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資本の危機

訳者コメント:
 革命は英語でレボリューション、つまり転回し「ひっくり返る」ことで、荷物を積み過ぎた船がバランスを崩して逆さまに転覆するようなものです。そういう意味では自然に起きることですが、搾取され尽くしていない市場や資本や植民地が、地図の上だけでなく社会の中に残っている限り、真の革命が起きることはなく、資本主義が延命されてきたのです。現在の社会に漂う閉塞感は、資本主義がとうとう危機に追い込まれている証なのかもしれません。第4章の締めくくりとして、やや悲壮感の漂う文章となっていますが、危機を通り抜けた先に美しい未来が創られていくことを、信じられる気がしてきます。
(お読み下さい:訳者からのお知らせ


4.11 資本の危機

利子の論理は依存症者の理屈です。そこに想定されているのは、いつだって、いつまでだって、私たちは何か方法を見つけては、限りなく増大する消費の欲求を満たすだろうということです。いつだって私たちは、何か新しい資源、お金に換えられる何か新しい形の資本を見つけられるでしょう。依存症者の渇望と同じように、利子が求めるのは、人生の目的が人生を支えることだけになっていくことです。ここで言っているのは単なる比喩ではありません。それは、学生ローンやクレジットカードで多額の借金を背負っている人なら誰でも分かることです。「人生の目的が人生を支えることだけになっていく。」利子が強いるのはまさに、ウィリアム・ワーズワースが機械文明の重要な特徴だと理解した、絶えざる犠牲です。利率が高ければ高いほど、社会資本や自然資本を急いでお金に換える必要が増すのです。

依存症が長く続けば続くほど、生活の荒廃は激しくなり、ずっと続けていくために必要な手段も極端なものになっていきます。依存症者が生命保険を解約し、友人から金を借り、やがてあらゆる物的資源や社会的資源を金に換えてしまうように、私たちの文明もまた、未開発の社会、自然、文化、魂の資本の源泉を出来うる限り探し求めています。私たちの文明を守ろうとする意図がいかに善良なものであっても、利子は押し留めようのない力を生み、あらゆる方向から襲いかかり、侵入する道を常にうかがっています。

マルクス主義がこの過程とその必然性を説明するために着目したのは、常に新たな搾取の領域を見つけるように(金融)資本が命じているという観点ですが、その目的は利潤の減少、破壊的な競争、所有権の集中という危機を遅らせるためなのです。お金と所有の制度が求める無限の成長、つまり生命からお金への際限ない転換に覆い隠されているのは、〈産業革命〉の始めから分かっていた潜在的な矛盾です。それは過剰生産の危機であり、カール・マルクスが明確に説明したものですが、現在に至るまで実業家と取り巻きの知識人たちによって率直に議論されてきました。

簡単に言うなら、現在の貨幣と所有の制度の下では、産業の特徴である規模の経済を利用するため、できるだけ多く生産することが個々の生産者にとって一般的には有利となるのです。しかし、全ての生産者がこのようなことをすれば、その結果として過剰生産となり、利潤の低下、賃金の低下、倒産、所有の集中、失業、そして悪循環の締めくくりとして需要の低下が起きます。マルクスは、このような傾向に伴う不幸に耐えられなくなった人々が十分な数に達したとき、この全てが革命という頂点に達することを予見していました。この可能性に直面した資本主義社会は、マルクスが予言した恐ろしい結末を、できることなら無期限に先送りしようとする根本的な衝動に駆られます。これを行う一つの方法は、(例えば金利の引き上げや計画経済によって)生産を制限することであり、もう一つは戦争によって過剰生産物を焼き払うこと、そして第三の方法は、テクノロジーや帝国主義によって「新たな市場」を見つけることです。第一の方法が上手く行かないのは、最も基本的なことですが、私たちの貨幣制度が求める無限の成長に反しているからであり、その結果、回避しようとするデフレの危機を誘発してしまうからです。第二の選択肢は上手く行きますが、際限なくエスカレートする他なく、それは水素爆弾の出現によって終焉を迎えたのです。今日存在する継続的な戦争状態は、利子が求める指数関数的な生産量の増加を吸収するには不十分です。

そうなると残る選択肢は第三の方法しかありません。マルクスが予言したような差し迫る必然的な革命が起きていない主な理由は、テクノロジーが常に新しい市場を生み出してきたからです。そのたびに新しい産業が、無数の競合会社による活気に満ちた大騒ぎで幕を開け、新たな雇用、新たな富、新たな起業の機会を提供します。やがて企業は倒産や合併で淘汰され、利益水準は下がり、労働者の解雇が始まりますが、その頃には経済の新たな分野が現れて景気を挽回します。このように、マルクスの分析は特定の産業の進化を説明するには極めて正確に見えますが、常に新しい技術、新しい産業、新しい市場が存在する限り、経済全体に当てはめることはできないのです。

資本投資のため新たな領域を切り開くテクノロジーの能力に、限界はあるのでしょうか? 無いとしたら、マルクスがいう資本主義の危機は到来しないことになります。しかし、テクノロジーが非金銭的な形の資本を金融資本に転換する手段だと理解するなら、やがてこのような他の形の資本が枯渇する時を迎えるでしょう。言い換えれば、これまでずっと続いてきたのは新たな富の創造などではなく、既存の(非金銭的な)富を金銭的な富に転換して「資本主義」を延命することだったのです。経済の「新たな」分野とは、かつて人々が自分たちのために行っていたことを専門家の手に移転することだと、ここまで私は主張してきました。ならば、移転するものが無くなったらどうなるでしょうか?

この状況は、植民地主義と帝国主義についての標準的なマルクス主義の説明と非常によく似ています。マルクス主義の理論では、国がある段階まで発展すると、投資利益率の低下と利潤の減少という危機が高まり、新たな領域を見つけねばならないという大きな圧力が生じます。賃金がさらに下がる可能性があり、原材料がさらに安く採取でき、工業製品の過剰な生産力に対する新たな需要があり、まだ競争圧力の拡大によって価格が損益分岐点近くまで押し下げられていないような新天地です。言い換えれば、危機は植民地に輸出され、その植民地に低賃金や安価な資源などの面で得るものが無くなるまで、危機は一時的に緩和されますが、それはつまり、社会、文化、自然、魂の富が全て奪い尽くされたときに他なりません。やがて先進国は全ての植民地を使い果たし、ついには革命が起きるのだと、マルクス主義者は言ったのです。

古典的なマルクス主義思想家たちが認識していなかったのは、地理的な植民地化と同時に起こった別の種類の植民地化、つまり非物質的な領域の植民地化です。金融資本の性質は、現在の貨幣制度に書き込まれており、それ自体が宇宙に対する私たちの理解を投影したものであるため、構造的に絶え間ない成長を必要とします。この成長マシーンを維持するためには常に新しい需要の源を見つける必要があります。既存の製品に対しては他所よその国で見つけることができますが、別の方法として、(標準的な経済学が言う)「満たされていないニーズ」を見つけることによって国内で新たな需要を喚起することもできます。でも満たされていないニーズとは何でしょう? たいていの場合、それは既にある私たちの人間性の一面で、決して新しいものではなく、これまで貨幣経済の外に存在していたものです。言い換えれば、それはまだお金に転換されていない富の一形態なのです。

ウィリアム・グライダー、ダニエル・コーエンなど多くの人々が、資本主義の危機はすでに差し迫っていると説得力のある主張をしています。特にグライダーが1998年に書いているのは、生産能力の過剰、利潤の低下、所有権の集中、世界規模での賃金の大幅下落など、マルクス的危機の全ての要素が現れているという、筋の通った説明です[48]。その8年後、彼が警告したデフレ不況は到来していませんが、それはどの政府も彼の処方箋を採用しなかったからではありません。しかし、おそらくグライダーが間違っていたのではなく、地図の上にはない、まだ完全に植民地化されていない領域のことを過小評価していただけでしょう。

マルクス主義的な危機に対して社会主義の解決策が失敗するのは、問題の根源に迫っていないからで、その問題の根源とは財産の私有ではなく、所有という概念そのものにあります。そして、これまで見てきたように、所有という概念そのものが私たちの自己定義と世界の理解の仕方に依存しているのです。貪欲、競争、不安、欠乏は、私たちの宇宙論と科学に組み込まれているので、このパターンの他の部分も一緒に変わらない限り無くなることがありません。特に、世界や自然、言葉、考え、アイデアを、物として囲い込んだり所有したりできると見なす限り、無くならないのです。

マルクスが理論の基礎とした資本の特徴は、現在主流となっている貨幣システムの特徴から来たもので、銀行によって作られた「希少」な利子付き通貨というものです。異なる特徴を持つ貨幣制度なら、全く違った経済力学が生まれるでしょうし、世界に対する違った理解と関係からは、異なる貨幣制度が自然に生まれるでしょう。そして出現するのは、マルクスの力学が通用しない全く別の形の資本主義で、それは競争より協力を、搾取より共有を、分断より共同体を育みますが、言い換えれば、ここで述べた全ての非金銭的な富の形態を評価し発展させるものです。人生は貧しいのにお金だけ豊かになるのではなく、人生を豊かにする制度になるのです。そして重要なのは、これが普通の意味で設計された制度ではなく、自ら成長することを許される制度であることです。これこそが本当の革命です。たまたま存在した権力を表面的に打倒するような革命ではなく、自己と世界に対する根本的に新しい理解なのです。マルクスはアメリカやフランスのブルジョア革命を、所有者が別の所有者に置き換わっただけだと批判しました。しかし、所有の概念、労働と余暇の二元性、成長のイデオロギー、自然に対する人間の支配という前提をそのままにしておいたなら、マルクス自身の革命も同じように浅はかなものではないでしょうか?

なぜこれほど深い革命が必要なのでしょうか? テクノロジーの歴史は、少なくとも農耕まで遡り、おそらくは火や石器といった人類以前のものにまで遡りますが、世界を物扱いすることの進行と密接に結びついています。私たちは環境を操作するため、概念的に自分自身を環境から切り離しますが、同じように、私たちは環境をうまく操作することで、環境からの概念的な分断に拍車をかけています。所有財産の概念はこのように世界を物扱いすることから自然に生まれ、また私たちが現在持っているようなお金はこのような所有財産から自然に生まれ出るのですが、その財産とは私の物であってあなたの物ではなく、蓄積し数字で測ることのできる物なのです。私たちが慣れ親しんでいる資本主義以外のいかなる制度も、そのような既存の基盤から生じ得ると考えるなど愚の骨頂です。

自己と世界についての概念をそのまま残した革命では、一時的で表面的な変化しか起こせません。より深い革命、つまり私たちが何者であるかを再認識することだけが、この時代の危機を覆す力を持ちます。幸いなことに、マルクスの言葉を借りれば、起こりうる革命の中で最も深いこの革命は必然的なもので、それはまさにマルクスが予見した理由から必然的なのです。他の全ての資本をお金に転換するのは持続不可能です。いつかは尽きてしまいます。そうなれば、私たちの困窮はさらに深まるでしょう。それを抑圧したり麻痺させたりするためにどんな手段を考え出しても、不幸と絶望が上回るでしょう。そしてついに現実をコントロールすることの虚しさが明らかになったとき、ついに自然から切り離された人工的な自己を維持することの重荷がもう耐えられないほど重くなったとき、ついに私たちの富こそ人生を破綻させた原因だと気づいたとき、百万の小さな革命が地球全体の巨大な変革へと収束することになり、それは新たな存在のあり方への急速な相転移となるでしょう。[訳註]

おそらく、それは私たちが思うよりも早く起こるでしょうし、起こらねばならないのです。実際、それはもう既に起きています。私たちの社会、自然、文化、魂の資本はほとんど尽きかけています。その枯渇は現代生活のあらゆる領域で危機を生み出していて、これらの危機は一見何のつながりもありませんが、実は全て、人生の貨幣化、あるいはその根底にある、私たちの自己認識、そして自然、自分自身、人間相互からの分断という根本的な混乱から生じているのです。この因果がつなぐ数々の異質な現象には、ピークオイル[49]や、自己免疫疾患の流行、地球温暖化、森林の死滅、漁場の枯渇、教育の危機、目前に迫る食糧危機などがあります。金銭化と分断のどちらも、その極大、つまり有りうる最大の極限に近づいています。前者は本章で説明した共有財産から私的な富への転換の完成にあり、後者は、ダーウィンとデカルトの世界に内在する完全な孤立と疎外の感覚にあります。そのき出しの物質的な自己は偶然と決定論によって作り上げられた世界の中にあって、そこにある目的と意味と〈神〉は、現実の本質からすれば、自己妄想的な想像の産物にすぎないのです。

逆説的ですが、この様々な極限は、一つ一つが原因であり、また他の極限の一側面でもありますが、行き着くところまで達することで、その対極が生まれます。陽が極まることで、いんを生むのです。社会資本の枯渇は、それを取り戻す革命のきっかけとなります。分断の苦しみは、私たちがより大きな自己へと、自然へと、人生へと開かれる、明け渡しを生みます。でも極限にまで達することが必要なのです。

環境科学者には分かっていることですが、この事態が好転するより先に、人類の大半にとってずっと悪い状況を経験することになるのは間違いありません。ある種の力を出し切らねばならないのです。魂の意識、人道的な意識、生態学的な意識の目覚ましい高まりが私たちを救うことはないでしょう。それは、もう手遅れだからではなく(じっさい手遅れなのですが)、分断の道のりがまだ大詰めを迎えていないからです。

まるでアルコール中毒者が、善意やお金、質草しちぐさ、友人、信用といった資源をほとんど使い果たしてしまったように、私たちの生き方は崩壊の寸前です。私たちは、前の技術的対策が引き起こした問題を軽減するため、より大きなコストをかけて新たな対策を施しながら、奔走を続けています。依存症者は生活が何ともできなくなるまで薬物を使い続けます。エコロジー意識、地域主義、環境に配慮したデザイン、ハーバリズム、地域通貨、エコロジーに基づく経済学は全て、酔いが覚めて明晰さを取り戻す瞬間のようなものです。それらは私たちを救うというよりも、崩壊の後に私たちがる新しい生き方やり方のたねとなるのです。確かに、それらはすべて自然に、当たり前のように芽生えてくるでしょう。焼け残ったものがあればの話ですが。


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注:
[48] ウィリアム・グライダー [Greider, William,] One World, Ready or Not
[49] これは、石油産出量が間もなくピークに達する、あるいはすでに達しているという事実を指している。新しい埋蔵資源の発見が古い埋蔵量の枯渇に追いつくことはありえないというのが、石油地質学者のほぼ一致した主張である。詳細はwww.fromthewilderness.com を参照.

訳註:相転移とは、氷が溶けて水になるように、物事の有様が変化すること。


原文リンク:https://ascentofhumanity.com/text/chapter-4-11/

2008 Charles Eisenstein


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