髙市早苗論 第五章:声論――声は思想より先に届く
髙市総理は、総理就任以降、圧倒的な支持率を誇っていたものだ。
なるほど2026年7月中旬、おそらくは皇室典範改正をめぐる問題をきっかけに、円安が止まらないこともあって、支持率は落ちている。
しかし、それであってなお、かなりの支持率を保っている。
このことが、文字と数字しか見ないおっさんたちには、どうにも理解できないらしい。
口の悪い左翼などは、こんなことを言い捨てる。
「あんなくるくるぱーの、バブルで時間が止まった、
年嵩のいったおねえちゃん、最初からあかんに決まっとるやんけ」
私は呆れる。
だからエリート左翼はあかんねん。
ちょっとは五感を使って生きんかい。
五感を使って生きている私のような者にとって、
髙市人気は、別に不思議でもなんでもない。
髙市さんは、見た目がすっきりしている。
国民の愛国心に訴えかける。
言葉が明快である。
政策実現の可能性については、とりあえず横に置いておこう。
そして、標準語と関西弁のバイリンガルである。
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政治家の声について考えてみよう。
声は、言葉より先に届く。
これは、少し考えればあたりまえのことである。
私たちは政治家の演説を聞くとき、
まず意味を理解してから声を聞くわけではない。
声が先に届く。
高いか低いか。
硬いか柔らかいか。
強いか弱いか。
速いか遅いか。
間の扱い。
そして、その声がどこから出ているように感じられるか。
胸から出ているのか。
喉から出ているのか。
腹から出ているのか。
あるいは、どこから出ているのかわからないのか。
そのあとで、ようやく言葉の意味がやってくる。
つまり、
声は思想より先に届くのだ。
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これは政治家にとって、きわめて重要なことである。
「日本列島を強く豊かに」
「挑戦しない国に未来はありません」
こんな言葉だけなら、誰だって言うことができる。
しかし、それを誰が、どんな声で言うのかによって、
まったく違う意味になる。
若い男が言う。
老人が言う。
官僚が言う。
学者が言う。
アイドルが言う。
そして髙市早苗さんが言う。
同じ文章であっても、私たちの身体に届く場所が違うのだ。
ここで政治が始まる。
いや。
言葉になる前から、政治は始まっているのだ。
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そして髙市さんには、もうひとつ面白い特徴がある。
標準語と関西弁を使い分けるのである。
いいえ、なんでもかんでも関西弁でしゃべっていると効果は薄いが、
しかし、ここぞというときの関西弁は効く。
抜群に効く。
これは大きい。
ものすごく大きい。
標準語は、国家の言葉である。
少なくとも、日本の公共空間においては、そういう顔をしている。
国会。
記者会見。
公式声明。
テレビ討論。
ここでは標準語が働く。
しかし、関西弁が入った瞬間、空気が変わる。
距離が縮まる。
身体が近くなる。
国家から人間へ。
総理からおねえちゃんへ。
東京から関西へ。
公的言語から私的言語へ。
この切り替えが、髙市さんの場合、かなり強い。
つまり髙市早苗さんは、ひとつの声を持っているのではない。
複数の声を持っている。
いや、もっと正確に言おう。
複数の「私」を、声によって使い分けるのである。
しかも、髙市さんの場合、声によって女っぽさまで調節できる。
これは、かなり高度な技術である。
国家について語るときには、女っぽさを抑える。
強い日本について語るときには、政治家としての声になる。
論敵に向かって話すときには、さらに硬くなる。
ところが、相手との距離を縮める必要が生じると、
ふっと女っぽさが現れる。
私は、ここで、どうしても書いておかなければならないことがある。
髙市さんは、トランプ大統領と話すとき、
あろうことか、一人称に「サナエ」を使うのである。
これは元朝日新聞記者の佐藤章さんがネット・メディア『一月万冊』の
ご自分の放送のなかでおっしゃってうたことで、
私は椅子から転げ落ちた。
サナエ。
サナエですよ。
日本国総理大臣が、アメリカ合衆国大統領に向かって、
「サナエはね」
と話しはじめるのである。
これはもう、政治技術として説明してしまっていいものなのか。
あるいは、説明してはいけないものなのか。
私にはわからない。
ただひとつだけ確実に言えることがある。
髙市早苗は、無敵である。
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ここで、第三章の「表情論」とつながってくる。
表情が百面相なら、声もまた百面声である。
怒っているときの声。
笑っているときの声。
聴衆に語りかける声。
論敵を攻撃するときの声。
国家について語る声。
自分の過去を語る声。
安倍元首相について語るときの声。
そして、ふっと関西弁になる声。
それぞれが少しずつ違う。
しかし、それらはすべて「髙市早苗」というひとつの政治的人格へ回収される。
ここに政治家の声の不思議がある。
声は、その人間の内面を表現しているように見える。
しかし実際には、声によって「その人間」が作られているのかもしれない。
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だから、私は文字と数字しか見ない人たちに言いたい。
支持率を見てもいい。
政策を読んでもいい。
世論調査を分析してもいい。
しかし、それだけではまったく足りない。
政治家を見よ。
そして、
政治家を聞け。
政治家がどう立っているかを見よ。
どう笑うかを見よ。
どう怒るかを見よ。
そして、どう声を出すかを聞け。
政治とは、文章ではない。
政治とは、数字でもない。
少なくとも大衆政治の時代には、政治とはまず、身体に届くものでなくては機能しないのだ。
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視覚。
聴覚。
表情。
声。
髪型。
衣装。
視線。
そして言葉。
これらが組み合わさって、ひとりの政治家が「商品」として成立する。
そして髙市早苗さんは、その総合的なプロデュースにおいて、きわめて高い能力を持っている。
だから私は言う。
髙市さんを支持するか、しないか。
そんなことは、とりあえずどうでもいい。
好きか嫌いか。それも、とりあえずどうでもいい。
問題はもっと単純である。
いま、本格的になりつつあるポピュリズムの時代に、
これほど適応した政治家が、いったい何人いるだろうか。
髙市早苗さんは、視覚を使う。
聴覚を使う。
感情を使う。
身体を使う。
そして、言葉を使う。
つまり、
五感を使って政治をしている。
文字と数字しか見ないおっさんたちには、
この政治家の強さは、いつまでたってもわからないだろう。
なぜならかれらは、政治を読んでいる。
しかし大衆は、
政治を見ている。
そして、
政治を聞いている。さらには、
政治を感じている。
だから、髙市早苗さんの人気は、
少しも不思議ではない。
むしろ不思議なのは、
これほどまでに五感に訴えかける政治家が登場しているというのに、
いまだに政治を文字だけで読もうとしているおっさんたちが、
日本を支配していることなのだ。
もっとも、以上の意見は、
髙市政権の政策評価とはまったく無関係である。
念のため。
つづく
