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髙市早苗論 第七章:行動論――政治家は何をしているのか?

政治家というものは、つねに何かをしている人間である。
いや。正しく言おう。
政治家とは、自分が何かをしている姿を、つねに国民に見せ続けなければならない人間なのである。

政策が重要ではない、という話ではない。
政策はもちろん重要だ。
しかし、どれほど立派な政策を考えていても、
それを考えているところを誰にも見せなければ、
政治家としては存在しえない。
政治家という職業は、なんとも奇妙な職業なのである。

自分が何をしているかではなく、
何をしているところを見せるか。
それが政治になるのだ。

では、髙市政権発足後の髙市さんの行動を、少し振り返ってみよう。

2025年10月21日。
髙市さんは、衆参両院での首班指名選挙を経て、憲政史上初の女性首相に選出された。
皇居・松の間。
黒の光沢あるジャケットにロングドレス姿の髙市さんが、深々と一礼する。

その夜、首相官邸。
赤い絨毯が敷かれた階段に、閣僚たちと並ぶ。
初の女性宰相としての初閣議後の記念撮影である。

ここで重要なのは、髙市さんが何を考えていたかではない。
髙市早苗が「初の女性総理として存在している」という光景が成立したことである。

政治家は、まず写真になる。
そして写真になった瞬間に、その人は歴史になる。


2026年1月13日。
髙市早苗は、韓国の李在明大統領とドラムセッションを行った。
曲はBTSの「Dynamite」。
日本の女性総理大臣と韓国の大統領が、
ふたりでドラムスを叩き合っている。
しかも、叩きながら、互いに目を合わせ、微笑みながら!

こんな光景を誰が想像しただろう。
なるほど、小泉純一郎は大臣時代に訪米し、
記者会見の冒頭でエルヴィス・プレスリーの名曲
「ラヴ・ミー・テンダー」の一節「Thank you very much, American people, for 'Love Me Tender'」と英語で述べはしたけれど、
しかし、日本人は、なんて自虐的なジョークかとげんなりしたではないか。
もちろん私は、髙市さんの洒脱なユーモアの方がずっと好きだ。

ところが元BOØWYの高橋まことさんが、この演奏について、
「ドラム舐めんなよ」
という趣旨の厳しい批判をなさった。
プロのドラマーならばそう言いたくなる気持ちもわかりはする。
しかし、私は言いたい、
そういう問題じゃないのよ。
じさいSNSで批判が殺到し、のちに高橋さんは謝罪することになった。

私がおもしろいと思うのは、

総理大臣がドラムを叩くという行動そのものが、
政治的意味を持ってしまうということ。

うまくても政治になる。
下手でも政治になる。
批判されても政治になる。
謝罪してもされても政治になる。

つまり、髙市さんがドラムを叩いた瞬間から、
「ドラムを叩いた髙市早苗」
という新しい政治的身体が生まれてしまったのである。

ところで、この直後、髙市総理は衆院解散を決断する。
もしや「Dynamite」は、その予言だったのか。

……もちろん、そんなわけはない!

しかし政治家について書いていると、
こういう馬鹿馬鹿しい連想までもが政治的に見えてくるから
困ったもの。


2026年6月。
フランス・エビアンで開催されたG7サミットに、髙市さんは初出席した。
官邸執務室ではヘッドセットをつけ、厳しい表情で説明を聞いている。
そして各国首脳と挨拶を交わすと、表情が一転して笑顔になる。

エネルギー安全保障。
重要鉱物の共同備蓄。
自由で開かれたインド太平洋。
そうした外交上の重要課題について髙市さんは果敢に議論する。
そして、各国首脳と談笑する写真が報道される。

ところがSNSでは、
「タカイチは英語、下手すぎ」
などという声が出てくる。
「しゃーないやんけ、奈良県人やで。
あれがナラングリッシュちゅうもんや。」

さらには、各国首脳たちと髙市さんが
談笑しているように見える写真について、
「他の首脳同士の脇に立って、
あたかも談笑しているように写真に収まっただけなんちゃうか」
「髙市総理、ほんまはぼっちやってん」
などというツッコミまで飛び出す始末。

ここでも、髙市さんが実際に何を話したのかという問題とは別に、
「髙市さんがG7の首脳たちと談笑している」という映像
が、ひとつの政治的現実をつくってゆくのである。

そして、その映像について、さらに別の映像や言葉が生まれる。

政治家の行動には、つねに「なんだかんだ言われる」がついてくるのだ。

2026年8月3日。
被災地熊本を訪問する。
最大震度7を観測した地震から、およそ一週間後。
髙市さんはヘルメットと作業着姿で被災地に入り、
現地関係者の説明に真剣な眼差しで耳を傾ける。

ノートにメモを取る。
被災者や現場スタッフの手を握る。
声をかける。
官邸が視察のまとめ動画を公開する。

すると、SNSで非難が飛ぶ。
「プロモ動画撮りに被災地行くんじゃねー!」

いやはや。
総理大臣という職業は、並みの神経では務まらない。

どんなときでもけっして、
「うるせー、黙れ!」
とは言えないのである。

被災地へ行けば、パフォーマンスだと言われる。
行かなければ、現場を知らないと言われる。
握手すれば、パフォーマンスだと言われる。
握手しなければ、冷たいと言われる。
笑えば、不謹慎だと言われる。
笑わなければ、感じが悪いと言われる。

政治家には、どうやら正しい行動というものが存在しないらしい。

存在するのは、
行動と、それについての「なんだかんだ」だけである。


さて、ここからが本題である。

髙市さんの日々を見てもわかるとおり、
政治家の仕事というのは、実は「決断すること」だけではない。

決断しているように見えること。
現場を見ているように見えること。
人の話を聞いているように見えること。
国民のことを考えているように見えること。
これらもまた政治家の仕事なのである。

第四章「視線論」を思い出してほしい。
たとえば、髙市総理の被災地訪問。
熊本に降り立った髙市さんが、
総理を待ち構えていた被災者たちに駆け寄る。

その瞬間、
「最高権力者が国民のもとへ走り寄る」
という物語が成立する。

私は、それをパフォーマンスだと非難しているわけではない。
むしろ、予備費二百四十二億円超の閣議決定は、神対応だと思っている。
私が言っているのは、もっと単純なことである。

映像とは、そういうものなのだ。
そして、政治は映像から逃れることができない。


政治家は、じっとしていない。

原爆忌になれば、総理は東京から広島へ行く。
式典に参加する。
広島から東京へ戻る。
その後総理が世田谷の歯医者へ行ったことまで非難される。
外国へ行く。
またぞろSNSでなんだかんだ言われる。
官邸から国会へ行く。
またぞろSNSでなんだかんだ言われる。

政治家は、移動する身体なのである。
そして、その移動には、つねに
「なんだかんだ言われる」が影のようについてくるのだ。

政治家が現場に行けば、
「現場を大切にする政治」
という物語が成立する。

行かなければ、
「現場を知らない政治」
という物語になる。

つまり政治家にとって、
移動そのものが言葉なのである。


「仕事をしている」という身振り

政治家は、ものすごく忙しそうにしている。
資料を読む。
説明を聞く。
電話をする。
会議をする。
書類に印鑑を押し、サインする。
指示する。
うなずく。
メモを取る。
そして、つねに写真を撮られる。

ここで、会社員と政治家の違いを考えてみよう。
会社員なら、結果を出せ。結果がすべてだ。
という重荷を背負っている。
仕事をしているふりも、ときには大事なのかもしれない。
しかし、いくらなんでも、
仕事をしているところを毎日撮影されることはない。

政治家は違う。
「仕事をしている姿」そのものが、政治的成果になる。

仕事をしている。
考えている。
聞いている。
動いている。
国民のために働いている。
そうした姿そのものが、国民に向けて発信される。

つまり、

仕事をしていることと、仕事をしているように見えることとのあいだに、政治家の場合、ほとんど境界がないのだ。

政治家というものは、奇妙な職業である。


ところで、ここでひとつ、
たいへん重要なことを言っておかなければならない。

政治家は、寝ているところを見せることができない。

これは政治家という職業の、かなり重大な欠陥である。

髙市さんは、睡眠時間の短さについてしばしば語っておられる。
しかし、これは政治的パフォーマンスとしては、
いささか危険なのではないか。

なぜなら、
睡眠は映像にならないからである。

「私は午前二時まで仕事をしています」
「午前四時に起きました」
「睡眠時間は毎日O時間から三時間です」

と言葉で言うことはできる。
しかし、国民はその現場を見ていない。

政治家が机に向かっている映像なら撮れる。
会議をしている映像も撮れる。
被災地でヘルメットをかぶっている姿も撮れる。
しかし、
寝ている政治家は撮れないのだ。

したがって、政治家は寝ないことではなく、
ずに働いているところを見せなければならない。

なんとも馬鹿馬鹿しいことではある。
しかし、これが映像政治というものなのである。


政治家の行動は、写真になる。
写真になる行動だけが、私たちのところへ届く。
なんとなれば、ここでひとつの問いが立ち上がる。
いったい政治家は、何をしているのか。

いや。

政治家は、何をしているところを私たちに見せているのか。

衣装は「見せる」。
表情は「見せる」。
視線は「見せる」。
声は「聞かせる」。
言葉は「語る」。
そして行動は、
「しているところを見せる」。

こうして、すべてが「政治的パフォーマンス」に収束してくる。

だから、髙市さんだろうが誰だろうが、
政治家の行動を「パフォーマンスだ」と非難することは、
少し違うのではないか。
そもそも政治家は、
何をやってもパフォーマンスになってしまう存在なのだ。
パフォーマンスをしているのではない。
政治家であることそのものが、パフォーマンスになってしまう。
それは、政治家が背負った宿痾なのである。


政治家は、何かをする。
私たちは、それを見る。
見たものについて語る。
語られたものが、また次の政治家の行動を決める。

こうして、
行動がイメージを生み、イメージが次の行動を要求する。

政治家は動き続ける。
その動きがニュースになる。
ニュースになった動きが、政治家のイメージになる。
イメージになった政治家が、また次の行動をする。
そして、その行動について、また私たちがなんだかんだ言う。

行動。
映像。
イメージ。
世論。
そして、また行動。
この循環から、政治家は逃れることができない。

では、果たしてそれは幸福なことなのだろうか。
不幸なことなのだろうか。

私にはわからない。

しかし、ひとつだけ確かなことがある。
政治家は、もはや政治だけをしているのではない。
政治をしている自分自身を、つねに国民に見せているのだ。
そして私たちは、その政治家を見ながら、また政治家について語っている。

政治家は何をしているのか。
いや。
政治家は、何をしているところを私たちに見せているのか。

その二つの問いのあいだに、現代政治の奇妙な空間がある。

髙市さんも、その空間から逃れることはできない。
私たちもまた、逃れることはできない。

そして――

本格的なポピュリズム政治は、始まったばかりなのである。

つづく

#現代の政治学
#映像政治

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