それはキラキラした、宝石よりも美しく。
唐突だが、私の長年の友人である森田(剛)の女の話をしたい。
今年のGWは初日にThe ONEで安田の女と遊び、最終日に森田の女と遊んだ。何なら終わったあとも何度もお喋りをしている。5月も半ばを過ぎたが、この二人以外の予定は向こう都合ですべてキャンセル。もはや神様が「今はこの二人以外とは会うな」という采配を振ったようだった。もちろん予定していた友人たちとの会話がつまらないわけではない。ただ、いま必要なエネルギーを与えてくれるのは、この二人しかいないということだったのだろう。
最近はちょっとエネルギーが枯渇気味になっていた。有り体にいえば、気張りすぎて心も体も疲れていたのである。その結果の一つが's travelersの大阪公演だ。復活しようと頑張っている私には、如恵留くんに対して抱いている重すぎる気持ちを呆れず笑わず聞いてくれる、同じくらいあるいはそれ以上の熱量で好きな男について語る友人との時間が必要だったのだ。
二人は、年間を通してそれぞれの現場で本物のエネルギーを溜めている。そのエネルギーをおすそ分けしてもらえることで、話していてこれ以上ないほどの居心地の良さを感じられる稀有な存在である。安田の女と現場に入り、森田の女のとんでもない話を聞いて完全満タンエネルギーチャージをした自分でグローブ座に向かいたい。そういうわけで、前回同様に森田の女と長々話したことを読める形で残しておきたいと思った次第である。
◇ ◇ ◇
森田の女(以下、「友人」と「森田の女」表記が混在)は、私の周りで一番と言えるほど長い期間一人の男を想い続けている。『キセキのはじまり』を聴いたある日、彼女のV6人生は歌詞のごとく「唐突」に始まった。それから気づけば約25年の月日が流れた。25年前といえば、子どもも子ども。愛も恋も何も知らず無邪気に公園を走り回り、弟と共にスマブラだのポケカだので遊びまくっていた私と違い、友人は「私はV6のファンになるために生まれてきた」といえるほどの運命の出会いを果たしていたのだ。
彼女がこれほどまでに人生をV6に捧げていると知ったのは、大人になってからだ。中学校の帰り道、近所のドラッグストアの駐車場で何時間も話していたのだから、その時点で何年もV6ファンであることは知っていた。毎月ファンレターを書いていること、中1で初めてライブに行ったこと、「絶対に剛くんと結婚する」と言っていたこと。周りにもジャニーズファンはたくさんいたけれど、「この子は何かみんなとは違うな」と思いながらふむふむと聞いていたことを覚えている。
友人とは高校が離れたので、高2の途中くらいからだんだん会わなくなった。就職し、周りはほとんどジャニーズからは卒業していたある日、6、7年ぶりに再会した。元々大人っぽい雰囲気の友人だったが、外見はますます大人の女性になっていた。外見は。中身はまったく変わっていない、森田の女のままだった。素直にすごいと思った。本当に誇張なく、まったく変わっていないのだ。というより、歳を重ねて分別がつくようになったぶん、その想いは質を変えていた。ただ「剛くんと結婚する」と子どものような願望を豪語していた少女が、「V6という存在自体を愛していて、剛くんの生き方に憧れている」という女性になっていたのである。
それは、森田剛が結婚しても、V6が解散してからも変わらなかった。むしろ彼女曰く「好きになり直した」というように、解散してからの方が想いが強くなっているようだ。安田の女も同様だが、彼女らと話していると「自担」という概念が曖昧になっていく。彼女にとって森田剛は「好きな男」だ。世界で一番、人生で一番好きな男。それが森田剛なのである。森田剛の放つ空気感、創り出す世界観をただ味わいにいく。森田剛という存在をじっと見つめて、放たれた言葉を何度も咀嚼して、ようやく飲み込めるかも、と思ったころには何日も経っている。それを何度も何度も繰り返して、彼女は生きている。
素直に羨ましいな、と思った。それだけ長く深く、たった一つのグループ、たった一人を愛せることが。彼女は仕事の話をしていたとき、「自分にはV6と剛くんのファンであることしか自信を持てることがない」と悩んでいた。けれど、それだけはっきりと自信が持てるものがある時点で何かの才能を感じるし、大きな意味があるとしか思えない。ビビッときたという彼女の言葉通り、本当に「V6ファンになるために生まれてきた」のだと思う。そうでなくては、彼女の今までの人生に説明がつかない。
だからこそ、とある状況で森田剛と彼女が対峙したと聞いたとき、思わず笑ってしまった。人は脳で処理しきれない感動を通り越すと笑うことしかできなくなるようだ。ありえない状況すぎて意味不明だったが、でも長年森田剛を見つめる彼女と一緒にいて話を聞いてきた身としては、いつかこういう機会が訪れることは必然だったように感じるし、大して驚きはしなかったとも言える。状況だけが、あまりにもシュールだった。ドラッグストアの駐車場で何時間も話し続けていたあの頃の自分たちに教えてあげたい。きっと信じない。
実際に森田剛と顔を合わせて話す友人の姿をこの目で見たとき、「めちゃくちゃ可愛いな」と思った。大人になり、情熱を持ちながらも冷静に語る彼女が、いざ森田剛を目の前にすると「剛くんと結婚する!」と言っていた少女の姿に戻っていたからだ。可愛い。乙女すぎる。あれはどう見ても、好きな男に恋する純粋な女の子の目だった(と、その場で本人にも伝えた)。中高生のころ、友達が好きな人と話してる姿を覗き見ちゃったときの居た堪れない気持ちと似ている。あぁ、だから気まずくて笑ってしまったのかもしれない。
友人が抱き続けた「森田剛」という人間の印象を言葉にしたとき、ご本人はゆっくりと言葉を考えながら、自分の在り方について語り、「それでいうと(友人の印象と)逆かもしれない」と返していた。このとき、まったくの第三者である私からすると、同じ在り方のある一面を友人が、ある一面をご本人が語っているように見えた。本質的には同じであって、それをどういう言葉で表現しているかの違い、とでも言おうか。その後、話題は彼女自身が本当に聞きたかった質問へと向かっていく。それを自分の最初の一言が引き出せたという事実が本当に嬉しかった、と目を輝かせて話してくれた。そのことからも、彼女が質問したことが森田剛の本質と一致したことが分かる。ほらやっぱり、私の友人はすごいだろ、と自慢したくなった。
彼女はそもそも、自分のことがあまり好きではなく、自信もないタイプの人間である。一方で、「森田剛のファンである」ということには絶対的な自信を持っている。何があっても揺るがないし、信頼しているし、崇拝……とまでいうと自分の人生を彼に明け渡しているように感じるかもしれないが、「剛くんが自分らしくいることに憧れているから、自分もそうありたい」と模索しながら生きている。剛くんが好きなことに手を出してみたものの、自分にはまったく興味が持てないものもたくさんあった。でも、今はもうそれでいいと思ってると言った。「剛くんと結婚する」「ぜんぶ剛くんと同じでありたい」と願っていた少女は、大人になったいま「森田剛」という人間を介して、「私」を形作ろうとしている。そしてそこに人生の意味さえも見出そうとしている。捉え方は変わりつつも、人生の主軸に「森田剛」がいることは、25年間何も変わっていない。
この友人たちと話していると、私はちゃんとのえ担を名乗っていいものか、如恵留くんのことをちゃんと愛せているのかどうか、全く自信がなくなってくる。
安田の女に「なんでそんなにポジティブになれるの?」と聞いたら「しょーたくんに愛されてる自覚があるから」と言った。森田の女に「なんでそんなに(ファンとして)自信が持てるの?」と聞いたら「剛くんが愛をくれているのが分かるから」と言った。正直、私はまだまだだ。それは、如恵留くんからの愛が足りないと言っているのではない。彼は十分すぎるほどの愛をファンに伝えてくれるアイドルだ。それなのに、受け取る私自身が「彼の愛を受け取れるファン」になり切れてない気がするのである。なぜだろう。自分の如恵留くんへの気持ちが「愛」だという自信がないからかもしれないし、そもそも愛というものを自分の中で明確に定義づけられてないからかもしれない。
自信があるから愛を受け取れるのか、愛が受け取れるようになったら自信がつくのか。卵が先か鶏が先かみたいな問題ではあるけれど、とにかく私はまだ「のえ担」として十分な自信を持てないでいる。彼女たちは自分の気持ちを表す言葉を「愛」以外知らない、これが愛じゃないなら何が愛か分からないという。あまりにもSuperflyすぎる。私はまだまだ、込み上げる気持ちの中にはずるさとか欲深さとか煩悩みたいなものが混ざり込んでいて、自分の中に存在する「愛」と名付けたい感情を自己中心的に捉えている気がする。
「愛」は「好き」の上位互換ではなく、別のもののようにしか思えない。そんな私に、二人はとても眩しい。二人と話していると、心の底からふつふつと湧いてくる。私は如恵留を愛したい、と。
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5月17日は、如恵留くんが復帰してちょうど1年の新しい記念日である。あの約半年間、私が如恵留くんに対して向けていた気持ちは「愛」のひと欠片であったような気がしている。翻って復帰後はどうか、また自分勝手な想いを彼に抱いてはないだろうか。大大大好きを暴走させてはいないだろうか。不安になる。彼の言葉を拠り所にすることはほぼなくなったし、彼の姿を見て「カッコいい!」と昂るだけ、ということは減った(減っただけでまだまだある。だってカッコいいから)。それよりも愛おしいな、守りたいな、という感情の方が何十倍も増えた。彼は弱い存在ではないので母性とも庇護欲とも異なるのだが、「守りたい」という感情は「愛」のひとつだと言えるかもしれない。それでもやっぱり私はまだまだ「大大大大大好き」が精一杯だ。
以前Twitterでバズっていた、韓国アイドルへファンから向けられた言葉が印象に残っている(元ツイを見つけられないので意訳)。
「あなたを愛しています。私のこの気持ちが、あなたへの愛の中で一番小さい愛でありますように」。
彼へ向けられる気持ちはすべて愛であってほしいし、それらはすべからく大きなものであってほしい。いつでも愛を感じられる環境で生きていってほしい。彼に向けられた敵意や悪意をすべて愛に変える魔法を使えるようになりたい。それすらも、私のエゴかもしれない。でも、私にとっても川島如恵留は「好きな男」だ。いつか自信を持って、好きな男を愛せるようになりたい。川島如恵留を愛したい。この気持ちが愛じゃないなら、愛なんて分からないと言えるほどに。
