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髙市早苗論 第十一章:身体論――政治家の身体は誰のものなのか

政治家の身体は、もはや私的な身体ではない。

髙市早苗さんの、たらこごはんや、豚まんや、ステーキで作られた、推定身長160センチ前後、推定体重50キロ前後の肉体は、カメラに映された瞬間、公共的な身体になる。

その身体を、何百万人、何千万人もの人びとが見る。
「ちょっと痩せたんじゃない?」
「あのとき、目つきが怖かったよね」
「やめときゃいいのに、また踊っちゃって」
などと、ああだこうだと言われる。

髙市さんが何を食べようが、どれだけ眠ろうが、どこが痛かろうが、本人の身体は本人だけのものではなくなってゆく。
すなわち、髙市早苗の身体を読むことは、政治が身体をどのように公共化するのかを読むことになるのである。


ここまで私は、髙市さんの髪型について書き、表情について書き、視線について書き、声について書き、言葉について書き、そして行動と沈黙について書いてきた。考えてみれば、ずいぶん細かいところまで見てきたものだ。

しかし、これらはバラバラに存在しているわけではない。
ロイヤルブルーを中心に構成される色とりどりのスーツ。
完璧に整えられたショートヘア。
カメラを鋭く射抜く眼光。
低く抑えられた声と、明瞭な滑舌。
公的な発言ではクールに標準語を使い、
私的な感情を吐露するときには人懐こい関西弁になる、
あの巧みなバイリンガル。
そして、隙のない論理構築と、力強いスローガン。

これらが一つの肉体において同時に駆動するとき、
私たちはそこに、単なる女性政治家ではない、
「髙市早苗」という政治的身体
の立ち現れを目撃する。

たいへんな完成度である。
よくぞここまで、一人の人間の身体を政治的に造形したものだと思う。
悪いけれど、石破茂前総理には、とうていできることではない。


しかも、ここには奇妙な逆説がある。

髙市さんが熱を出そうが、身体のどこかが痛かろうが、精神的に疲弊していようが、カメラの前に立って「政治家・髙市早苗」として振る舞いはじめた瞬間、その身体は、一個人の生理的現象であることをやめ、
政治的身体として駆動されはじめる。
ほとんどアンドロイドである。

しかし、問題は髙市さんがアンドロイドなのかどうかではない。
むしろ問題は、私たちが政治家にアンドロイドであることを要求しているのではないか、ということである。

疲れていてはいけない。
動揺してはいけない。
怒ってはいけない。
泣くなら、適切なときに泣かなければならない。
笑うなら、適切なときに笑わなければならない。
いつでも国民のことを考えていなければならない。
そして、できれば毎日、ちゃんと仕事をしているところをカメラに撮らせなければならない。

なんという無理難題だろう。
普通の会社員なら、仕事をしているところを毎日撮影される必要などない。
結果を出せばいい。

しかし政治家は違う。
「仕事をしている身体」そのものが、政治的な成果として提示される。


だから政治家の身体は、本来的に二重化されている。
一方には、眠くなり、腹が減り、病気にもなり、疲れもする、
一人の人間の身体がある。

他方には、国家や権力や政党や有権者の期待を背負った、
「政治家」という身体がある。

この二つは、ほんとうは同じ身体なのである。

しかし、同じではない。
髙市さんが国会の椅子に座っているとき、そこに座っているのは一人の女性であると同時に、日本国の総理大臣である。

この二つを分けることはできない。
だからこそ、政治家の身体は奇妙なのである。


そして、ひとたびその身体がカメラに映ると、
今度は本人の手を離れる。

支持者にとっての髙市さんの身体は、
毅然とした「強い日本」を体現する身体である。

隙のないスーツ。
背筋の伸びた姿勢。
鋭い眼差し。
きっぱりした声。

そこには、「だらしのない政治」に対する反対物としての凛々しさが見出される。

ところが批判者が見ると、同じ身体がまったく別のものになる。
硬すぎる。
冷たい。
威圧的だ。
演出過剰だ。
ナショナリズムの身体そのものではないか。

同じ髙市早苗を見ているはずなのに、まったく違う人物が立ち上がる。

つまり、髙市早苗の身体は、髙市早苗だけによって完成するのではない。支持者が髙市早苗を作る。
批判者もまた髙市早苗を作る。
メディアも作る。
SNSも作る。
写真家も作る。

そして、それらを見ている私たちもまた、
知らないうちに髙市早苗を作っている。


カメラは、その身体を細かく切り刻む。
眉の動き。
一瞬の笑顔。
口元の歪み。
喉の動き。
言葉につまった一瞬。
スーツの皺。
ほんのわずかな目線の移動。

それらが拡大され、切り取られ、文脈から引き剥がされ、

「本音が出たよ!」
「演技だわね!」
「怒ってるぜ!」
「動揺してやがる!」
などと解釈されてゆく。

政治家の身体とは、本人が所有している身体でありながら、
同時に、他人によって勝手に読まれる身体なのである。

いや、勝手に読まれるだけではない。
勝手に書き換えられる身体なのである。

髙市さん自身にはどうすることもできない。


しかも、女性の身体の公共化には、少し厄介な事情がある。

男性政治家の身体は、病気や年齢などの特殊な事情を除けば、「政治家の身体」という抽象的な標準に隠れることが比較的容易である。

ところが女性政治家の身体は、そうはいかない。
服装。
髪型。
体型。
年齢。
化粧。
表情。
声。

女性らしいか、女性らしくないか。
強すぎるか、弱すぎるか。
愛嬌があるか、ないか。
ありとあらゆるものが見られ、
ああだこうだ言われる。

つまり女性政治家は、政治家になる以前に、まず「女性の身体」として見られてしまうのだ。

いまにしておもえばキャスター時代の髙市さんは、
髪も長く、仕草も、服の選び方も、女性性を強調していた。
当時の髙市さんはオヤジたちにも話が通じ、
オヤジたちを夢中にさせる見た目をしていたものだ。
しかし、政治家になってからの髙市さんは、
少しづつ現在の髙市さんに向けて調整されてゆく。

いまの彼女のスーツは、ときに防弾チョッキのように見える。
フェミニニティを完全に消してしまうわけではない。
しかし、それに身体を支配させることもしない。

女らしさを出す。
抑える。
柔らかくする。
硬くする。
そして必要なら、関西のおばちゃんになる。
そのギアチェンジを、一つの身体のなかで行う。

これは、かなり高度な身体操作である。




しかし、ここにもまた皮肉がある。
身体を完璧に管理すればするほど、
その「完璧さ」そのものが新しい政治的記号になってしまうからである。

髪型を整えれば、「演出している」と言われる。
表情を管理すれば、「計算している」と言われる。
毅然としていれば、「冷たい」と言われる。
笑えば、「媚びている」と言われる。
女らしくすれば、「女を武器にしている」と言われる。
女らしさを抑えれば、「可愛げがない」と言われる。

つまり、

逃げ場がないのだ。

政治家になった瞬間から、身体は解釈の戦場になるのである。


では、そもそも政治家の身体は、誰のものなのだろう。

髙市さんのものである。
もちろん、それはそうだ。
たらこごはんを食べるのも髙市さん。
豚まんを食べるのも髙市さん。
ステーキを食べるのも髙市さん。

しかし、その身体がひとたび総理大臣の身体になった瞬間、
支持者の期待がそこに乗る。
批判者の憎悪がそこに乗る。
日本という国家のイメージが乗る。
女性政治家という歴史的意味が乗る。

そして何より、
「私たちの代表」
という、何百万、何千万人もの人びとの欲望が乗ってくる。

もはや、たった一人の人間が背負える重量ではない。


だから私は、髙市早苗さんの身体を見ながら、ときどき思う。

これは髙市さんの身体なのだろうか。
それとも、自民党の身体なのだろうか。
日本の身体なのだろうか。
支持者の身体なのだろうか。
あるいは、私たちが勝手に「日本」を投影しているスクリーンにすぎないのだろうか。

私にはわからない。
ただ、一つだけわかることがある。

政治家になった瞬間から、もはや人は自分の身体を、
自分だけのものとして所有することができなくなる。

そして、その身体を毎朝きちんと整えて、
スーツを着て、カメラの前に立たなければならない。

笑う。
怒る。
うなずく。
歩く。
握手する。
そしてまた、
見られる。

なんとも気の毒な職業である。

しかも本人は、それを承知のうえで、
明日の朝もまた現れる、
髙市早苗という身体を引き受けながら。

そう考えると、政治家というのも、
なかなか大変な仕事なのである。

つづく


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