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髙市早苗論 第十七章:虚構論――政治は嘘なのか

誰であろうと、政治家の言葉は用心深く聞くほかない。
「日本列島を、強く、豊かに。」
と言われれば、
まあ、それに反対する人はほぼいないだろう。
日本列島が弱く、貧しくなってほしいと思っている人は、そう多くないだろうから。

ところが、もしも髙市さんが、
「髙市早苗を、強く、もっと豊かに。」
と大衆に語ったならばどうだろう。
「なに抜かしとんねん。年収四千万円、
おまけに官房機密費ちゅう魔法の金庫のカネも
使途説明も要らん、領収書も要らん、
それで毎月一億円とか使い放題らしいやんけ。
わしらもそんな身分になってみたいもんやで。
あんた、どんだけ強欲なんや!??」
というブーイングが飛んでくるだけだろう。

もちろん、髙市さんがそんなバカなことを言うはずはない。
なぜなら、政治家とは国民のためのサービス業だからである。
少なくとも、そういうことになっている。

しかし、ここで私は、少し意地悪なことを考える。
髙市さんにとって、
「私」と「日本」の境界線は、
いったいどこにあるのだろう。

政治家という職業を長く続けているうちに、
「私は日本のために働いている」
という言葉が、
いつのまにか、
「私こそが日本を代表している」
へと変わってしまうのだろう。

そしてさらに、
「私が考える日本」

「日本そのもの」
の境界まで消えてしまったらどうなるだろう?

そのとき、
政治家の言葉は、
ずいぶん危ういものになる。

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髙市さんが語る「日本」とは何なのか。
「国益」とは何なのか。
「国防」とは何なのか。
「日本人」とは誰なのか。
この連載で、私は何度もこの問題を論じてきた。

そして、そのたびに思った。
これらの言葉は、あまりにも大きい。
大きすぎる。

「日本」と言った瞬間、
そこには一億人以上の人間が入ってしまう。

北海道の農家も、
沖縄の基地の近くで暮らす人も、
東京のサラリーマンも、
西葛西のインド人も、
大久保のヴェトナム人も、
奈良の鹿も、
そして髙市早苗さん自身も。
みんな「日本」のなかに入ってしまう。

しかし、もちろん、
みんなが同じ日本を見ているわけではない。

だから「日本」という言葉は、
便利であると同時に、
たいへん危険な言葉なのだ。

「国益」もそうだ。
誰の利益なのか。

「国防」もそうだ。
何から誰を守るのか。

「伝統」もそうだ。
いつから始まった伝統なのか。
誰がその伝統を作ったのか。

そもそも伝統ならば、
無条件ですばらしいのか?

巨大な言葉ほど、
その内部を開いてみなければならない。

頭上に飛んでいるハエさえも魅了する髙市さんだけれど、
しかし、ハエではない私たちは、
これについて考えなくてはならない。

もちろんこれは髙市さんに限ったことではなく、
右派/左派を問わず、
政治家誰もが使うレトリックであるにしても。

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ここで私は、
「政治家は嘘つきだ」
という、昔からある政治批判を思い出す。

いまでは寄席芸人が老人客たちをもてなすときにしか言わないせりふだけれど、

しかし、そこにはたしかに一端の真実がありはする。

政治家は嘘をつく。
選挙期間中にはできもしないことを言う。
当選すると忘れる。
都合の悪い数字は隠す。
失敗しても成功したと言う。
なるほど、たしかに、そういうことはある。

しかし、それだけではない。
政治家は、
単純な嘘をついているわけではない。
むしろ、
人々が一緒に生きるための「物語」を語っているのだ。

「日本はこういう国である。」
「われわれには、こういう敵がいる。」
「この国には、こんな未来が描ける。」
「だから、いま、この政策が必要なのだ。」

これは、
真実か嘘か、
という二択だけでは捉えにくい。

なぜなら、
その言葉を信じる人が増えれば、
その言葉によって現実そのものが変わってしまうからである。

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たとえば、
「日本は中国から脅かされている」
という言葉がある。

なるほど、中国の軍事力は巨大化している。
台湾海峡の緊張がある。
東シナ海には領土問題がある。
サイバー攻撃や経済安全保障の問題もある。

たしかに日本人にとっては、めっちゃ怖い。

すなわち、
日本に安全保障上のリスクが存在する。
もちろんこれ自体はべつに妄想ではない。
むしろ現実である。
しかし、問題は、その先だ。

ひとつの現実的な危機を認識したあと、
世界のあらゆる出来事を、
その危機の証拠として読み始めたらどうなるか。

ニュースの断片。
外交上の小さな違和感。
外国人による日本の土地取得。
SNS上の発言。
国内政治の混乱。
文化の変化。
人口減少。
経済の停滞。

それらが次々と、
「だから日本は危ない。悪いのはあの国だ」
という一つの物語のなかに組み込まれてゆく。

すると、
世界はたいへんよく説明できるようになる。
あまりにも、よく説明できる。

私は、これを
パラノイア・リアリズム
と呼ぶ。

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パラノイアとは、
何もないところに敵を見ることではない。
むしろ、
本当に実在する敵がいるからこそ、始末が悪い。

最初にはリアリズムがある。
中国には軍事力がある。
戦争は起こりうる。
国家間には利害対立がある。

これは現実である。
しかし、その現実をあまりにも精密に、
あまりにも一貫した一つの論理で説明しようとすると、
いつしか、説明できないもののほうが不自然になってくる。

「あれも敵の仕業ではないか」
「これも中国の影響ではないか」
「なぜかれらは反対するのか。
ひょっとしてあれもまた……」

「週刊文春は習近平から毎週1千万円もらってるのだ!!!」

こうして世界は、
一つの巨大な疑念によって、
すべて説明できるようになる。

これが怖い。
しかし、これほど政治的には強力なものもないではないか。

もはや陰謀論とリアリズムの境目は消えてしまう。

  しかも現代では、かつて「陰謀論」と片づけられたもののなかに、

後から見れば現実の一部を捉えていたものもある。

だからこそ、陰謀論と現実認識の境界は、ますます厄介になる。  


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実は、髙市さんの政治的世界観のおもしろさは、
リアリズムとパラノイア・リアリズムの境界線にある。

彼女は現実を見ている。
しかし、
その現実を見る眼差しにはあらかじめ激しくバイアスがかかっている。

危機を見つける。
その危機に備える。
さらに危機を見つける。

これにも備える。

すべては日本国を強くするためなのだ。

そのためには、
制度を変える。
法律を変える。
予算を変える。
社会を変える。

その結果、
「危機に備えるための政治」が、
いつしか、
「危機が存在することを前提とした社会」
そのものを作り始める。

ここまで来ると、
リアリズムとパラノイアの境界線は、
ほとんど見えなくなる。

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そして私は、
ここで第十四章、第十五章の
「物語」の問題へ戻ってくる。

髙市さんが嘘をついているのか。
そうではない。
少なくともそれだけではない。

彼女自身が、
あるリアリティを信じているのだ。
そして、彼女はそのリアリティを、
言葉によって全国民に共有させようとしている。

もちろん支持者はまっさきにそれを信じる。

メディアが伝える。
SNSが拡散する。
反対派が批判する。
批判されることで、
さらに支持者は確信する。
「やっぱり、髙市さんは正しい。」

こうして、
ひとつの政治的リアリティが出来上がる。

つまり、虚構とは、嘘ではないのだ。
人々が共同で信じることによって、
現実を動かす力を持つものなのである。

国家そのものがそうである。
国境も、
貨幣も、
法律も、
主権も、
そして「日本」という巨大な共同体も、

人間が共同で信じ、
共同で維持している。

だから政治とは、
虚構を作る仕事でもあるのだ。

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そして、
ここから先が、
私自身にとっていちばん怖いことだ。

髙市さんが、
「日本」という物語を作っている。
それを支持者が受け取る。
反対派がそれを批判する。

私もまた、
それについて四十話近く書いている。

では、私は何をしているのだろう。
髙市さんの虚構を暴いているのか。
それとも、
私自身が新しい髙市早苗の物語を作っているのか。

ひょっとすると、
この文章そのものが、
髙市早苗という巨大な虚構に、
さらにひとつのフィクションを投げ込んでいるだけなのではないか。

そう考えると、少しぞっとする。

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政治は嘘なのか。

いや、
政治は、嘘よりもっと厄介なのだ。

嘘ならば、真実を示せば終わる。

しかし、
人々が信じることによって現実になってしまう虚構なら、
そう簡単には消えない。

髙市早苗という政治家もまた、
そうした巨大な政治的虚構のひとつなのかもしれない。

そして、その虚構を書いているのは、
髙市さんだけではない。
支持者も、
反対者も、
メディアも、
SNSも、

そして、
この私自身もまた。

つづく


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