第8章:人生のオールラウンダー――大谷翔平の二刀流と、古代ギリシャの理想
【連載目次:数字に殺されないための生存戦略】
現代の現象(BTS・SNS)と歴史の構造(文明OS)を往復する11の思索
第1回: 昭和の喫茶店と現代のInstagram ✕ 第一の波 ― 外圧としての文明
第2回: ロジックへの過度な適応 ✕ 止めるという知性
第3回: 独立峰の韓国、連峰の日本 ✕ メタ認知としての停止
第4回: なぜ「意味」より先に「リズム」があるのか ✕ 第二の波 ― 近代という衝撃
第5回: スサノオからギルガメシュへ ✕ 歴史の構造
第6回: 1300年ログアウトされないOS ✕ 第二のストップとは何か
幕間: ラジオ番組 noteFM 特別放送回コラボ企画
第7回: 日本の武士の矜持 ✕ 国風化はすでに始まっている
第8回: 人生のオールラウンダー ✕ 再設計される社会
第9回: ロジックの牢獄の看守たち ✕ 令和の菅原道真
第10回: 文明の黄昏、文化の暁 ✕ 認識の転換点
第11回: イルカは何を伝え、クジラは何を歌うのか ✕ 提示される側へ
幕引き: ラジオ番組 noteFM 特別放送回コラボ企画
『数字に殺されないための生存戦略――BTSの孤独と、日本という「連峰」の詩学』:Cognitive Cultural Theory vol.8
[これまでの航路] 武士の矜持とは、他者の視線から独立し、己の「型」を磨き上げることでした。第7回で確信した日本独自の進化は、今、大谷翔平という「二刀流」の身体性を借りて、専門分化された近代社会のOSを根本から再設計し始めます。
前章では、「詩」を通して「母なる自然」と手をつなぐという人生観を、「アルティメットスタイル」と呼びました。先ずはこの言葉を、現代のスポーツの用語で説明してみましょう。
現代の格闘技における、ルールの一つに、総合格闘技と言われる、アルティメットスタイルというものがあります。これは、大きく分けて以下の3つの局面がシームレスに入れ替わることで成立しています。
打撃(スタンド・ストライキング)
ボクシング、キックボクシング、空手などの「離れた距離」での攻防です。
特徴:拳、蹴り、膝、肘を使い、相手を仕留める。
投げ技・組み技(クリンチ&グラップリング)
レスリングや柔道の「密着した状態」での攻防です。
特徴:相手のバランスを崩し、テイクダウン(倒す)を奪う。あるいは壁(ケージ)に押し込み、相手の自由を奪う。
寝技(マット・グラウンド)
ブラジリアン柔術やパウンド(倒れた相手への打撃)による「床の上」での攻防です。
特徴:関節技や絞め技(サブミッション)を駆使し、相手を無力化させる。
格闘技に詳しくない方でも、柔道とキックボクシングはご存じではないでしょうか。大体その二つが一緒になった競技であると、考えていただければよいです。
格闘技には古くから、ボクシングや空手、柔道や相撲がある中で、どうしてこのようなルールの競技ができたのかというと、それぞれの競技のトップクラスの人たちのなかで、果たして誰が一番なんだろうか、という疑問から生まれたものなのです。
スポーツになる前の古代ローマなどで行われた、人と人同士の戦いにおいても、もとよりルールが無いので、パンチだけとか、投げるだけとはならなかったはずです。現在でもそれに近い究極の格闘技のルールということで、
アルティメットスタイル=究極のルール
と呼ばれています。
自衛隊の中で取り入れられている格闘技も、ほぼこのスタイルと同じであると聞いたことがあります。なぜなら実際の戦闘の時に、こちらがボクシングで行こうとしても、首を絞められるかもしれませんし、捕まえて投げ飛ばそうとする前に、キックを食らうかもしれません。
自衛隊の人たちは、他にも武器の扱いや、団体での行動も想定しますので、格闘技だけを訓練することはないのですが、素手でマンツーマンの時は、このスタイルにたどり着きます。
総合格闘技の選手にも、それぞれの技において、得意不得意は存在するのですが、どの局面においてもバランスよくこなせる選手を称して、このように言われることがあります。
立ってよし寝てよし=立ち技もできるし寝技もできる
今、格闘技とは別の競技で、これに一番近い選手は、やはりメジャーリーガーの大谷翔平選手でしょう。
二刀流=投げてよし打ってよし
私はこの、「立ってよし寝てよし」という究極のスタイルに、前章でお話しした、「剣魂歌心」というスピリットが重なるのです。
つまり、
立ってよし(剣魂):ロジック、競争、社会的な成果、数字。
寝てよし(歌心):情緒、孤独、思いやり、母なる自然との接続。
というつながりです。
スポーツにおける、立ってよし寝てよしや、二刀流とは、実社会においては、この剣魂歌心というものになるのではないかと思われるのです。その重要性は、これまでに述べてきたことでお分かりになるはずです。
今はすでに絶えてしまっていますが、歴史を紐解くと、この立ってよし寝てよしというスタイルが、世界の各地で奨励された時代もありました。
古代ギリシャの「ムシケー(詩楽)」と「ギムナスティケー(体育)」
プラトンが『国家』などで説いた理想の人間像は、まさにこの均衡にありました。
調和の教育:戦士たる者は、肉体を鍛える「体育」だけでなく、竪琴を弾き詩を詠む「文芸(ムシケー)」を修めなければならないとされました。
親和点:片方だけでは「野蛮」か「軟弱」に偏るという危機感は、日本の文武両道に通じます。アキレウスが戦場で竪琴を弾き、英雄が詩を綴る姿は、西欧における「剣魂歌心」の原形と言えます。
西欧中世の「騎士道(Chivalry)」と「宮廷愛(Troubadour)」
12世紀頃のヨーロッパ騎士は、戦場での武勇(剣)とともに、詩を自作し貴婦人に捧げる感性(歌)が求められました。
吟遊詩人としての騎士:実際、リチャード獅子心王(イングランド王)などは、勇猛な戦士でありながら、優れた詩人でもありました。
親和点:荒々しい暴力(剣)を、高潔な精神や洗練された言葉(歌)によって律し、文化的な高みへと昇華させようとしたプロセスが共通しています。
中国・唐代の「文武兼備」と「詩仙・李白」
唐代は、官僚登用試験(科挙)に「詩」が課される一方で、辺境を守る将軍たちが優れた辺塞詩(戦場の詩)を数多く残しました。
剣舞と詩:李白は「剣客」としても知られ、月下で剣を舞いながら詩を詠んだと伝えられています。
親和点:政治や軍事という冷徹な「動」の世界にいながら、同時に宇宙や自然と一体化する「静」の詩情を持つ。この二面性が、東洋的な「剣魂歌心」の一つの完成形を見せています。
冒頭で、日本は高度成長期の陰りを、個人と社会における、「詩」の存在によって切り抜けた、と申し上げました。そしてお隣の韓国では、剣魂歌心における「寝てよしの」パート、つまり、「詩心」が社会に欠けている危うさを指摘しました。
ところがここまで来て、古代ギリシャのムシケー(詩楽)とギムナスティケー(体育)の理想や、西欧中世の騎士道(Chivalry)と宮廷愛(Troubadour)の規範や、中国・唐代の「文武兼備」の文化が、すでに過去の化石となってしまったのと同じように、日本における剣魂歌心の精神も、今や失われつつあることに直面したのです。
次章へ

――「何者か」という枠を、脱ぎ捨てる。
現代の社会システムは、私たちを「歯車」として最適化するために、専門性という名の細分化を強いてきました。しかし、その効率的な分業の果てに私たちが失ったのは、自分自身の全体を使いこなすという、剥き出しの身体感覚でした。
かつての日本社会もまた、近代化という外圧の中で「専門職」という概念を受け入れましたが、その深層では、一つの型に縛られない多才な『遊び』の空間を温存していました。
効率を最優先するOSを捨て、人間としての機能を全方位に再起動させること。その『社会の再設計』は、一人の天才の登場を待つまでもなく、私たちの働き方や生き方の随所で、静かに胎動を始めています。
日本文明OSの書き換えは、あなた自身――「外圧・停止・国風化」の1200年
第八章|再設計される社会
ここまでの流れから、現代において進行している変化は、単なる文化的な現象にとどまらないといえませんでしょうか。
それは、社会のあり方そのものに関わる動きです。
第一の波において、国風化が進んだとき、日本は単に文化を変えただけではありませんでしたね。
文字が変わり、表現が変わり、それに伴って、人々の思考や関係性の持ち方も変わっていきました。
つまり、
文化の変化は、そのまま社会構造の変化へとつながっていった
のです。
同じことが、現代においても起きつつあるといえます。
外部から導入された制度や価値観は、長い時間をかけて社会の中に定着しました。
しかしそれは、あくまで「与えられた形」として機能していた側面があります。
それに対して現在は、
それらを前提としながらも、その使い方や意味づけを自分たちで組み替えようとする動き
が見られます。
ここで重要なのは、
制度そのものを壊すことではありません。
むしろ、
同じ制度を使いながら、その中での振る舞いを変えることによって、結果として全体のあり方を変えていく
のです。
この変化は、表面的には非常に見えにくいものです。
でも実際には、
社会の基盤に関わる部分で、静かに、しかし確実に進行しています。
たとえば、その一つの表れが、私たちの働き方ではないでしょうか。
かつては、組織への帰属と長期的な安定が重視されました。
しかし現在では、
個人の裁量や、自分なりの時間の使い方が、より重視される傾向が強まっていますよね。
これは単に、効率の問題ではありません。
一人ひとりが、どのように生きるかという問いに対する、価値の変化です。
また、経済の領域においても同様です。
成長や拡大だけでなく、持続性や循環といった観点が、現実的な選択として現れ始めています。
これもまた、
外部から与えられた単一の基準ではなく、複数の価値が隣り合う方向への移行
と見ることができます。
さらに、技術の扱い方にも変化が見られます。
本来、技術は効率を高めるための手段として導入されてきました。
しかし現在では、
それをどのように生活の中に位置づけるか、という問いが強く意識されるようになっています。
使うか、使わないかをこえて、どのように共存するか、と言ってみても良いでしょう。
この前提そのものが、従来とは異なっています。
ここで共通しているのは、
外部から与えられた枠組みをそのまま適用するのではなく、自分たちの状況や感覚に合わせて調整していく姿勢
です。
これは、第一の波における国風化と同じ構造じゃないでしょうか。
ただし、今回はそれが、制度の刷新としてではなく、日々の選択の積み重ねとして現れているだけなのです。
この違いは実に見落とされがちです。
国家の主導ではなく、個々人の判断によって進行しているため、変化はバラバラで、しかも同時に進んでいるのですから。
その結果、
社会全体はゆっくりと、しかし確実に変化していっている
のです。
ここで言う変化とは、新しい制度を一から作ることではありません。
既に存在している仕組みの中で、意味づけと使い方を変えることによって、別の形へと移行させていくことです。
このプロセスにおいて、
外部から取り入れたものは、単なる借り物ではなくなります。
それは、
自分たちの手の中で機能するものとして、自分たちの言葉で翻訳される
と言っても良いでしょう。
ここまで進むと、第二の波における流れは、すでに出揃ったと見ることができませんでしょうか。
最初に導入があり、続いて摩擦があり、さらに認識の転換があって、そしてある意味、翻訳が始まっているのです。
では、この先に何があるのでしょうか。
新たな定着がある水準に達したとき、それは単なる内部の変化にとどまりません。
今度は自らが、発信する側へと様変わりしていくのです。音楽でいえば、リメイク、リバイバルですね。
第一の波において、日本は国風文化を成立させました。
それは、外来文明を消化した結果、独自の表現体系となりました。
では第二の波の先には、何が現れるのか。
それは、
それを超えていく姿
です。もちろんそこには前例はありません。
外部を否定するのではなく、外来文化を含んだ上で、それを別の配置でリメイクするのです。
この段階において、日本は初めて、単なる受け手ではなく、その新しい形を、逆に輸出する側へと移行します。
どのような形で現れるのでしょうか。
それは制度として現れるのか、それとも別の形を取るのか。
その問いに向き合うことが、次の章のテーマになります。
(第九章へ続く)
--- この連載は、現在絶賛放送中のラジオ番組 noteFM の協賛により行われております。
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