髙市早苗論 第十二章:夫婦論――髙市早苗は「女」であることから逃れられるか
結婚とは、不思議なものである。
まったく別々の人生を歩いてきた男と女が、
ある日、運命のいたずらで、
ひとつ屋根の下に暮らしはじめる。
最初は深く愛し合っていたとしても、
三年も経てば、むちゃくちゃなことになってしまう夫婦も多い。
反対に、
どうしてこの二人が、と思うような夫婦が、
何十年も一緒に暮らしていたりする。
私は思う。
結婚を続けているというただそれだけでも、
それができている夫婦は偉い。
さて、そんな結婚という不思議な制度について、
今回は髙市早苗さんの場合を見てみよう。
髙市さんは、同じ男と一度結婚し、離婚し、
そして、もう一度、同じ男と結婚した女である。
その男の名は、山本拓さん。
髙市さんより九歳年上である。
二人は2004年9月に結婚した。
当時、山本さんは衆議院議員、
髙市さんは衆議院議員に返り咲く前の時期だった。
そして2017年7月、二人は離婚する。
ところが、それから約四年後の2021年12月、
二人は、もう一度結婚する。
ところが――
いや、その話は、もう少しあとでしよう。
まず、最初の結婚の話である。
二人が知り合ったきっかけは、
髙市さんの弟が山本さんの事務所で秘書をしていたことだった。
山本さんは福井県鯖江育ち。
髙市さんは奈良県育ち。
政治家として歩んできた道も違う。
そのころ髙市さんは、衆議院議員に落選していた。
そんな彼女に、山本さんはこう言ったという。
「真剣に結婚相手を探しておられるんでしたら、
僕はバツイチですが、立候補しますよ」
私は、この言葉が好きである。
政治家というものは、
何をするにも、どうしても政治家らしい。
結婚相手に立候補するのである。
そして二人は、長い恋愛期間を経ることなく結婚した。
山本さんは再婚だったので、披露宴はしなくてもいいのではないか、
と考えた。
ところが髙市さんは言った。
「私は初婚やで。一生に一度はウェディングドレスを着たいんや。」
髙市さんのこのせりふ、なんともかわいらしいではないか。
もしもこのせりふが標準語だったならば、おもしろくもなんともない。
しかも、このせりふのかわいらしさはそれにとどまらない。
政治家としては、
国家、制度、伝統、政策、理念など、
巨大なものを語る。
しかし一人の女としては、
一生に一度はウェディングドレスを着たいのだ。
この二つは、少しも矛盾しない。
むしろ、この矛盾こそが人間なのだろう。
結局、大阪と東京で盛大な披露宴が行われた。
参加者は政治家ばかりだった。
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二人は政治家として、ある程度の価値観を共有していた。
保守的な政治理念。
国家に対する考え方。
政治家としての自負。
しかし、政治家という職業は、
同じ思想を持っていれば仲良く暮らせるほど簡単なものでもない。
政治家には、それぞれの選挙区がある。
支持者がいる。
政治的な野心がある。
自分自身の名前がある。
そして、自分自身の「私」がある。
夫婦である以前に、
二人とも政治家なのである。
考えてみれば、かなり大変なことではないか。
会社員の夫婦なら、
少なくとも家庭に戻れば、仕事から離れることができる。
しかし政治家には、
職場と家庭の境界がほとんどない。
国会にいる。
選挙区にいる。
テレビに出る。
新聞に載る。
支持者と会う。
批判される。
また選挙がある。
そして家に帰る。
そこにも、政治家がいるのだ。
夫も政治家なのである。
二人の政治家が夫婦として暮らす家。
これは、かなり特殊な夫婦生活である。
やがて永田町の喧騒と、
政治家としての自我の強さ、
そして二人のあいだにある微妙な政治的距離が、
少しずつ二人の関係を変えていったのかもしれない。
2017年7月、二人は離婚した。
署名捺印された一枚の紙によって、
夫婦という制度はいったん終わった。
髙市さんは、そのとき総務大臣だった。
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ところが、四年後。
2021年。
髙市さんは自民党総裁選に立候補する。
しかし、髙市さんの野望は叶えられなかった。
失意の年だったと言っていい。
しかし、その年の暮れ、
思いがけないことが起きる。
山本拓さんとの再婚である。
山本さんもまた、衆議院議員選挙に落選したばかりだった。
二人とも政治家として、
それぞれに順風満帆とは言いがたい時期だった。
そんななか、
一度ほどいた結び目を、
二人はもう一度結び直した。
なぜなのだろう。
愛だったのか。
友情だったのか。
長い時間をともに過ごした者だけが持つ、
言葉にならない親密さだったのか。
あるいは、
私たちには理解できない、
夫婦だけの事情があったのか。
それは、本人たちにしかわからない。
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しかし、四年後。
山本拓さんは脳梗塞に倒れる。
政治家として議場に立ち、
声を張り、議論を戦わせていた男の身体が、
病によって自由を奪われたのだ。
ここで第十一章の「身体論」に戻ろう。
政治家の身体は、
カメラに映った瞬間、公共的な身体になる。
では、病に倒れた政治家の身体はどうなのか。
かつては国家や政策を語っていた身体が、
いまや、一人の人間として傷ついている。
その身体を支えるのは、
国家でもなければ、政党でもない。
妻しかないではないか。
髙市早苗という政治家が、
山本拓という政治家の身体を支える。
ここには、
政治の世界ではほとんど見ることのできない、
極端に私的な関係がある。
政治家としての髙市早苗ではなく、
妻としての髙市早苗。
そこでは国家も、
安全保障も、
経済政策も、
皇室典範も、
いったん脇へ置かれる。
そこにいるのは、
病に倒れた夫と、
その夫を支える妻なのである。
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しかし、本当にそうなのだろうか。
私はここで、少し立ち止まってしまう。
「妻として夫を支える髙市早苗」
そう書いた瞬間、
私はまた一つの物語を作ってしまっている。
愛。
献身。
覚悟。
夫婦の絆。
人間の人生というものは、
どうしてこうも簡単に「いい話」になってしまうのだろう。
私は政治家・髙市早苗について書いていたはずなのに、
しかし、いつのまにか私は、
山本周五郎になっている。
これはいけない。
人間の本当の生活は、
そんなに美しくない。
夫婦だって、
けっして愛だけでなんとかできるものではない。
腹が立つこともある。
くだらないことで喧嘩もする。
むかしのことをしつこく蒸し返されて、
相手の顔を見るのも嫌になる日もある。
それでも一緒にいる。
そして病気になれば、
その身体を支える。
たぶん、夫婦というものは、
そういうものなのだろう。
だからこそ、
外から見ている人間が、
その二人の関係を「愛」とか「運命」とかいう言葉で、
簡単に説明してはいけない。
誰も、その二人の家の中で何が起きているのか、
知ることができないのだから。
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そして、ここで私は、
この章の最初の問いに戻る。
髙市早苗は「女」であることから逃れられるか。
政治家としての髙市早苗は、
自分の身体を徹底して公共化してきた。
髪型。
衣装。
表情。
視線。
声。
言葉。
行動。
すべてを政治家として統御する。
その意味では、
髙市早苗は「女」である以前に、
「政治家」であろうとしている。
それどころか、髙市早苗は、
政治家サイボーグのようにすら見える。
ところが彼女は、
「一生に一度はウェディングドレスを着たいんや」
と言い放って結婚した女でもある。
家に帰れば、彼女は妻である。
夫を持つ女でもある。
病気の夫を介護する女でもある。
つまり、政治家としての公共的身体の奥に、
どうしても私的な身体が残っている。
それはあたりまえのことである。
なぜなら、一日24時間完全無欠な政治的身体など、
人間にはつくれないのだから。
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そう考えてみると、
髙市早苗という政治家のいちばん面白いところは、
その完璧なセルフコントロールではなく、
むしろ、そのコントロールの外側にあるものなのかもしれない。
一生に一度はウェディングドレスを着たい。
夫と一度別れる。
そして、もう一度結婚する。
夫が病に倒れる。
そういう出来事は、
国家の意思では説明できない。
政治的合理性でも説明できない。
ましてや「日本を強く、豊かに」などというスローガンでは、
どうにもならない。
人間はそんなに簡単なものではない。
政治家であっても、
やはり人間なのである。
そして私はいま、
その当たり前のことに、
少し驚いている。
……それにしても。
それにしても、私はいま驚いている。
人の人生を書いていると、
なぜ私は山本周五郎みたいな文章を書いてしまうのだろう。
実はこの文章、最初に書いたときには、
あまりにも山本周五郎だった。
恥ずかしくなって、かなり改稿した。
それでもまだそこはかとなく山本周五郎が残っている。
人の人生を記述すると、
なぜ山本周五郎調の文章になってしまうのだろう。
私たちの文芸風土は、
フローベールから遠く離れている。
つづく
