髙市早苗論 第九章:支持者論――髙市早苗は誰によって髙市早苗になるのか
いつの時代も、〈現在〉について語るのは難しい。
なぜなら現在というものは、あっというまに過去になるからである。
昨日の政治的事件は、今日にはニュースになり、明日には「歴史的経緯」になる。
ましてや髙市早苗という人物について語る場合には、なおさらである。
彼女は現在の日本政治のただなかにいる。
そして、現在のただなかにいる人物を、その現在のただなかから論じることほど難しいことはない。
それでも、やってみよう。
なにしろ、この論考は最初から無謀な試みなのだから。
誰が髙市早苗を支持しているのだろう。
高橋洋一、門田隆将、櫻井よしこあたりの名前はすぐに思い浮かぶ。
しかし、かれらはいわばご商売である。
政治家を支持することもまた、ひとつの言論ビジネスになりうる。
だから、本当に知りたいのは、その向こう側にいる人々である。
髙市早苗を支持している名もない人々。
テレビの前にいる人。
YouTubeを見ている人。
Xで「高市さんしか勝たん」などと書いている人。
あるいは、そんなことは何も書かず、
ただ髙市応援ウォッチャーに徹する人。
かれら彼女らはいったい何を髙市早苗に見ているのだろう。
残念ながら、世論調査からわかるのは、
「支持する/支持しない」
という、あまりにも大雑把なことだけである。
人間の心というものは、どうやら百分率で表せない。
それでも、髙市政権発足当初の支持者については、
いくつかの特徴が語られていたものだ。
都市部に住むノンセクト保守。
既存の大手メディアに強い不信感を持ち、YouTube、X、保守系の言論誌などを情報源とする人々。
つまり、「もう古い自民党政治には飽きた。しかし、左翼にも行きたくない」という人々である。
これは、かなり重要なことである。
なぜなら、かれらは必ずしもウルトラ右翼ではないからだ。
むしろ、
「日本は好きだ」
「伝統は大切だ」
「しかしカネまみれの政治家のおっさんたちには、もううんざりだ」
という、もっと曖昧な人々だったのではないか。
私はそう推測している。
考えてみれば、私自身もこの層の一員かもしれない。
もっとも、けっして髙市ファンというわけでもないけれど。
だからこそ、髙市政権発足当初の熱狂は理解できる。
すっきりスマートな見た目。
明解で力強いスローガン。
男っぽさと女っぽさを自在に切り替えるギア・チェンジ。
国会では標準語を話しながら、個人的な話になると関西弁になるという、奇妙なバイリンガル。
そして何より、
おっさんだらけの国会に、燦然と現れた初の女性総理大臣。
これで人気が沸騰しないわけがない。
いや、もっと正確に言おう。
彼女は、支持者たちが待ち望んでいた「政治家の形」に、あまりにも見事にはまったのである。
ところが、皇室典範改正を境に、事態が変わった。
かつての支持者の一部は、
「これは、私たちが期待していた髙市さんではない」
と思い始めた。
ここで重要なのは、髙市早苗本人が変わったのかどうかではない。
支持者が、髙市早苗を見る目を変えたのである。
政治家にとって、これは恐ろしいことだ。
政治家は、自分自身だけでは政治家になれない。
支持者から見られることによって、政治家になる。
そして、その「見られ方」が変わった瞬間、
同じ人間が、
昨日までの「日本を変えてくれる女性政治家」から、
今日は「自分たちを裏切った政治家」へと変貌するのだ。
髙市早苗本人は、おそらくまったく変わっていないのに。
私は彼女が変化する姿をまったく想像できない。
しかし、髙市早苗という政治的人物は変わってしまう。
これは、じつに奇妙なことである。
政治家は、自分で自分を作っているように見える。
しかし実際には、
支持者が作る。
メディアが作る。
反対者が作る。
写真家が作る。
テレビが作る。
SNSが作る。
そして本人が、そのすべてを引き受けて、
「私は髙市早苗です」
と登場する。
第六章で私は、髙市さんが「日本」という巨大な主語を使うことについて書いた。
第八章では、「言わないこと」について書いた。
そしてここでは、
髙市さん自身が、他人によって書かれている
という問題に出会ってしまった。
勢いのある政治家には、奇妙な正の循環がある。
政治家が発言する。
支持者が絶賛する。
その絶賛によって政治家の存在感が増す。
存在感が増すから、さらに発言する。
その発言をまた支持者が絶賛する。
こうして、
政治家の主張 → 支持者の絶賛 → 政治家のプレゼンスの増大 → さらなる支持という循環が生まれる。
しかし、いったんこれが負のスパイラルに嵌りこむと恐ろしい。
政治家が何を言っても、
「また高市か」
となる。
何をしても、
「人気取りだ」
となる。
被災地へ行けば、
「プロモーションだ」
と言われる。
行かなければ、
「現場を知らない」
と言われる。
笑えば、
「ヘラヘラするな」
と言われる。
怒れば、
「怖い」
と言われる。
黙れば、
「説明責任を果たせ」
と言われる。
しゃべれば、
「余計なことを言うな」
と言われる。
政治家というものは、ずいぶん気の毒な商売である。
ここで私は、もうひとつ奇妙なことに気づく。
かつての髙市支持者たちも、いま、狼狽しているのではないか。
「こんなはずじゃなかった」
と思っているのではないか。
では、反髙市派は勝利の祝杯をあげているのか。
必ずしも、そうではないだろう。
なぜなら、反髙市派もまた、
「髙市早苗」という人物を必要としている
からである。
髙市さんがいなければ、
「反髙市」
という立場も成立しない。
敵が必要なのは、政治家だけではない。
反対者にも敵が必要なのだ。
支持者も、
反対者も、
メディアも、
本人さえも、
みんなで髙市早苗という人物を書いてきたのだ。
そして、ここまで考えてくると、
この章の題名そのものが怪しくなってくる。
「支持者論」などと言っているが、
いったい私は誰について書いているのだろう。
髙市早苗についてなのか。
髙市早苗を支持する人々についてなのか。
それとも、髙市早苗を支持したり、批判したり、眺めたり、笑ったり、怒ったりしている、
私たち自身についてなのか。
いま、自分が書き終えつつあるこの文章を読み返して、私は思う。
なんだか平凡な政治エッセイになってしまったなぁ。
政治家には支持基盤がある。
支持基盤が変化する。
政治家と支持者の関係が変化する。
政治家の人気には上昇局面と下降局面がある。
なるほど、全部正しい。
そして、
全部つまらない。
しかし、これはもう逃れられないことなのかもしれない。
髙市早苗を語ろうとすると、
人は誰でも平凡になる。
政治について語れば政治評論になる。
支持率について語れば世論調査の解説になる。
支持者について語れば社会学になる。
政策について語れば政策論になる。
では、どうすればいいのか。
いまにして思えば、
『ボヴァリー夫人』の著者フローベールは、ずいぶん早くこのことに気づいていたのかもしれない。
エンマ・ボヴァリーについて語ろうとすると、
人はすぐに彼女を、
「愚かな女」
「不幸な女」
「不倫する女」
「ロマンチックな女」
などと説明してしまう。
しかし、そのどれもがエンマ・ボヴァリーそのものではない。
彼女を説明した瞬間、
彼女は凡庸になる。
そして、もしかすると、
髙市早苗についても同じなのではないか。
「右翼政治家」
「女性政治家」
「ポピュリスト」
「保守政治家」
「強い女性」
「危険な政治家」
「人気政治家」。
どの言葉も間違ってはいない。
しかし、どの言葉も、
髙市早苗という奇妙な存在を、
あまりにも簡単に説明してしまう。
だから私は、初心に戻って、
次の章から、
もう髙市早苗を説明しないことにしよう。
説明するかわりに、
もっと細かく見ることにしよう。
服を見る。
顔を見る。
声を聞く。
歩く姿を見る。
笑う瞬間を見る。
黙る瞬間を見る。
そして、その細部のなかに、
政治というものが、
いったいどのようにして入り込んでいるのかを、
もう一度考えてみよう。
なぜなら、
人間は、説明されるために生きているのではない。
そして、
髙市早苗もまた、
そうなのだから。
つづく
