性的な不健康に悩まされているわけです。どうりで私たちは自分の身体や物質的な地球を横柄に扱うわけです。どうりで私たちは他宗教、他国、他民族、他の生物種といった(どうでもいい)他者に対してこれほどまで暴力を振るうわけです。
集団のレベルで、二元論は人間と自然の区別として現れ、またしても宇宙を二つの部分に分けます。その一方は〈自己〉で、したがって重要ですが、もう一方は〈他者〉で、したがって〈自己〉に影響のある限りにおいてのみ重要なのです。二元論が引き起こす議論は善意から天然「資源」の「保護」を求めますが、その言い方は自然を人間に従属させ、世界の様々な物を自分たちにとっての有用性という観点から定義することを意味します。熱帯雨林を保護すべきなのは、もしかすると、いつかそこから重要な医薬品が得られるかもしれないからです。また、表土流出による経済的損失を想像してみてください。このような議論が逆効果となってしまうのは、そもそも問題の根底にある考え方を強化してしまうからです。それは、世界が〈他者〉であり、私たちが利用するためにあるという考え方です。
二元論の論理的帰結、つまり、他者が〈自己〉に影響のある限りにおいてのみ重要だという考えは、隠れた膿瘍であり、文明の体内へと常に毒を漏らし続けています。それは万能の酸毒で、道徳や倫理や責任というシステムの核心を腐食し、「なぜそうしなければならないのか?」という実用的な問いの連続へと簡単に退行してしまいます。
実用的な理由を除いたら、なぜ自分の外側にあるものを気にかけなければならないのでしょうか? 「神がそうしろとおっしゃるから」とか「そうしないと神が私を罰するから」という、ありがちな宗教的解答では、どこにもたどり着くことはできません。その道徳の帰結でもある実用主義こそが、私たちの罪に対する神の懲罰を回避するものだからです。本当のところ何も違いはありません。私たちは脅されて善良になるしかないのでしょうか? 世界に対して冷酷になれば最大化できるはずの自然な自己利益を捨ててまで、自制心を働かせなければならないのでしょうか? 永遠の闘争は、堕落の他に取り得る唯一の選択肢なのでしょうか?
なぜ私が、個人として誰かのために何かをしなければならないのでしょう? なぜ私が、好きなだけ汚染してはいけないのでしょう? なぜ私が、逃げ切れると分かっているのに財布を盗んではいけないのでしょう? 先日私が教室で交わした会話を紹介しましょう。
私:なぜ好き放題に汚染してはいけないのでしょうか?
学生:自分の環境だったら汚染して構わないかもしれません。
私:そうですね、その通りです。自分の庭ではなくて、お隣さんの庭を汚染するだけだと、はっきり言った方が良かったですね。
学生:もし捕まったら、汚染することで得られる利益を上回る代償を払わされることになります。
私:いいでしょう、私はリスクを上回る利益がある範囲でだけ汚染することにします。善人の体裁を保ちながら、こっそり汚染しましょう。悪徳企業からお金をもらい、夜中に有毒廃棄物を地面の穴に投棄しましょう。誰にも分かりません。あるいは私が企業で、高い利益を維持するために汚染を垂れ流したいとしましょう。偏った研究に資金を提供し、公害は結局それほど悪くないという広告を作りましょう。なぜそうしてはいけないのでしょう?
学生:でも皆がそうしたら、待っているのは破滅です。
私:そのとおりです。だから私は、他人がそれをしないようにする法律や道徳に賛成です。でも、逃げ果せるなら自分がそうしない手はないでしょう?(なぜ私が、「同じ種であれ異なる種であれ、他の生存マシン」を操ってはいけないのでしょうか?)
言い換えれば、自分以外の世界がいったいどれほど重要なのでしょう? デカルトのばらばらで孤立した自己が意味するのは、その自己の外側に個別ばらばらの宇宙があることです。「そこら」に[(out there)つまり自分たちの枠外に]ある世界から自分を切り離すことが原理的に可能なのは、まさにそれが別のものだからですが、そうする限り何だって好き勝手にできるのです。制約があるとすれば実用的なものだけです。それぞれの行動が私の利益を最大化するかどうか、ケースバイケースで判断できます。あの人がトイレに行ったとき、テーブルの上に置いていった財布を盗むべきでしょうか? コストとメリットを計算してみましょう。得られるであろう金額は200ドルですが、この状況で捕まるリスクはわずか2%程度、罰金と面目を失う代償は7千ドル程度…等々と計算して、収入の期待値は56ドル(つまり、200ドル×98%−7000ドル×2%)となります。そうすると私は盗みます。罰金を1万1千ドルに上げれば、私はやらない。そういうことでしょう?
この理屈は不条理に思えますが、これこそが抑止力に基づく法制度の背後にある論理なのです。この制度は罰則を課すことによって、個人の合理的な自己利益になるはずの行動を、不合理な行動へと変えようとするものです。何らかの罰則がなければ、盗みは合理的な利己利益に一致する行為となってしまいます。
もう少しこの線を追求してみましょう。誰でも分かっているように、他人の犠牲の上に利益を得る機会が訪れるたび、私たちが実際に露骨な計算をするわけではありません。幼少期の道徳教育のおかげで、その判断は自動的に起こるようになっています。私たちの親や教師、その他の支配者は、「良い」行動には報酬を与え、「利己的」な行動には罰を与えることで、私たちを利己的にならないように訓練します。優しさには報奨を与えますが、そうして優しさはもはや非合理的なものではなく、利己主義に沿ったものになります。やがて私たちは、罪悪感、良心、習慣という形でこうした誘因を内面化します。私たちの自然な自己は利己的で、冷酷で、堕落しており、本性を抑えつけ、モラルや倫理観、良識ある行動を養うには、長い訓練が必要です。
ここに二元論とコントロールが表裏一体の関係にあるのを見て取れます。内在する本質的な魂を奪われたことで、科学が私たちに提示する物質的な世界は、つまり無関心、無目的で、過酷なまでに競争的な世界は、私たちがテクノロジーと呼ぶコントロールが必要だと叫んでいます。獣性の衝動や罪深い衝動に支配されて、その世界に生きる肉体もまた、道徳的訓練、教育、文化を通じて私たちが課すコントロールを求めています。
するとコントロールの計画は、『分断の起源』の章で書いたような世界の落とし込み、つまり無限を有限へと落とし込むことを求めます。科学では変数をコントロールしようとし、工学では考えうるあらゆる力を方程式で説明しようとします。コントロールを目指す私たちの努力が失敗するのは、無限性が再び入り込んでくるとき、つまり、科学における制御不能な変数、人生における不測の事態、工場における「ヒューマンエラー」が入り込んでくるときなのです。このような事故が起きると必ず取られる対応は、またもや忍び込んだ無限性にまでコントロールを拡大し、システムを故障しても安全にすることです。しかし何千年たっても、私たちがどんなに努力しようとも、無限性は再び忍び寄ってくるのです。
注:
[1] 実は、あらゆる宗教本来の秘伝的な教えは全く逆のことを言っている。私がここで言っているのは組織宗教のことだ。
[2] 全的堕落という教理は、何世代にもわたってプロテスタントの神学者たちによって説かれてきた。これについてはアーサー・ピンクの『The Total Depravity of Man(人間の完全な堕落)』を参照されたい。ルターが行った蛮行を考えると、彼は自分の自己理解を現実に投影していただけなのではないか。
[3] しかし、これらの概念には〈原罪〉によらない秘伝的解釈がある。
[4] アブラハム・マズロー[Maslow, Abraham,] 『Religions, Values, and Peak Experiences(宗教、価値観、絶頂体験)』(Penguin Books, 1970年) p. 38
[5] スティーブン・ピンカー[Pinker,Stephen,] 『The Blank Slate: The Modern Denial of Human Nature(白紙の状態:現代における人間性の否定)』(Viking Penguin, 2002年)を参照.
[6] キリスト教原理主義が〈科学の計画〉と結びつくもう一つの方法は、聖書の字義通りの解釈で、これは言葉に絶対的な意味と具体化された地位を与えるものである。その目標は、真理を決定するための揺るぎない基準、つまり文化的構築物である主観を超えた「そこにある(out there)」絶対的な現実を発見することであり、科学的手法の目標と、実によく似ている。表面的にはまったく異なる原理主義と科学は、存在論的な前提や目標の多くを共有している。
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原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-5/

