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第6章:1300年ログアウトされないOS――万葉という「感情の民主化」

【連載目次:数字に殺されないための生存戦略】

現代の現象(BTS・SNS)と歴史の構造(文明OS)を往復する11の思索

  • 第1回: 昭和の喫茶店と現代のInstagram ✕ 第一の波 ― 外圧としての文明

  • 第2回: ロジックへの過度な適応 ✕ 止めるという知性

  • 第3回: 独立峰の韓国、連峰の日本 ✕ メタ認知としての停止

  • 第4回: なぜ「意味」より先に「リズム」があるのか ✕ 第二の波 ― 近代という衝撃

  • 第5回: スサノオからギルガメシュへ ✕ 歴史の構造

  • 第6回: 1300年ログアウトされないOS ✕ 第二のストップとは何か

  • 幕間: ラジオ番組 noteFM 特別放送回コラボ企画

  • 第7回: 日本の武士の矜持 ✕ 国風化はすでに始まっている

  • 第8回: 人生のオールラウンダー ✕ 再設計される社会

  • 第9回: ロジックの牢獄の看守たち ✕ 令和の菅原道真

  • 第10回: 文明の黄昏、文化の暁 ✕ 認識の転換点

  • 第11回: イルカは何を伝え、クジラは何を歌うのか ✕ 提示される側へ

  • 幕引き: ラジオ番組 noteFM 特別放送回コラボ企画


『数字に殺されないための生存戦略――BTSの孤独と、日本という「連峰」の詩学』:Cognitive Cultural Theory vol.6

[これまでの航路] 文明を「管理」しようとするギルガメシュ的な傲慢さと、それと「和解」するスサノオ的な知恵。第5回で見出した歴史の力学は、今、現代のデジタル社会における『第二のストップ』へと結実します。1300年ログアウトされずに動き続ける、私たちのOSの正体とは。



前章において、日本人は1,300年前(あるいは2,000年前)から、

「詩」を通して「母なる自然」と手をつなぎ続けている。

ということを述べてきました。先ずその手掛かりとなるのが、皆さんもご存じの「万葉集」の存在です。学校で習った復習にはなりますが、もう一度その独自性という観点から振り返ってみましょう。


万葉集の独自性:スサノオが築いた「五・七・五・七・七」というリズムの八重垣。それが単なる神話の遺物にならず、日本という国の巨大な「文化の地層」へと決定的に進化したのが、この『万葉集』という存在です。


世界史に残る古代の詩集の多くは、王の武勲や神への讃歌など、ピラミッドの頂点に立つ者のための「独立峰の記録」でした。しかし、万葉集が持つ独自性は、その圧倒的な「裾野の広さ」にあります。


階級を超えた「共鳴の地平」

万葉集には、天皇や貴族だけでなく、防人(さきもり)として故郷を離れる無名の兵士、農民、さらには身分の低い遊女の歌までもが、対等な重みを持って収められています。

「悲しい」「会いたい」「腹が立つ」といった剥き出しの感情を、誰もが同じ五・七のリズムに乗せて共有できた。この階級を超えた感情の民主化こそが、日本経済を支えた「分厚い中間層」の精神的ルーツと言えるかもしれません。


日常のすべてを「詩」にする力

万葉集の歌人たちは、大事件だけでなく、道端の草花、朝霧、あるいは夕食の匂いといった、極めて些細な日常の断片を歌にしました。

これは、ロジック(効率)では切り捨てられるはずの「取るに足りないもの」に、かけがえのない価値を見出す精神性です。この「日常を肯定する力」が、後の日本において、どんな不況下でも「足元の生活」を慈しむ、しぶとい内需の精神を育んだかのようです。


1300年、一度も「ログアウト」されなかったOS

最も驚くべきは、万葉集で使われた言葉の「響き」と「リズム」が、現代の私たちの耳にも、そのままの温度で届くという事実です。古いリズムを「化石」にすることなく、日本人は万葉の時代から今日まで、一度もこのリズムからログアウトしていません。


そのことを鋭い視点で説いたのが、渡部昇一氏です。

氏は著書『日本語のこころ』(講談社現代新書)において、以下のように述べておられます。

ローマ人が「法」を平等原理とし、キリスト教徒が、「神の前の平等」を築いたとすれば、日本人の平等原理は「和歌」であった。

「万葉集」の作者が、兵士・農民から天皇まで、あらゆる階層のみならず、帰化人まで含んでいることが、これを如実に示している。

和歌をよくすること、つまり日本語の真髄を体得することで、日本人のアイデンティティは形づくられた。


渡部 昇一(わたなべ しょういち、1930-2017)

上智大学名誉教授。英語学者、文明批評家。アンガロ・サクソン(英米)の歴史や言語学に精通した知見をベースに、日本文化をメタ認知的に再定義し続けた論壇の巨星。


実際に現在でも、宮中歌会始(こうちゅううたかいはじめ)に、その連続性を見出すことができるでしょう。

この儀式は、単なる皇室の伝統行事ではありません。渡部昇一氏が指摘した「和歌による平等原理」が、1300年の時を超えて今なおライブで機能している、世界でも類を見ない文化的装置です。


天皇と国民が「同じ土俵」に立つ

歌会始の最大の特徴は、天皇陛下や皇族方の御歌(おうちょう)とともに、一般公募から選ばれた無名の国民の歌が、全く同じ資格で、同じリズム(披講)に乗せて詠み上げられることです。


「公募」という圧倒的な裾野

毎年、国内外から約2万首近い歌が寄せられます。小学生からお年寄りまで、職業も境遇も異なる人々が、その年のお題(兼題)に対して心を砕きます。


単なる「記録」ではなく「声」の継承

歌会始では、歌は「読まれる」のではなく、独特の節回しで「披講(ひこう)」されます。文字というロゴス(論理)に頼るだけでなく、声というフィジカルなリズム(韻律)として継承されることで、日本人の身体感覚の中に「万葉の鼓動」が刻み込まれ続けています。

(私もここまで記述を続けてきて、すっかり歌会始のことを思い出すことができました。この後、来年の兼題を確認します。何事も参加することに意義がありますからね。)


そしてこれは「和歌」に限られたことではありません。日本における「詩」を通して「母なる自然」と手をつなぐ、という行いは、定型詩だけを見ても、現在、読売新聞に連載コラム「四季のうた」を執筆されている、俳人の長谷川櫂氏の見立てによると、次のように連綿性を保って続いています。


王朝

大伴家持:万葉集

紀貫之:古今集


中世

西行:新古今集

   筑波集


江戸前期

芭蕉:俳諧七部集

蕪村


江戸後期

一茶:柳多留


戦前

正岡子規

高浜虚子


戦後

大岡信:折々のうた


現代

長谷川櫂:四季のうた


さらに私は、現代でいうところの万葉集とは、現在大谷翔平選手がコマーシャルで出演している、伊藤園が主催する「伊藤園お〜いお茶新俳句大賞」ではないかと思っています。

俳句は和歌よりも世界に広がりを見せており、民間運営とはいえ、ここで取り上げられる俳句は、まさに老若男女を問いません。その精神性が実に同じなのです。


1989年(平成元年)から続く、応募作品数で日本最大、いや世界最大規模の俳句コンテストです。まさに「現代の万葉集」と呼ぶにふさわしい、その独自性は以下の点にあります。


徹底した「表現の民主化」

季語や定型(五・七・五)に厳格に縛られない「自由律俳句」も認めており、俳句の専門家ではない一般の人々が、日常のふとした感情をそのまま投影できる窓口となっています。


応募層の広さは、幼児から100歳を超える高齢者まで、さらには英語俳句の部門を通じて世界中から、年間約200万句近くが寄せられます。


「裾野」としてのパッケージ掲載

入賞作品は、商品の「お〜いお茶」のパッケージに実際に印刷され、全国の店頭に並びます。

それによって、特別な文学雑誌を開かなくても、コンビニや自動販売機で手に取るお茶のボトルに、誰かの「孤独」や「喜び」が記されている。これは、和歌がかつて「八重垣」として人々の暮らしを守っていたように、詩が現代の消費社会の真ん中で息づいている象徴です。


世界との共鳴

大谷翔平選手という、現代の日本(そして世界)を象徴するヒーローがCMに出演することで、この「新俳句」の場はさらに広い注目を集めています。

「和歌の平等原理」が、現代では「お茶のボトル」を媒体として、天皇から兵士までならぬ、メジャーリーガーから小学生までを繋ぐ令和の裾野を形成しています。


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――記号に、心が追いつかなくなる。

現代のデジタルOSは、私たちの感情を「いいね」や「リポスト」という数種類の記号に強制的に翻訳させようとします。この、逃げ場のないログイン状態。しかし、日本人の精神の底流には、1300年前から一度もログアウトされずに動き続けている、もう一つのOSが存在しています。

それは、効率や論理を一度「止める」ことで初めて聞こえてくる、剥き出しの言葉の響きです。

かつて道真が遣唐使を止めたように、今、私たちに求められている「第2のストップ」とは何か。それは、外圧としての近代OSを、自らの内なる静寂によって相対化する、ある『認識の転換』でした

日本文明OSの書き換えは、あなた自身――「外圧・停止・国風化」の1200年 


第六章|第二のストップとは何か


ここまでの流れから、ひとつの問いが浮かび上がります。

第二の波において、日本は確かに「導入」を選びました。
西欧近代という外圧に対して、制度、技術、思想を取り入れ、国家の構造そのものを更新してきました。

では、その後に続くはずの「停止」は、どこにあるのでしょうか。

第一の波では、それは比較的明確でした。

遣唐使の停止という形で、外部との接続が一度断たれます。
当時は、民間の船舶はもちろん、航空便もなく、ネットもありません。
その当然の結果として、内部での再編が始まり、国風文化が成立しました。

しかし第二の波では、同様の出来事は確認しにくい。

少なくとも、制度としての明確な「停止」は存在していません。

それにもかかわらず、現代の日本には、ある種の転換の兆しが見られます。

それは制度の変更としてではなく、むしろ認識のあり方の変化として現れているように見えるのです。

外部のモデルをそのまま正解とする見方から、それを一つの参照に過ぎないと捉える見方への移行。

おそらく、この変化は目立った出来事として起こるものではないでしょう。

静かに、しかし確実に、前提が書き換わっていくのです。

ここで、「停止」の意味を改めて捉え直してみます。

第一の波における停止は、外部との物理的な接続を断つという形で現れました。

しかしその本質は、

外からの流入を拒むことではなく、外部に依存した更新をいったん終えること

にありました。

つまり、

外に向かっていた更新の軸を、内側へと切り替えた

のです。

この視点に立つと、第二の波における停止は、制度として現れる必要はありません。

むしろそれは、

外部の基準に基づいて自己を定義する段階から、自らの基準を立ち上げる段階への移行

として現れるはずです。

ここで、一つの現象が浮かび上がります。

それは、

近代というシステムを、その内部から相対化しようとする言論の出現

です。

政治、金融、歴史、宗教。

これまで「正しい」とされてきた枠組みを、その前提ごと問い直す試み。

それらはしばしば、異端として扱われます。

既存の秩序を前提とする限り、その外側からの視点は、必ず違和として現れるからです。

しかし、ここで重要なのは評価ではありません。

それらの言論が果たしている機能です。

それは、

外部を絶対的な基準とし続ける状態に対して、一度立ち止まるための視点を提示すること

です。

この意味において、

現代日本において、明確にその役割を担っている存在の一人として、副島隆彦の名を挙げることは避けられません。

副島 隆彦(そえじま たかひこ、1953-) 評論家、副島国家戦略研究所(SNSI)主宰。法学・政治学をベースに、米国の政治構造や金融システムの裏側を冷徹に分析。

既存のアカデミズムやメディアが触れない「真実」を暴く言論活動を展開し、日本が西欧近代OSをどう「学び終えるか」を問い続ける異端の知性。

氏の仕事は、単なる感情的な批判ではありません。

むしろ、西欧近代が作り上げた「法」や「金融」という精緻なロジックの内部に深く潜り込み、

その構造と限界を誰よりも冷徹に言語化することにあります。

金融においても。歴史認識においても。

氏は、日本が盲目的に追従してきた「グローバル・スタンダード」という名の外圧を、冷徹な分析によって「一つの特殊な認識枠組み」へと引きずり下ろしました。

これは、外来文明の圧倒的な力を知り尽くした上で、あえてそこに「NO」を突きつけるメタ認知的な営みです。

その役割を一言で言えば、西欧近代の「冷徹なロジックによる相対化」に他なりません。

外部の権威として提示されてきたものを、そのまま受け入れるのではなく、構造として捉え直す視点を提示し続けてきました。

これは全面否定ではありません。

むしろ、

「学び終えた枠組みを、学び終えたと認識する行為」

です。

この一点において、

氏の立ち位置は、第一の波における菅原道真と、構造的に重なります。

外来文明を知らない者ではなく、それを深く理解した者が、

「ここで止めろ」

と判断する。

このとき、停止は拒絶ではなくなります。

それは、

次の段階へ移行するための合図

となります。

もちろん、この判断は国家的な決定として明示されるものではありません。

現代においてそれは、

言論を通じて、徐々に認識の層へと浸透していく

性質のものです。

表向きの制度は維持されながらも、内側では前提が静かに書き換わっていく。

この二重構造こそが、第二の波における「停止」の特徴です。

では、この「認識の停止」を現代において体現しているのは誰か。既存の知の枠組みを根底から揺さぶる、ある「異端の系譜」がそこにあります。

そして重要なのは、

この変化が一人の人物によって完結するものではない

という点です。

しかし同時に、

その転換点を明確に言語化する存在が必要になります。

その意味において、

副島隆彦という存在は、

第二のストップを「認識可能な形で提示した人物」

として位置づけることができるはずです。

ここまで来ると、ひとつの構造が完成します。

第一の波において、

導入があり、摩擦があり、停止があり、そして国風化が生まれた。

第二の波においてもまた、

導入があり、摩擦があり、そして今、

停止が、認識のレベルで進行しているということ。

では、その先に何が現れるのか。

停止のあとに現れるものは、単なる内向きではありません。

それは、

外から取り入れたものを前提としながら、それを再構成し、新しい形として提示する段階

です。

その兆しは、すでに現れ始めています。

制度ではなく、文化や生活の領域において。

では、その具体的な姿とは何か。

次の章で見ていきます。

(第七章へ続く)

--- この連載は、現在絶賛放送中のラジオ番組 noteFM の協賛により行われております。



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