髙市早苗論 第十五章:観客論――私たちはなぜ政治を見るのか
西村ひろゆきさんが政党を立ち上げるなんて、
誰も夢にも思わなかった頃の話である。
東浩紀さんが、ひろゆきさんに話を振った。
「人間歳とるとさ、なんで政治の話ばっかするようになるのかね?」
そのとき、ひろゆきさんがなんと答えたのか、
私は覚えていない。
ただ、東さんはおもしろいところで立ち止まる人だな、
と思った。
そして私は、自分なりの答えを探した。
社会経験を積むと、
政治の力の大きさに気づくからだろうか。
それとも、実生活での驚きや感激が、
若い頃より減ってくるからだろうか。
あるいは、その両方だろうか。
いずれにせよ、
私自身、いつのまにか政治の話ばかりしている。
先日私は近所のインド料理屋で、
同じ集合住宅の荒川老人に怒られたものだ、
「あんたの話は髙市さんの話ばかりじゃないか、
いい加減、やめてくれ。
酒がまずくなるじゃないか!」
やむなく私は荒川さんに酒代をごちそうしたものだ。
いまは野党が弱体化しているせいもあって、
一般に政治の話題は、それほど危険ではない。
ところが、髙市早苗さんの話になると、
そうはいかない。
讃タカイチ派同士なら盛り上がる。
反タカイチ派同士でも盛り上がる。
ところが両者が同じテーブルにつくと、
場合によっては、たいへんなことになる。
また、私の場合は、いくらか旗色不鮮明なので、
これがまた相手を怒らせる場合がある。
なぜか。
髙市さんは、一見すると、
穏健で、中庸で、前向きながんばり屋さんに見える。
ところが、
これまで私がこの文章で延々と書いてきたように、
その政治思想は、かなり頑固一徹である。
安全保障。
皇室。
国家観。
外国人政策。
こうした問題について、
断固たる信念を持っている。
だから敵も増える。
しかし、敵がどれだけ増えようが髙市さんは
「そんなもん、屁のカッパや」
という顔をしている。
そこがまた髙市さんらしい。
さて。
そもそも人間は、
なぜ政治家を見るのだろう。
なぜSNSで怒るのか。
なぜ、
「この人、好き」
「この人、大嫌い」
となるのか。
なぜ政治家の政策だけではなく、
服装や髪型や表情や声にまで腹を立てるのか。
考えてみると、
これはずいぶん奇妙なことである。
政策だけなら、
そんなことは起こらない。
「この法案には反対だ」
それで終わる。
ところが現実には、
「あの人の顔が嫌い」
「しゃべり方が気に入らない」
「またあの服着てる」
「なんであんな偉そうな顔をするんだ」
という話になる。
つまり私たちは、
政治家を政治家としてだけ見ているのではない。
俳優を見るように。
アイドルを見るように。
スポーツ選手を見るように。
あるいは、
敵を見るように。
政治家を見る。
もちろん、政治家は専門職である。
政治家にも専門知識が必要だ。
法律を読む。
予算を読む。
外交をする。
官僚と交渉する。
政党内を調整する。
外国政府と話す。
危機が起きれば判断する。
たいへんな仕事である。
おそらくアイドルだって専門職だろうけれど、
政治家の専門性は、また別の種類のものだ。
ところが、
その専門性を私たちは直接見ることができない。
国会の裏側で何が起きているのか。
官邸でどんな話が交わされているのか。
自民党の会議で誰が何を言ったのか。
中国政府との非公式協議で何が話されたのか。
そんなことは、
ほとんど私たちにはわからない。
インサイダー情報が流れてきても、
それが本当なのかどうかさえわからない。
そもそも政治家の専門性とは何なのか、
ということ自体、簡単には定義できない。
だから私たちは、
政治家の「仕事そのもの」を見ることができない。
では、何を見るのか。
見えるものを見るだけなのだ。
政治家が記者会見をする。
被災地へ行く。
誰かと握手する。
国会で怒る。
笑う。
頭を下げる。
外国の首脳と並んで写真を撮る。
そしてカメラを見る。
私たちは、
そういうものを見る。
そして、そこから政治家の「仕事」を推測する。
「ああ、この人はちゃんと仕事をしている」
「いや、これはただのパフォーマンスだ」
「この人は国民のことを考えている」
「いや、選挙のことしか考えていない」
つまり私たちは、
政治家の専門性を直接評価することができないから、
その代わりに、政治家の身体と行動を評価している。
第十一章で書いた「身体論」が、
ここで観客論につながる。
そして、ここに政治の難しさがある。
私たちは政治家の仕事を、
ほとんど知らない。
しかし、政治家について判断しなければならない。
選挙があるからだ。
すると私たちは、
限られた情報から、
この人は信頼できる、
この人は危険だ、
この人は嘘つきだ、
この人なら任せられる、
と判断する。
つまり国民全員が、
審査員になる。
なんと巨大な陪審員席だろう。
気が遠くなる。
しかも、
ほとんど証拠を持っていない陪審員なのである。
ソクラテスが何ダース殺されても不思議はない。
いまの皇室典範改正をめぐる議論など、
その典型だろう。
愛子さまを天皇に、という議論がある。
男系男子を維持すべきだ、という議論もある。
皇室典範改正は正しい。
いや再改正すべきだ。
議論が収まる気配はまったくない。
しかし、少し考えてみれば、
これはたいへん奇妙な光景である。
明治、大正、昭和前期に生まれ育った人々からすれば、
国民が「誰を天皇にするべきか」
などと議論していること自体、
信じがたいことだろう。
天皇は国民が選ぶものではない。
ましてや、
国民が「この人がいい」と人気投票するようなものではない。
ヒエラルキーが逆転している。
ところが、
いま私たちはそれを、
まったく不思議に思わない。
「愛子さまがいい」
「いや、男系の伝統を守るべきだ」
と、まるでプロ野球の監督を選ぶかのように議論している。
これは、日本社会に何か大きな変化が起きたことを意味している。
そして私は思う。
これは単に「国民が皇室について無知になった」という話ではない。
むしろ逆なのではないか。
国民が、政治の観客になったのではない。
政治そのものが、
国民を観客にしてしまったのではないか。
テレビが政治を映す。
新聞が政治を解説する。
YouTubeが政治家の発言を切り取る。
Xで誰かが怒る。
誰かが反論する。
また誰かが動画を作る。
そして私たちは、
その一部始終を眺めている。
政治は、議会の中だけで起きているのではない。
私たちがスマートフォンの画面を見ているその瞬間にも、
政治は起きている。
だから政治家は、観客を必要とする。
いや、
観客なしには政治家でいられない。
見られなければならない。
語られなければならない。
批判されなければならない。
褒められなければならない。
炎上しなければならないことさえある。
そして髙市早苗さんは、
この観客社会に、
最適化された政治家なのだと思う。
衣装。
視線。
声。
行動。
沈黙。
敵。
支持者。
そして物語。
第十四章、第十五章で書いてきたことが、
ここで全部つながってくる。
髙市早苗という政治家は、
舞台の上に立っている。
しかし、
舞台を見ている私たちもまた、
その舞台の一部なのだ。
ここまで来ると、
冒頭の問いに少しだけ答えられるような気がする。
「人間歳とると、なんで政治の話ばっかするようになるのかね?」
たぶん、政治が人生に近づいてくるからだ。
若い頃は、政治は遠くにある。
学校。
会社。
恋愛。
音楽。
映画。
旅行。
自分の人生のほうが政治なんかよるよほど面白い。
ところが歳を取ると、
自分が生きている社会そのものが、
だんだん気になってくる。
この国はどこへ行くのか。
自分たちは何を残すのか。
次の世代はどうなるのか。
そして気がつけば、
政治家の顔を見ている。
「こいつに任せて大丈夫なのか?」
なんてことを考えている。
ああ。
やっぱりおれも歳を取ったのだなぁ。
しかし、ここにはもうひとつ、
少し意地悪な問いが残っている。
私たちは政治家を見ている。
けれども、
政治家のほうもまた、
私たちを見ている。
私たちが何に怒るのか。
何によろこぶのか。
どんな写真を拡散するのか。
どんな言葉に反応するのか。
それを政治家は学習している。
すると、
観客が舞台を見ているのか、
舞台が観客を見ているのか。
だんだんわからなくなってくる。
そして、そのとき政治は、
単なる「政策の決定」ではなくなる。
政治とは、
観客と演者が互いを見つめながら、
一緒に作ってしまう巨大な劇場なのではないか。
髙市早苗さんを見ているつもりだった私たちは、
いつのまにか、
髙市早苗さんと一緒に、
髙市早苗という政治家を作っている。
そして私は、
そのことを書いている。
いや。私自身もまた、
その劇場の観客のひとりなのだ。
つづく
