髙市早苗論 第六章:言動論――「日本」という言葉について
髙市さんの言葉の使い方は、独特である。
話してらっしゃる言葉を聞いていると、スローガン的な短文を起点に論旨を展開なさるので、いかにも明快そうに聞こえる。
たとえばテレビの討論番組や街頭演説で、
「日本を、もう一度、世界のてっぺんに」
「経済安全保障こそが国富を守る」
「国家強靭化の徹底」
などといった、景気のいいフレーズを冒頭に提示なさる。
その直後に、
「具体的には三つの柱があります」
などと言って指を折ってみせられる。
すると私たちは、あたかもそこに
明瞭で強固な政策体系が存在しているかのような感覚を持つ。
もっとも、話を聞き終わったあと、少し考えはじめると、
「〈世界のてっぺん〉とは、具体的にどんな指標で測っているのだろう?」「国家強靭化の投資対効果、その基準はどこにあるのだろう?」
などと、いろいろな謎が生まれてくるのだけれど。
しかし、真に私を困惑させるのは、髙市さんがお書きになる文章である。
私は、専門性の高い文章は別として、一般人向けに書かれたものならば、文字を追って論理をつかまえることは、それほど苦手ではないつもりでいる。
ところが、髙市さんがXで連日発信しておられる長文の投稿は、どうも読めない。
なぜ読めないのか。
文章が難しいからではない。
ほかならない髙市さんの〈私〉が見えないのである。
たとえば物価高対策や経済危機について書くのであれば、普通なら、
「私は現在の物価高を、供給ショックと通貨安の複合的要因と捉えている」
といったところから始まってよい。
そこから、
「したがって、物価のメカニズムをこう考える」と、自分の立っている場所を示してくれれば、こちらも、「ああ、この人はこういう経済観から、この政策を主張しているのだな」と理解することができる。
ところが髙市さんの文章では、そうならない。
画面を埋め尽くすのは、「〇〇省から〇〇についてレクを受けました」「〇〇議員らと〇〇の推進に向けた提言を吟味し、〇〇予算の確保に向けて省庁間調整を進めております」「日本の技術力と国民の命を守り抜くため、万全の措置を講じてまいります」といった、公的な用語と政策用語と決意表明の、ほとんど無限とも思える接合である。
これは文章として、かなり不思議なものである。
なぜなら、そこには、
「私はこう考える」
という主体の視座が、ほとんど現れないからだ。
経済学上のどの理論的立場に依拠しているのか。
何を原因と考えているのか。
何を優先し、何を犠牲にするつもりなのか。
そのロジックの骨格が見えないまま、
公的な用語と政策用語が次から次へと繰り出される。
私は途中で読むのをやめてしまう。
もしかして、それが狙いですか、高市さん?
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しかし、ここで私は考え直す。
もしかすると、この「〈私〉の不在」こそが重要なのではないか。
〈私〉を消し去る。
その代わりに、
「日本」
という巨大な主語を置く。
「日本を守る」
「日本を強くする」
「日本の技術力を守る」
「日本の伝統を守る」
「日本の国益を守る」。
すると、たいへん便利なことが起こる。
誰がそう考えているのか、という問いが消えてしまう。
なぜなら、
「日本がそう言っている」
かのように聞こえるからである。
ここで「日本」という言葉が、
恐ろしく便利な言葉として立ち上がってくる。
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では、その「日本」とはいったい何なのだろう。
ご存じのとおり、髙市早苗さんは、
日の丸を背負っているかのような日本女性である。
では、その「日本」の起源は、いつなのだろう。
日本史学の議論を厳密に追うつもりはない。
ただ、「日本」という国号や政治的共同体の形成が、
少なくとも古代国家形成の過程において
歴史的に成立してきたものであることくらいは、私たちは知っている。
ましてやベネディクト・アンダーソンに至っては、
ネーションという概念は、
近代国家の成立のために創造されたとまで言いきっている。
ところが、髙市さんや自民党の一部(?)の人々が天皇制について語るときには、
「2600年以上継続してきた歴史と伝統」
「126代、男系で皇統が継承されてきた」
といった、神話と歴史叙述の境界を軽々と飛び越えてしまうような言葉が、国会という場所で(!)堂々と使われるのだ。
私は、ちょっと困ってしまう。
いったい、その「日本」は、いつからの日本なのだろう。
神話の日本なのか。
古代国家としての日本なのか。
明治国家としての日本なのか。
戦後憲法のもとにある日本なのか。
それとも、それらすべてをひとつにつないだ、
時間を超越した「日本」なのか。
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そして、さらに難しい問題がある。
「日本人」とはいったい誰なのか。
アメリカであれ、イギリスであれ、フランスであれ、
外国から来た人間が国籍を取得すれば、その国の国民になる。
もちろん、歴史的、文化的、社会的な帰属意識が一晩で変わるわけではない。
しかし、少なくとも近代国家の原則においては、
国籍という法的資格が国民を定義する。
ところが髙市さんを含むある種の人々にとっては、
どうやらそう単純ではないらしい。
外国から来た人が日本国籍を取得しても、
その人はいつまでも「移民」であり続ける。
ここでもまた、血であり、血統なのである。
競馬馬の気持ちがわかろうというものである。
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認めよう。
私の移民問題についての立場は、きわめてあいまいだ。
私は、多民族都市でありながら、なぜか平和な西葛西に暮らし、
西葛西を愛している。
外国旅行をするときには、大久保にあるネパール人たちの旅行代理店で飛行機のチケットを買う。
(私は大久保の街が好きだけれど、ちょっと極端だとは思う。)
池袋東口を歩けば中国語が聞こえてくる。
飲食店は、ほぼすべてガチ中華の店ばかりである。
(グルメとしてはたいへん好奇心をそそられる。しかし、もしもああいう街がこれから東京のあちこちにどんどん増えてゆくのだとしたら、さすがにまずいんじゃないか、とも思う。)
川口や蕨では、クルド人をめぐる問題が起きている。
(長年暮らしてきた日本人が、街を離れているという話を聞くと、胸が痛む。)
五反田のルミネの一階と二階のあいだの踊り場で、ムスリムの女性がカーペットを敷き、頭をついて礼拝しているのを見て、私は度肝を抜かれたこともある。
私は、異文化に興味がある。
外国人がいる街も好きだ。
しかし、自分の暮らしている街が、自分の知らないうちに、自分の知らない場所になっていくことには、やはり不安を感じる。
認めよう。婉曲的に言って、
私は、そんなに立派な人間ではない。
これについて論拠を列挙することは避けたい。
いずれにせよ、日本は、もうずいぶん前から、
私が子どものころに知っていた「日本」とは、まるで違う。
コンビニに行けば外国人店員がいる。
(近年はネパール人とヴェトナム人が多い。)
街を歩けば、外国語が聞こえる。
レストランに入れば、外国人が働いている。
東京という都市そのものが、
いつの間にか、いくつもの国の重なりとして存在している。
それは、悪いことなのだろうか。
私は、わからない。
いや、たぶん、良いとか悪いとかだけでは、
もう考えられないところまで来ている。
しかし、それは日本ではない、ということなのだろうか。
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そして、さらに困ったことがある。
日本は、とっくに老人社会である。
働く人が減っている。
介護をする人も足りない。
建設現場にも人が足りない。
農業にも人が足りない。
外国人労働者なしには、すでに成り立たない産業もある。
年金財政だってそう簡単ではない。
だとすれば、
移民が嫌いで、日本を強く豊かにすることは、本当に可能なのだろうか。
私は、その答えを髙市さんの言葉のなかに探してみる。
しかし、見つからない。
「日本を強く豊かに」
という言葉は、何度も出てくる。
「日本を守る」
という言葉も何度も出てくる。
ところが、
その「日本」を、いったい誰によって支えるのか。
という問いになると、急に言葉は極端に少なくなる。
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ここで私は、髙市さんを批判しているのではない。
けっして私は、わが友、
狂信的な髙市信者・パコ崎ミャ子さんを怒らせたいわけではない。
私はただ、
「日本」という言葉が、あまりにも便利すぎるのではないか
と言っているだけだ。
「日本」と言えば、そこに誰が含まれ、
誰が含まれないのかを考えなくても済む。
「日本人」と言えば、誰が日本人なのかを定義しなくても済む。
「伝統」と言えば、いつからの伝統なのかを問わなくても済む。
そして、
「日本を守る」
と言えば、
何から守るのか。
誰を守るのか。
誰が守るのか。
そのために誰が負担するのか。
という、政治にとって本当に面倒な問いを、
いったん全部、棚上げすることができる。
だから「日本」(という言葉)は、強い。
いや、あまりにも強すぎる。
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そして私は、ようやく第五章の「声」に戻ってくる。
髙市さんの声が、
「日本を守ります」
と言った瞬間、
そこに「日本」という巨大な主語が現れる。
しかし、その主語は発話していない。
発話しているのは、髙市早苗さんである。
それなのに、まるで「日本」が髙市早苗さんの声を借りて喋っているように聞こえる。
ここに、政治家の言葉のもっとも恐ろしいところがある。
政治家は自分の意見を語っているように見える。
しかし、ときとして、
国家そのものが喋っているように聞こえる。
そのとき、「私」は消える。
そして「日本」が残る。
私は、この章で髙市早苗さんの言葉を読んでいたはずなのだけれど、
いつの間にか、
「日本」という巨大な主語を読んでいたのかもしれない。
つづく
