髙市早苗論 第十四章:物語論――髙市早苗という物語は誰が書いているのか 後編
さて、ここからが本編、
髙市早苗をめぐる物語間戦争についてである。
まず最初に、私の見立てを書いておこう。
この戦争は、2026年6月、7月あたりから、
もうしっちゃかめっちゃかの乱戦になっている。
各種世論調査によれば、
髙市さんの支持率は下落傾向にあるらしい。
5割を割っただの、4割まで下がっただの、
他方では不支持率が急増しただの、
新聞もSNSも、たいへんな騒ぎである。
もちろん、支持率の数字そのものは、
ここではさほど重要ではない。
重要なのは、
髙市早苗という物語の意味が、いま変わりつつあることだ。
かつて髙市さんを支持していた人々の一部が、
「あれ?」
と思いはじめた。
円安は止まらない。
(国民は苦しんでいるというのに、
髙市さんは「円高ホクホク」とか抜かす。)
皇室典範改正によって、
愛子さま大好きの保守層を激怒させる。
広島原爆記念式典で髙市さんは、
過ちはもう繰り返「させ」ません、
などと要らんことを言う。
なるほど、髙市さんの言いたいこともわからないではない。
アメリカは日本に原爆2発も落としたのだ。
あんなことが許されていいわけがない。
また、東京裁判が戦勝国による身勝手な裁判であることは、
疑いもない。
しかし、だからといってあの太平洋戦争が、
どう考えても無謀な戦争で、あまりにも多くの国民を無駄死にさせ、
東アジアをひっかきまわした国家的狂気だったこともまた、
忘れていいわけがない。
したがって、髙市さんのあの発言は、あまりにも髙市さんの脳内の、
日本美化がはなはだしく、
また要らんことを言った、と言われても仕方がないではないか。
さらに防衛力の強化、
そのうえ武器輸出さえ始めてしまう。
すると、かつての髙市支持者の一部が、
ふと気づく。
「この人、マジでウルトラ右翼やん!!!
わしらの眼は節穴だったのか?」
ということである。
ところが、ここで面白いことが起きる。
髙市さんの人気が揺らぐほど、
むしろ熱狂的な支持者の物語は、
さらに強固になってゆくのだ。
高橋洋一さん、門田隆将さん、櫻井よしこさん、
『Will』『月刊Hanada』、そして『産経新聞』などの論陣が、
「髙市さん、もうあかん」と白旗を掲げるはずもない、
だって、かれらは髙市支持がご商売なのだから。
それとは別に、けっして私が嫌いになれないYoutube
おみそちゃんねるの、おみそんは
信念の人であるゆえ、かれの髙市支持は本気である。
やめるわけがない。
むしろ、「髙市さんが苦境に立たされている!」
という事実そのものが、
「既得権益や左翼メディアが、
あろうことか正義の使者・髙市さんを潰そうとしている!」
という新しい物語を生み出す。
ここが物語の恐ろしいところである。
物語は、反証によって必ずしも弱くならないのだ。
ときには、
反証そのものを物語の材料にして、
さらに強くなる。
よくあることではないか。
たとえな熱烈な恋愛の渦中にある女に向かって、
母親だの親友だのが忠告する、
「やめときなさい、あんな男。
女たらしのろくでなし、
どうしようもない奴よ、
あなた、自分の人生をもっと大事にしなさい」
しかし、そんなアドヴァイスをしようものなら、
彼女の恋愛の炎にガソリンを注ぐようなものでしょ。
髙市政権発足以来約八か月は、
いまと逆の形勢だったけれど、
しかし、そのときだって、同じことが起こっていたものだ。
ここからがいよいよ本題である。
では、髙市早苗には、いくつの物語があるのか
私の見るところ、
少なくとも五つくらいの物語が、
同時に存在している。
1 「日本を救う女」
――讃髙市派による物語
腐りきった古い自民党政治に嫌気がさした日本に、
初の女性総理として現れた救世主である。
教育勅語を読み聞かせられながら育ち、
松下政経塾で国家経営を学び、
おっさんだらけの自民党のなかで苦難を味わい、
それでも総裁選への挑戦をあきらめず、
ついに内閣総理大臣の座にまで登りつめた女性。
その発言は強い意志に貫かれ、
並みいるオヤジ議員たちがどれほど足を引っ張っても、
けっして負けない。
ここには、
たいへん古典的な英雄譚がある。
苦難。
試練。
敵。
そして勝利。
政治家の人生が、
いつのまにか一篇の物語になる。
2 「日本を地獄へ導く、頭のおかしい狂信的ウルトラ右翼女」
――反髙市派による物語
こちらは逆である。
ひとりの危険な政治家によって、
平和だった国が破滅へ導かれてゆく物語。
しかし、ここで興味深いのは、
この物語の素材そのものは、
讃髙市派の物語とそれほど違わないことである。
教育勅語。
松下政経塾。
国家観。
安全保障。
皇室。
中国への強硬姿勢。
違うのは、
素材の編集方法である。
讃髙市派にとっては、
「信念を曲げない強い女性」。
反髙市派にとっては、
「現実を見ないで妄想を生きている危ない女」。
同じ「強さ」が、
片方では美徳になり、
もう片方では病理になる。
天使と悪魔。
英雄と狂人。
けれども実際の髙市さんは、
天使でも悪魔でもない。
英雄でも狂人でもない。
ただの人間である。
ここが、物語の第一の問題なのだ。
3 「日本女性の成功物語」
――髙市さん自身が好む、自分自身についての物語
これは1の物語とかなり重なる。
しかし、アクセントの置き方が違う。
「女性なのに政治家になった」という話ではない。
むしろ、「女性だからこそ、この身体、この衣装、この声、この言葉を使って総理になった」という物語なのである。
第十一章で書いたように、
髙市さんは自分の身体をかなり意識的に政治化している。
髪型。
スーツ。
声。
視線。
私的な事柄をしゃべるときに使われる関西弁。
そして、
「おっさん政治家だらけの永田町」という舞台に、
初の女性総理が誕生する。
これは政治であると同時に、
きわめて強力な物語装置でもある。
4 「奈良育ちの庶民の女が総理になった物語」
――讃髙市派が、ついでに語る物語
東京の政治エリートでもない。
京都の文化人でもない。
政治家の二世でもない。
奈良の、それも辺境で育った、
普通の女の子だった。
その女の子が、
古代日本の記憶が眠る奈良から東京へ出てきて、
ついには日本の頂点まで登りつめる。
これもまた、
たいへんわかりやすい成功物語である。
しかも「奈良」という土地が、
単なる出身地ではなく、
日本の古層そのものとして物語に組み込まれる。
第十三章で私が書いた「奈良県人魂」も、
実はここに接続している。
5 「私たちが作っている髙市早苗」
そして最後に、
私はこれがいちばん重要なのではないかと思う。
主戦場はSNSとYouTubeである。
支持者が、「さすが髙市さん、よく言った!」と書く。
すると髙市早苗が、
少しだけ強くなる。
反対派が、「こんな危険な政治家を許してはいけない!」と書く。
すると今度は、反対派にとっての髙市早苗が強くなる。
写真が拡散される。
動画が切り抜かれる。
コメントがつく。
それにまた別の人が反応する。
そうして一日が終わる。
翌朝になると、
また新しい髙市早苗が生まれている。
しかも、この世界においては、
アルゴリズムが、ユーザーの関心を惹きつけるために
極端な物語を増幅するエコシステムと化している。
これが世に言うアテンション・エコノミーである。
これが世論を両極端に押し、切り分ける。
つまり、
髙市早苗という政治家は、髙市早苗本人だけでは作れない。
彼女を語る人々が、
毎日少しずつ「髙市早苗」を製造しているのだ。
政治家が自分自身を作るのではない。
むしろ政治家は、
他者によっても作られているのだ。
では、私は何を書いているのか
ここまで五つの物語を並べてみた。
そして私は、
自分の文章を振り返ってみる。
最初、私は髙市早苗について書いているつもりだった。
衣装について書いた。
視線について書いた。
声について書いた。
行動について書いた。
沈黙について書いた。
結婚について、そして夫について書いた。
身体について書いた。
そして「日本」について書いた。
しかし、途中から気がついた。
私は髙市早苗について書いているのではないのかもしれない。
むしろ私は、
「髙市早苗について語っている日本社会」
を書いているのではないだろうか。
髙市早苗という鏡に、
日本社会が映り込んでいる。
ここから、私は少し怖くなる。
なぜなら、
髙市早苗について語っている人々の言葉を眺めていると、
髙市早苗そのものよりも、
その人が何を恐れ、何を愛し、何を守りたいと思っているのか
のほうが、だんだん見えてくるからである。
「日本を守れ!」
という人は、
日本を失うことを恐れている。
「こんな政治家を許すな!」
という人は、
日本が1930年代のように変わってしまうことを恐れている。
「愛子さまを天皇に!」という人は、
皇室の未来を心配している。
「男系を守れ!」
という人は、
日本の歴史そのものが断ち切られることを恐れている。
「外国人を受け入れろ!」という人も、
「外国人が増えすぎている!」という人も、
結局のところ、
これからの日本がどうなってしまうのか
を語っている。
つまり、
髙市早苗についての物語は、
いつのまにか日本そのものについての物語になる。
そして私は、
ここで自分自身のことを考えざるを得なくなる。
私は髙市さんを批判している。
しかし、髙市さんの「日本」に、
まったく共感できないわけでもない。
私は多民族都市・西葛西に住んでいる。
インド人もいる。
ネパール人もいる。
ヴェトナム人もいる。
中国人もいる。
もちろん多数派は日本人だ。
べつにみんなが仲良くしているわけでもないけれど、
でも、だからと言って、喧嘩もしない。
お互いをひかえめながら尊重している。
西葛西はいたって平和な街である。
私はそんな西葛西が好きだ。
他方で、
私は日本の桜も好きだし、
奈良の寺も好きだし、
富士山も好きだ。
沖縄もハワイなんかよりよほど好きだ。
台湾を旅して、
台湾の人々の生活に触れたときには、
「国家」という言葉では決して捉えきれない、
ひとりひとりの人間の顔を見た。
だから私は、
「日本」という言葉を簡単には捨てられない。
しかし、
「日本」という言葉だけで人間を括ることにも、
どうしても抵抗がある。
ここで私は宙吊りになる。
そしてたぶん、
この宙吊りこそが、
私がこの文章を書いている理由なのだ。
「髙市早苗とは何者なのか?」
そう思って私はこのシリーズを書き始めた。
しかし、いま私の目の前に現れている問いは、
少し違う。
「私たちは、なぜ髙市早苗を必要としているのか?」
そしてさらにその先には、
「私たちは、どんな日本の物語を必要としているのか?」
という問いがある。
髙市早苗というひとりの政治家をめぐって、
日本人たちは、それぞれの「日本」を語っている。
だから髙市早苗は、
日本を語るための一種のスクリーンなのかもしれない。
彼女を見ているつもりで、
私たちは自分自身を見ている。
そして、
ここまで書いてしまった私自身もまた、
そのスクリーンの前に立って、
髙市早苗という物語を書いている。
しかし同時に、
髙市早苗という物語によって、
私自身もまた書かれている。
さて。
この文章はいったい、
誰が誰について書いているのだろう。
つづく
