髙市早苗論 第十章:敵論――政治家には敵が必要なのか?
2025年11月、髙市総理は国会で、
「台湾有事は日本有事」
なる発言をして、物議をかもした。
髙市さんの観念世界において、日米同盟は強固なものである。
もしも中国が台湾を攻撃したならば、アメリカが援軍に現れる。
日本はアメリカの同盟国であり、
しかも台湾海峡はわが国にとっても重要な海の道である。
ならば日本もまた、アメリカとともに
台湾を助けに行くのが当然ではないか。
ざっくり言えば、そういう論理なのだろう。
もちろん、実際の安全保障法制や集団的自衛権の問題は、
そんなに単純ではない。しかし、ここではそれを論じない。
私が興味を持っているのは、もっと別のことである。
髙市さんの政治的想像力のなかで、
「敵」がどのように登場しているのか。
他方、中国にとっては、これは傍迷惑な話である。
中国にとって台湾は、そもそも中国の領土である。
(台湾がどう考えているかは別として。)
その中国の一地方であるところの台湾が、
「なにかの間違えで」まるで独立国のようにふるまっている。
これは間違った事態なので、
いずれ糺さなければならない、
そう考えているのだろう。
にもかかわらず日本の総理がしゃしゃり出てきて、、
「台湾有事は日本有事」
などと囀る。
中国からすれば、
「なんでおまえがしゃしゃりでてくる?
お呼びじゃないよ、すっこんでろ、日本姐姐 (Rìběn jiějie)」
という話になる。
すなわち台湾は国の一部なのだから、
中国がどうするかは中国の問題である。
そこへ日本が、「いやいや、これは日本にも関係ありますから」
と割り込んでくる。
中国が激怒するのも、まあ、わからないではない。
日本国内でも、髙市発言をめぐって賛否両論がかまびすしかった。
どちらかといえば、批判の声のほうが大きかったのではないか。
かれらは言う。
中国がいかに恐ろしかろうとも、
日本は中国と経済的にも地理的にも深い関係にある。
ならば、たとえ腹のなかで何を考えていようとも、
表面上は仲良くつきあってゆくほかないではないか。
総理大臣があえて中国を刺激するような発言をするのは、
国益を損なうだけではないか。
他方、髙市支持者は喝采を送る。
「よく言った、さすが髙市さん!」
「髙市さんは見事に中国をビビらせた!」
「こんな総理は、いままでいなかった!」
「髙市さん、マンセー!!!」
そんななか、私はひとり、
「ここで話題になっている台湾って、
私が多少なりとも知っている、
あの台湾なんだろうか?」
と、つぶやいていた。
私にとっての台湾は、ざっとこんなふうだ。
夜の台北のNZ HOTELのカウンターで、
立派にホテルマンの仕事をしていた國民學校の男の子。
同じく台北のマッサージパーラーの、強揉みの翁嘉恵さん、陳麗華さん。
泰雅族のクリエイティヴなコンテンポラリー・シンガーソングライター、蘇婭(Su Yang)さん。
都蘭の海辺の草っぱらにいた牛たち。
人間サイズのかわいい街、宜蘭。
台北駅のそばにある西洋古典音楽CDショップ、玫瑰大眾古典館。
その店の店員のクラシックファンの楊さん。
しかし、髙市さんの語る台湾には、
そんな生きている台湾の姿は、
まるで見えない。
もちろん、政治家の言葉とは、
そういうものなのだろう。
政治家が国会で、
「台湾には都蘭の海辺に牛がいましてね」
などと言いはじめたら、
それはもう不条理演劇である。
国家は牛では動かない。
外交も、マッサージパーラーの強揉みでは決まらない。
だから政治家は、台湾を「台湾」と呼ぶ。
そして台湾を、
安全保障上の重要地域、
半導体の供給拠点、
シーレーン、
自由主義陣営の一員、
中国との対立軸、
などといった言葉に変換する。
そうすることによって初めて、
台湾は政治的に扱うことのできる対象になる。
しかし、その瞬間、
生きている台湾は、
消えてしまう。
國民學校の男の子も、
翁嘉恵さんも、陳麗華さんも、
蘇婭さんも、
都蘭の海辺の牛も、
宜蘭の小さな街も、
玫瑰大眾古典館の楊さんも、
国家安全保障という巨大な言葉のなかから、
きれいさっぱり消えてしまう。
もちろん、これは髙市さんだけの問題ではない。
政治家は、そうしなければ政治を語れない。
「台湾に住んでいる何千万人もの人々」を、
ひとつの「台湾」という単語に圧縮する。
中国を「中国」にする。
日本を「日本」にする。
そして、その「中国」と「日本」のあいだに、
国益という線を引く。
政治とは、
もしかすると、このような巨大な圧縮作業なのかもしれない。
目の前にいる無数の人間を、
「国民」にする。
土地を、
「領土」にする。
海を、
「シーレーン」にする。
工場を、
「半導体供給網」にする。
そして隣国に住む何億人もの人間を、
ときには「脅威」にする。
そうして初めて、
国家は国家として行動できる。
しかし、そのとき、
私たちはいったい何を失っているのだろう。
では、果たして、
人間的な視点を保ったまま国家安全保障を語ることは可能なのだろうか?
これは難問中の難問だ。政治言語が人を消去する構造に抗えるのは、最終的には政治家個人の〈人間的深み〉に期待するしかないのだろう。それがどれほど望み薄な賭けであったとしても。
さて、ここで私は、第六章で書いた「日本」という言葉を思い出す。
政治家にとって、
「日本」
という言葉は便利である。
そこには私もいる。
あなたもいる。
髙市さんもいる。
北海道も沖縄もある。
東京もあればそのなかには西葛西もある。
しかし、そのすべてが、
「日本」
という一語に押し込められてしまう。
台湾も同じなのではないか。
日本の政治家にとっての台湾とは、
人々が暮らす場所である以前に、
「日本の安全保障にとって重要な台湾」
なのである。
次に、「経済的に有益性のある台湾」が続く。
つまり政治は、人間を国家に変換するだけではない。
場所を、政治的な意味を持つ場所へ変換すのである。
そして、ここで「敵」の問題が出てくる。
「日本列島を強く、豊かに」
という髙市さんのスローガンは、
中国という仮想敵を置くことによって、
はじめて輪郭を持つのではないか。
中国抜きの「日本を強くする」では、あまりにも抽象的すぎる。
部屋のなかで筋トレに明け暮れてばかりで、
実戦経験のない格闘家のようなものだ。
あ、ついこんな比喩が出てきてしまうところが、
あのスローガンの恐ろしさである。
いつから日本は格闘家国家になったのか?
あのスローガンは、結局、
「中国の脅威から日本を守る」
という意味なのだ。
なんとなれば、
たちまち話は具体的になる。
防衛費を増やす理由もできる。
経済安全保障を強化する理由もできる。
サプライチェーンを見直す理由もできる。
そして何より、
「強い日本」という物語に、観客を参加させることができる。
敵がいる。
だから、私たちは団結しなければならない。
敵がいる。
だから、強くならなければならない。
敵がいる。
だから、あなたも私も「日本人」なのだ。
これは、政治というもののかなり古い仕組みなのだろう。
外に敵がいるとき、内側の人間は「私たち」になる。
逆に言えば、
「私たち」を作るためには、「かれら」が必要になる。
敵とは、単なる敵ではない。
「私たち」を作るための、
かなり便利な装置なのである。
しかし、ここで私は困ってしまう。
中国は本当に敵なのだろうか。
もちろん、中国政府と日本政府のあいだには深刻な対立がある。
全保障上のリスクも存在する。
台湾海峡の緊張も現実の問題である。
だから、「中国なんて怖くない」
と言ってしまうのも、あまりに楽天的だ。
しかし同時に、
中国という国には十四億人近い人間が暮らしている。
そこには、
私が出会った台湾の人々と同じように、
笑ったり、
恋をしたり、
音楽を聴いたり、
飯を食ったり、
子どもを育てたり、
仕事に疲れたりする人間がいる。
かれらをひとまとめにして、
「中国」
と呼んだ瞬間、
また別のものが消えてしまう。
だから私は、髙市さんのヴィジョンを、
単純に「リアリズム」だとは呼べない。
なるほどたしかにそこにはリアリズムがある。
中国の軍事力は現実である。
台湾海峡の地政学的重要性も現実である。
日米同盟も現実である。
しかし、現実を見ることと、現実の一部分だけを巨大化して見ることは、
同じではない。
ここに私は、
「パラノイア・リアリズム」
という、なんとも怪しげな言葉を持ち出したくなる。
敵は実在する。
脅威も実在する。
だからこそ、それを見つめ続けるうちに、
世界のすべてが「敵の存在」を中心に組み立てられて見えてくる。
これは妄想ではない。
むしろ、
現実があまりにもリアルであるがゆえに、そこから逃れられなくなる状態なのではないか。
リアリズムとパラノイア・リアリズム。
その中間に、髙市早苗さんの世界が危なっかしく存在している。
あるいは、
リアリズムにも見えるものが、
同時にパラノイア・リアリズムにも見える、
と言うべきなのかもしれない。
そして、もっと怖いことがある。
敵を必要としているのは、
政治家だけではない。
支持者もまた、
敵を必要としているのではないか。
「髙市さん、よく言った!」
という喝采は、
髙市さんの言葉そのものへの賛同であると同時に、
「中国に負けるな」という私たち自身の感情の確認でもある。
政治家が敵を作る。
支持者がその敵を共有する。
共有された敵によって、
支持者同士が「私たち」になる。
そして「私たち」が強くなるほど、
政治家もまた強くなる。
これは、第九章で書いた「支持者論」とつながってくる。
髙市早苗は、
支持者によって髙市早苗になる。
そして、
敵によってもまた、髙市早苗になる。
ここまで来ると、
「敵論」は、どうやら「中国論」ではない。
ましてや台湾有事についての安全保障論でもない。
それは、政治家はいったい、誰を敵として選ぶことによって、
自分自身を政治家にしているのか、という問いなのだ。
そして、その敵を見つめる政治家を、
私たちはまた見つめている。
第八章までの議論を思い出してほしい。
政治家は語る。
沈黙する。
行動する。
そして敵を見る。
私たちは、その政治家を見る。
するといつのまにか、
政治家が見ている敵まで、
一緒に見ることになる。
政治家の視線は、
敵を作る。
そして敵は、
政治家を作る。
なんとも奇妙な話ではないか。
つづく
