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髙市早苗論 第八章:沈黙論――「これについては言わんどこ、言うたら損や」の政治学

政治家は、言葉によって政治を行う。
しかし、言わないことによってもまた、政治を行う。

質問に答えない。
一瞬、黙る。
部分的にだけ正直に語る。
しかし、けっして全体については語らない。
笑って済ませる。
そそくさと別の話題に移る。
あるいは、
「そのご質問には、すでにお答えしたと認識しております」
などと、質問には答えずに、答えたことにしてしまう。


これはまるで、浮気夫のふるまいではないか。
あるいは浮気妻の言いぐさではないか。
身に覚えのある読者も多いのではないかしらん。
むかしの怒りが、いまめらめらと再燃してきた読者もいるかもしれない。しかし、困ったことに、
これは政治家もまた、たいへんよく使う手口なのである。


だから政治家の言葉を読むときには、
語られた言葉だけを読んではいけない。
語られなかった言葉を探さなければならない。

そして、それが見つかったなら、
「なぜ、この人はこれを言わなかったのだろう?」
と考える。
政治家の言葉を読むということは、そういうことでもある。
だって、国民は誰だって、政治家に騙されたくないですものね。

もっとも、これが習慣になると、あなたは少し嫌な奴になってしまう。
人の話を素直に聞けなくなる。
「この人はいま、何を言っているんだろう」
ではなく、
「この人はいま、何を言わないようにしているんだろう」
と考えてしまう。

政治家だけにではない。
友人の話を聞いていても、
恋人の話を聞いていても、
会社の上司の話を聞いていても、
「なんでそこだけ説明せえへんねん」
などと思うようになる。
これはかなり嫌な奴である。

簡単に騙される、素直でかわいい国民であることに甘んじるか。
それとも、
「騙されてなるものか」
と疑り深い国民になることと引き換えに、少し嫌な奴になるか。
ままならないものですね。

これが世にいう、トレード・オフである。


「これについては言わんどこ、言うたら損や」

この文脈において、日本初の女性総理大臣となった髙市早苗という政治家は、たいへん興味深い。
なぜなら彼女は、
きわめて雄弁でありながら、同時にきわめて戦略的に「言わないこと」を行使する政治家だからである。

髙市さんの政治スタイルを、あえて一言で表現するなら、こうなる。

〈計算されたしゃべりに基づいて、しゃべりたいことについてはめっちゃ雄弁な癖に、「これについては言わんどこ。少しでもしゃべるとゼッタイ損や」という事柄については、断固しゃべらない。

この両者が平然と共存している。
いや、むしろ、

雄弁であるからこそ、沈黙が際立つ。

ここが重要なのである。


髙市さんは、自身の信念を語るとき、たいへん明確な言葉を選ぶ。

自衛権の行使。
経済安全保障。
皇室の伝統。
国家の尊厳。
日本を守る。

こうしたテーマについて語る彼女の言葉は、具体的で、力強く、迷いがないように聞こえる。
ところが、その「過剰な明瞭さ」のすぐ隣には、奇妙な空白がある。

つまり、

「これについては言わんどこ。ちょっとでもしゃべるとゼッタイ損や」

という領域である。

髙市政治が、かなり厳格に守っているらしい原則がある。

それは、

原理原則は、めっちゃ強調する。
しかし、現実的なトレードオフについては、言うたらあかん。

というものである。




たとえば、髙市さんは
「日本を守る」
という。

たいへん結構である。
誰も反対しない。

「国家の安全保障を強化する」
これも結構である。

ところが、そこで少し意地悪な質問をしてみよう。

防衛費を増額するのは結構です。
しかし、そのお金はどこから持ってくるのでしょう。
いままでどこに使われていたお金を削るのでしょう。
あるいは、誰が新たに負担するのでしょう?

これは、しごくまっとうな問いである。
しかし、この問いは、
「日本を守る」という美しい言葉から、
一気に「誰がなんぼ払うねん」という
関西のおっちゃんおばちゃんの現実へ降りてまう。
だから言いたない。
「あたしは尼崎の八百屋でダイコン売ってんのとちゃうねんで。
輝く日本の内閣総理大臣なんや」というわけである。

なるほど「国家の強さ」は美しい。
「国家の強さのために、あなたの税金をあと何万円いただきます」は、
あまり美しくない。
政治家にとって、ここには大きな違いがある。

髙市さんがゼッタイに語りたくないのは、
国家の強さそのものではない。
その強さを手に入れるために、

誰が何を負担するのか。

その、あまりにも現実的なコストなのである。


同じことは、国家安全保障と国民の自由権との緊張関係について尋ねたときにも起こる。

国家を守る。
国民を守る。
生命と財産を守り抜く。

たいへんありがたい。

しかし国民は、心の中でこう思う。

髙市さんが、わしらの生命と財産を守り抜く言うてくれるのんは、ありがたいねん。
せやけど、そのために、わしらがおまんま食いあげちゅうのも困んねん。
それに、守ってもらう代わりに、わしらの自由までちょっとずつ持っていかれるんやったら、

そこもちゃんと説明してくれなあかんがな。


当たり前ではないか。

国家の安全と個人の自由。

国家の強さと国民の負担。

安全保障と経済。

理念と現実。

政治とは、本来、こうした相反するもののあいだで、
「さて、どうしましょ」
と考える仕事ではないか。

ところが、そこまで降りてくると、
政治家の言葉は急に難しくなる。
だから、
「日本を守る」
とだけ言う。

これなら簡単である。

しかし、
「日本を守るために、あなたにはこれを我慢していただきます」
となると、途端に難しくなる。

沈黙は、ときとして、この難しさから政治家を救ってくれる。


夫婦別姓制度や同性婚の法制化についても、
髙市さんは積極的に議論のテーブルへ乗せようとはしない。

まるで、彼女はこう言っているかのようだ。

「ダルっ。勘弁してちょ。左翼はみんなアホばっかりや。アホとしゃべるとアホが伝染してかなわんわ」

もちろん、実際にそんなことをおっしゃったわけではない。
私はただ、そう見える、と言っているだけである。

あるいは、彼女の言い分にも一分の理があるのかもしれない。

政治家にとって、すべての問題について、すべての論点を、すべての有権者に向けて説明し続けることなど不可能だからである。

だから、

何を語るかを選ぶことは、政治家の能力である。

しかし同時に、

何を語らないかを選ぶことも、政治家の能力である。

そして後者の能力は、前者よりも見えにくい。


だから、言葉の政治家・髙市早苗を読むとは、
彼女の弾丸のような答弁を聞くことではない。

むしろ、

その答弁の切れ目。
質問者と視線が合った瞬間の、ほんのわずかな間。
急に笑顔になった瞬間。
話題が別の方向へ滑っていった瞬間。
「国家」という大きな言葉が現れた瞬間。
そして、その大きな言葉の陰に隠れてしまった、小さな言葉。

あるいは、

最後まで発せられなかった言葉。

そこに、じっと耳を澄ますことである。

政治家の沈黙は、無音ではない。

そこには、
「これについては言わんどこ」
という、たいへん雄弁な声が響いている。

そして私たちは、その声を聞き取らなければならない。

しかし、困ったことに。
それを聞き取れるようになったとき、私たちはもう、

素直でかわいい国民ではいられないのだ。



つづく


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