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【聖なる経済学】 欠乏という幻想②

訳者コメント:
 私は企業に勤めて工業製品の開発設計をしていましたが、ふと我に返ってみると、それがどれだけ人間の幸福に貢献したか、疑問がわいてきます。自動車は確かに現代人の生活に欠かせませんが、私たちの生活がこれほど自動車に依存するようになったのは、歴史的に見ればごく最近のことです。自動車の普及によって、社会が自動車を中心に再構成されてしまったので、わたしたちはもう自動車以前の生活を想像することができませんが、江戸時代と言わないまでも、明治から戦前までの日本では、自家用車なしで成り立つ社会がありました。「欠かせない」、無いと困るというのは、このように文化的な産物でもあります。
 戦前に活動した美術評論家・思想家の柳宗悦やなぎ むねよしは、民芸運動の創始者でもあります。彼は職人の手で量産された平凡な雑器の中に健康な美が宿るのを見出しました。芸術家が作った一品ものの美術品は生活の中で使われることはありませんし、その美は尖った病的なものに陥りがちです。また巨大な壺やスーパーカーのような力を誇る美術品も、小さきものとの対比においてのみ意味を持つので、負けることを絶えず恐れる心を映し出します。柳は大量生産を否定はしていませんが、現代の私たちを取り囲む物の多くは、コストダウンを極限まで推し進めた粗雑な大量生産品です。いくら大量の物を所有したとしても、それが私たちの心を豊かにすることはありません。


①から続く

欠乏という前提は、経済学の二つの中心的な原理の一つです。(原理の二つ目は、人々が自己利益を合理的に最大化しようとするのは当然だというものです。)このどちらも誤りです。もっと正確に言えば、どちらも真実であるのは狭い領域の中だけで、その領域を現実の全てだと勘違いしている私たちは井の中のかわずなのです。よくあることですが、私たちが客観的objectiveな真実だと思っているものは、実は私たち自身の状況を「物のobjective」世界に投影したものに過ぎません。私たちは欠乏にどっぷりと浸かっているため、それを現実の本質だと思い込んでいます。しかし実際に私たちが生きているのは豊かな世界です。私たちがあらゆるところで体験する欠乏は、私たちの貨幣制度、私たちの政治、そして私たちの認識が生み出した産物なのです。

これから見ていくように、私たちの貨幣制度、所有権の制度、そして経済制度の全般は、欠乏という認識を内包し、同じ根本的な自己観を反映しています。それは「個別ばらばらの自己」、デカルト的な自己です。無関心な宇宙に孤立した心のあぶくであり、所有し、支配し、可能な限り多くの富を独占しようとしますが、繋がりをもった存在の豊かさから切り離されていること自体によって、けっして足りることがないという体験へと導かれる運命にあるのです。

私たちが豊かな世界に生きていると主張するなら、二つの点で感情的な反応を引き起こすかもしれません。第一に、それは特権を持つ者の無知の現れであり、世界人口の大多数が極度の貧困や飢餓に瀕し、住む家を失っていることを解っていないというものです。生産量を増やせばこういった問題は解消されるはずではありませんか? いいえ違います。全ての人々に食物と家と衣服を与えるのに必要な量を、すでに私たちは生産しているのです。問題なのは生産量の不足ではなく、不平等な配分の方です。言い換えれば、欠乏は実在しますが、それは人工的なものです。

第二の反論は、人口を大幅に削減しなければ人類と他の生物との調和ある共存は不可能だというものです。この見解を支持する人々は、石油ピークと資源枯渇、地球温暖化、農地の枯渇、そして私たちのエコロジカル・フットプリントを証拠に挙げて、現在の人口水準だと地球は産業文明を長く支えられないといいます。人間の活動が今日、地球に甚大な負担をかけていることは事実です。化石燃料、帯水層、表土、汚染物質の吸収能力、そして生物圏の存続を支える生態系は、いずれも驚くべき速さで枯渇しています。現在検討されている対策はどれも、あまりにも不十分で、あまりにも遅すぎます。必要な対策に比べれば、取るに足りません。

一方で、こうした人間活動の大部分は、人間の幸福にとって不必要、あるいは有害なものです。私たちはずっと少ないもので、ずっと良い生活ができるのかもしれません。まず、軍需産業と戦争に費やされる資源を考えてみましょう。年間約2兆ドルの資金、巨大な科学機関、そして何百万人もの若者の生命力。これらすべてが、私たち自身が作り出した一つの目的以外の役には立っていません。

ここアメリカ合衆国の住宅産業を考えてみてください。過去30年間で、マクマンションと皮肉を込めて呼ばれる巨大な「豪華一戸建て」が次々と建てられましたが、これもまた人間の真のニーズには全く応えていません。別の国なら、この規模の建物に50人が住めるほどです。しかし実際には、その洞窟のようなリビングルームが使われることはなく、人々はその非人間的なまでの大きさに居心地の悪さを感じ、小さな書斎や朝食コーナーの快適さを求めるのです。この怪物のような建物に費やされる資材、エネルギー、そして維持管理は、資源の無駄遣いです。おそらく、さらに無駄なのは郊外住宅地の設計で、公共交通機関を不可能にし、途方もない量の運転が必要になります。

食品産業を考えてみましょう。あらゆる段階で膨大な量の廃棄物が発生します[3] 。政府の調査によると、農場から小売店までのロスは約4%、小売店から消費者までのロスは12%、消費者段階でのロスは29%です[4]。さらに、広大な農地がバイオ燃料の生産に充てられており、言うまでもなく北米最大の灌漑「作物」である芝生は、この大陸の最も豊かな土壌に育てられています。食糧不足は明らかに文化と経済が生み出すものです。

このような数字は、世界人口が80億人であっても潜在的に豊富な食料が得られることを示唆していますが、そこには注意すべき点があります。過去2世紀の傾向を引っくり返し、人々は食料の栽培に(一人当たり)はるかに多くの時間を費やすことになるということです。混作などの集約的〔多くの手間や資源を少ない面積に集中させる〕、そして持続可能な農法で、生産性を大幅に向上できる可能性があります[5]。有機農業が、従来の農業よりも2~3倍の生産性を実現できることに気づいている人はほとんどいませんが、それは労働時間当たりではなく、ヘクタール当たりです[6]。そして、集約的な家庭菜園はさらに生産性が高く、労働集約的〔多くの手間が掛かるもの〕でもあります。あなたがガーデニングを好きで、多くの人が土に近づくことで恩恵を受けると考えているなら、これは良い知らせです。週に数時間の作業で、典型的な郊外の菜園ならおそらく1000平方フィート〔約93平方メートル、約28坪〕の区画で、家族の野菜の需要のほとんどを満たすことができます。その倍の面積があれば、ジャガイモ、サツマイモ、カボチャなどの主食もかなり生産できます。カリフォルニアのレタスやニンジンを国内の他の地域に運ぶ大規模な大陸横断トラック輸送システムは本当に必要でしょうか。それが何らかの形で生活を向上させているでしょうか。

もう一つの種類の無駄は、多くの工業製品の粗雑な造りと計画的陳腐化から生じています。現在、長持ちし修理しやすい製品を生産するための経済的動機はほとんどなく、むしろ阻害要因さえあるため、古い家電製品を修理するよりも新しい家電製品を購入する方が安くつくというばかげた結果がしばしば生じます。これは突き詰めれば私たちの貨幣制度の結果であり、神聖な経済においては逆転するでしょう。

私の住む通りでは、どの家庭にも芝刈り機がありますが、ひと夏に10時間ほどしか使いませんし、リーフブロワーは年に2時間しか使わないでしょう。各家庭の台所にはミキサーがあり、週にせいぜい15分しか使われません。いつでも車の約半分は路上に駐車され、何もしていません。ほとんどの家庭で、生垣用刈り込み機、電動工具、運動器具などを持っています。これらはほとんど使われることがないため、多くは余分なものです。車の台数を半分に、芝刈り機を10分の1に減らし、同じ通りに面した10世帯か20世帯にステアマスター〔無限階段式の運動用具〕が2~3台あれば、私たちの生活の質は同じくらい高く保てるでしょう。実際、交流し、共有する機会があれば生活の質はさらに高くなるでしょう[7]。現在のむやみに高い消費率のもとでさえ、世界の工業生産能力の約40%が遊休状態にあります。この数字を80%以上に増やしても、人々の幸福が損なわれることはありません。無くなるのは、汚染と、工場生産に伴う多くの退屈な労働だけです。もちろん、膨大な数の「仕事」も無くなるでしょうが、このような仕事をしている人々はそもそも人間の幸福にほとんど貢献していないので、代わりに彼らを雇って地面に穴を掘りまた埋め戻す作業をさせたとしても、何も失うものはありません。それよりも、彼らの力をパーマカルチャー、病人や高齢者の介護、生態系の修復のような労働集約的な仕事、そして資金不足のために悲惨なほど満たされていない現代のあらゆるニーズに向けることも可能でしょう。

武器のない世界、虫食いのように拡がる郊外の「豪華一戸建て」がない世界、不要な包装容器の山のない世界、機械化された巨大な単作農場のない世界、エネルギーを大量消費する箱のような大型店舗のない世界、電光表示広告のない世界、山と積まれた安っぽい使い捨て品のない世界、誰も本当に必要としない消費財を過剰消費することのない世界は、けっして貧しい世界ではありません。私たちは少ないもので生きることを余儀なくされると主張する環境保護主義者たちに、私は同意しません。本当は、私たちはより多くのもので生きていくのです。より多くの美しさ、より多くのコミュニティ、より多くの充足感、より多くの芸術、より多くの音楽。そして物の数は少ないけれど、実用性と美観に優れている。今日私たちの生活を満たす安っぽい物は、どれほど量が多くても人生を安っぽくするだけです。

神聖な経済が象徴する癒しの中には、私たちが精神と物質の間に作り出してしまった分断を癒すことが含まれます。あらゆる物が神聖であるということを踏まえて、物質主義を避けるのではなく、受け入れることを私は提唱します。私たちの持ち物への愛は、より深まるのであって、薄れることはないと思います。私たちは持ち物を大切にし、どこから来て、どこへ行くのかを尊重します。もしあなたが大切な野球のミットや釣り竿を持っているなら、私の言うことが分かるでしょう。あるいは、あなたのお父さんにはお気に入りの木工道具の一式があって、それを50年間完璧な状態で保管していたかもしれません。そのようにして私たちは自分の持ち物を大切にするようになるのです。もし私たちが作るすべてのものに同じような注意と配慮が払われたら、世界はどのようなものになるでしょうか。もしすべての技術者が自分の製品にこれほどの愛情を注いだらどうなるでしょうか。今日、そのような態度は経済的に割が合いません。何かを神聖なものとして扱うことが誰かの経済的な利益になることはほとんどありません。新しい野球のミットや釣り竿を買えばいいのです。新品がこんなに安いのに、道具を丁寧に使う必要などあるでしょうか。私たちの持ち物が安いのは、それらの価値が無くなっていくことの一因であり、すべてが無個性で使い捨ての安っぽい世界に私たちを投げ込むのです。

③へ続く


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注:
3. スパイカー[Spiker]他「無駄になる食品、無駄になる栄養素(Wasted Food, Wasted Nutrients)」
4. バズビー他「スーパーマーケットの損失推定(Supermarket Loss Estimates)」
5. F・H・キング[King]が1911年に著した興味深い本『40世紀続いてきた農民、あるいは中国、韓国、日本の永続的な農業(Farmers of Forty Centuries; Or, Permanent Agriculture in China, Korea, and Japan)』を読むことで、農業の潜在能力をある程度理解することができます。この本では、これらの地域が機械化、農薬、化学肥料を使わずに、数千年にわたってわずかな土地で膨大な人口を維持できた方法を説明しています。彼らは代わりに、高度な輪作、間作、そして農作物と動物と人々の間の生態学的関係に依存していました。彼らは人糞も含めて何も無駄にしませんでした。彼らの農業は非常に労働集約的でしたが、キングによると、通常はゆったりとしたペースで行われました。1907年、日本の5000万の人口はほぼ食糧を自給自足していました。中国では、地域によっては3エーカー〔約1.2ヘクタール〕の農場で40人から50人の氏族を養っていました。1790年に、中国の人口は今日のアメリカの人口とほぼ同じでした。
6. ラサール[LaSalle]他著『オーガニック・グリーン革命(The Organic Green Revolution)』4ページ、では、多数の裏付け研究を引用しています。もしあなたが逆の印象を抱いているなら、考えてほしいのは、有機農業にメリットがないことを示す研究の多くは、有機農業の経験がほとんどない人々によって行われ、何十年にもわたる化学農法によって荒廃した土地で行われたことです。正しい有機農法は農家と土地の長期的な関係性を反映するため、比較試験を容易に実施することはできません。有機農法の真のメリットが完全に明らかになるのは、数年、数十年、あるいは数世代も経ってからです。
7. 残念ながら、私たちの多くはあまりに深く傷ついているので、交流や共有をしないことを望み、むしろ分断の地獄と独立という幻想の奥深くに引きこもり、その構造が崩壊する日を待ちます。様々な危機が重なり、このようなことがますます多くの人々に起こるにつれ、コミュニティの回復への衝動はますます強まっていくでしょう。

原文リンク:https://sacred-economics.com/sacred-economics-chapter-2-the-illusion-of-scarcity/


翻訳ノート:
objective:客観的という意味の他に、「物(オブジェクト)の」という意味になり得ます。サブジェクト(主体)の反対がオブジェクト(客体、対象物)なのは、物には意識も主体性も個性もないと考えられているからです。そのような見方がオブジェクティブ(客観的)であり、相手をモノ扱いしているということです。
intensive:集約的と訳されることが多いですが、intensive course(集中コース)であれば、春休みなど短い時間に多くの単元を集中的に、ギュッと詰め込んで学ぶような意味です。詰め込むのは時間だけでなく空間的なスペースのこともあります。ですから、集約的な農法といえば、狭い土地に多くの作物を作る方法を指し、当然そこに多くの手間と資源が投入されることも意味します。
labor-intensive:労働集約的、労働集約型と訳されます。これはある生産物を産み出すのに多くの労働、つまり手間を掛けるという意味です。その反対は、機械化・省力化して一つの製品に掛ける手間を減らすことです。


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