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髙市早苗論 第十六章:芝居論――政治はいつから劇場になったのか

現代の政治は、劇場政治である。

国会。
首相官邸。
街頭演説。
記者会見。
G7。
被災地。
そしてSNS。
いたるところが舞台になる。

政治家は、役者になるほかない。
政治という制度そのものが、政治家に演技を要求しているからだ。

いや、もう少し正確に言おう。

政治家は、パフォーマンスを「している」のではない。
政治家であること自体が、すでにパフォーマンスなのである。


髙市さんは、一見すると強く、勇敢で、主体性のある政治家に見える。
実際、セルフプロデュースは、発言内容を別にすれば、
かなりの完成度である。

衣装。
髪型。
表情。
視線。
声。
立ち姿。
握手。
歩き方。

第十一章で見たように、ひとつひとつが「政治家・髙市早苗」という身体を作っている。
現代のポピュリズム政治に、これほど適応した政治家も珍しい。

支持者は拍手喝采を送る。
「よく言った、髙市さん!」
「さすが髙市さん!」
「こんな総理を待っていた!」
舞台は大成功である。

ところが、反髙市派は、とっくに別のことに気づいている。
なんでこんな世紀の名優が、こんな糞ドラマを演じているのだ!?


その意味では、皇室典範改正がひとつの決定的な場面だったのかもしれない。
いまの日本人の多くは、平成、令和の皇室をかなり身近に感じている。
そして、愛子さまを将来の天皇として期待する人も少なくない。
ところが髙市さんは、その道を閉ざす方向へ進んだ。

反髙市派には、どうしても理解できない。
なぜ?
なぜ
初の女性総理である髙市さんが、なぜ女性天皇への道を閉ざすのか。

この瞬間、舞台の上の「女性総理・髙市早苗」と、観客が期待していた「女性総理・髙市早苗」とのあいだに、大きな亀裂が走った。

そして、観客はざわめきはじめる。


さらに厄介なのは、髙市さんの「主体性」である。
髙市さんは、非常に主体的な政治家に見える。
自分の信念を持ち、誰にも媚びず、自分の言葉で日本の未来を語る。

しかし、その主体性はいったいどこから来たものなのだろう。

松下政経塾。
安倍政権。
保守系の政治思想。
日本会議周辺の主張。

そこには、すでに長い年月をかけて作られてきた思想的な枠組みがある。

そう考えると、
髙市さんが「私が考えた日本」
と思っていたものが、
実はすでに誰かによって用意された舞台装置なのではないか、
と気づかずにはいられない。
これは政治家にとって、かなり残酷な問いである。


そして、私がもっとも気になるのは、歴史についての態度である。

日本人の誇りを取り戻す。
日本の伝統を守る。
強い日本を作る。
それ自体は、けっして悪いことではない。

しかし、日本の歴史を振り返るならば、
誇るべきものだけではなく、
反省しなければならないものもまた、歴史なのではないか。

太平洋戦争。

あれほど無謀な戦争に突入し、
戦況がどうしようもなくボロボロになって、
どんなに戦死者を出そうとも、
絶対に戦争をやめることができず、
最後には二発の原爆まで落とされるところまで行った。

私は、その歴史を思うと、
「日本人の誇りを取り戻そう」
という言葉だけでは、どうしても足りないと思ってしまう。

誇りを取り戻すこと
と、
過ちを認めること。
この二つは、本来、両立するはずなのだ。

いや、むしろ両立しなければならない。


ところが、髙市さんの発言を聞いていると、
つねに「自分は無謬である」という強い信念が、その底にあるように感じられる。

私は間違っていない。
悪いのは他人だ。
私は反省する必要がない。

だから、
「過ちは二度と繰り返させません」
という言葉になる。

なるほど。
いまや髙市さん自身が「日本」なのだから、
そういう言葉になるのも無理はない。

しかし、私は呆れてしまう。

「過ちは二度と繰り返しません」ではなく、
「過ちは二度と繰り返させません」なのだ。

主体は「私たち」ではない。
「誰か」が日本に過ちをさせるように導いたのだ。
だから日本は悪くない。
悪いのは「奴ら」だ。
ましてやあの戦争の時期に生きていない私は悪くない。
悪いのは外部にいる誰かなのである。


そこで、反髙市派は叫ぶ。

なんでこんな世紀の名優が、
こんな糞ドラマを演じているのだ!?

そして、私はふと思う。
これが、いま起きている髙市支持率低下なのではないか。

観客は、舞台を見ている。
最初は歓声を送り拍手していた。

ところが、ある場面から、
「あれ?」
と思い始めた。

「私が期待していた髙市早苗と、だいぶ違うぞ」

そして、少しずつ席を立ち始める。


しかし、ここで忘れてはいけないことがある。

ブーイングを送っている私たちもまた、
観客という役を演じているのだ。

政治家だけが役者なのではない。
支持者も役者である。
反対派も役者である。
評論家も役者である。
新聞も、テレビも、YouTubeも、SNSも、
みんなそれぞれの役を演じている。

そしてこの文章を書く私とて、
「政治を冷静に観察する文芸批評家」
という役を演じているのかもしれない。

なんとも気が滅入る話である。


すると、ここで奇妙な問いが生まれる。

いったい誰が観客なのだろう。

政治家は私たちを観客だと思っている。
他方、私たちは政治家を舞台の上の役者だと思っている。

しかし政治家は、私たちの反応を見ながら演技を変える。
拍手が起きれば、次も同じ演技をする。
ブーイングが起きれば、演出を変える。
SNSが炎上すれば、次の発言が変わる。

つまり、

観客もまた、舞台を作っているのだ。

政治家と観客は、舞台のこちら側とあちら側に分かれているのではない。
両者が一緒になって、
毎日少しずつ「政治」という芝居を作っている。


そして、ここまで来ると、
私は少し怖くなる。

ポピュリズム民主主義とは、
ひょっとすると、

観客の反応によって演目そのものが決まってしまう劇場

なのではないか。

政治家は観客をよろこばせる。
観客は政治家を評価する。
評価された政治家は、さらに観客のウケを狙う。

その循環のなかで、
政策よりも、
理念よりも、
長期的な国家像よりも、
「いま、何を見せるか」
が重要になってゆく。

そして、観客は叫ぶ。
「もっと面白い芝居を見せろ!」

政治家は、それに応える。

もっと強く。
もっとわかりやすく。
もっと敵を作って。
もっと感情を刺激して。
もっと「私たち」を熱狂させろ。

こうして政治は、
ますます劇場になってゆく。


私は思う。
ポピュリズム民主主義は、
まともに機能しない民主主義なのではないだろうか。


しかし、
だからといって、
民主主義をやめればいい、
というほど簡単な話でもない。

では、劇場政治の外側に、
私たちはどうやって行けばいいのだろう。

そもそも、
劇場の外側なんてものが存在するのだろうか。

ここで私は、寺山修司の市街劇を思い出す。
劇場の扉を開けて外へ出れば、
そこには「現実」がある。
――と思っていたら、
その現実そのものが、
すでに劇場になっている。

観客席から立ち上がって街へ出ても、
街を歩く私たち自身が、
いつのまにか劇の一部になっている。

だとすれば、
政治という劇場から逃げ出せば、
政治から自由になれる、
というわけではない。
劇場の外へ出たつもりの私たちが、
じつは別の舞台に立っているだけなのかもしれない。


政治家が演技をしなくなれば、
政治はもっとよくなるのだろうか。
観客が政治家を見なくなれば、
民主主義は健全になるのだろうか。

おそらく、そんな単純な話ではない。
なぜなら、
政治が、観客を必要としているからだ。

そして私たちもまた、
政治という劇場を見ずにはいられない。

政治家を見て、
怒り、
笑い、
失望し、
期待し、
拍手し、
ブーイングする。

そして私たちは、
今日もまた、
政治という芝居に参加している。

舞台の上にいるのは政治家である。
しかし、劇場そのものを作っているのは、
政治家と私たち観客の双方なのである。

つづく


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