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パコ崎ミャ子の帰還ーーネット空間の妄想老人について。

国谷裕子(くにやひろこ)さんは『ポスト真実時代のジャーナリズム』のなかでざっとこんな趣旨のことを述べておられます。「現代とは、人々が真実よりも自分の感情に寄り添う情報のほうを信頼してしまう時代だ。視聴者や読者はみんな自分の世界観に適合した情報を好むようになっている。経済格差の拡大によって進みつつある社会の分断は、こうした情報空間の分断によりいっそう進んでゆく可能性がある。しかし、多くの課題解決、社会的合意形成には対話が必要で、まずはメディアが多様性を提示すること、その役割は一層重要になる。メディアやジャーナリズムは、異質なものに出会う場として今後も機能してほしい。」ーー私もまたその意見に同意する。しかし、まさかレストラン・レヴュー・サイト食べログで、かくも異質な存在に遭遇してしまうとは。私は驚愕する、まるで都心部のレストランに突然熊が出没したかのようではないか。


パコ崎ミャ子さんは食べログの小人気レヴュアーで、十年まえにデビューした。当時は30歳、フランス文学専攻、東大院卒、「恩師は蓮實重彦大先生」、「ときどきモデルもしています」、「現役パリッパリの物書きよ♡」という属性設定とともに、グルメ女史として。まるでレディースコミックかテレビドラマのヒロインのような属性設定である。もっとも、「彼女」の飲食店、生活圏、行動、体験、記憶の描写はあまりにも映像的解像度が低すぎて私はまったくリアリティを感じなかったし、(それは「彼女」の想像力の微弱さ散漫さを裏づけているし、しかもその)文章は支離滅裂である。

また、レヴューから察するところ、「彼女」はダシの味を感じることもできず、感受できる味覚は、なんと言っても醤油、あとは油脂のまったり感、味醂~砂糖の甘味だけの、重度の味覚障害である。フランスに3年暮らし、ベルギーで医学研修までしたと自慢する「彼女」はたまにフランス料理を食べに行くものの、しかし日本語メニューさえ読めず、料理にほとんど反応できない。また、中華料理を召し上がっても感受できるのは醤油の味と油脂のまったり感だけ。

それでも「彼女」はそのあまりにも非標準的な味覚に基づいて、突拍子もない考察を繰り広げ、つねに大絶賛であるところの評価を、不気味な文体で支離滅裂に語るのだ。「彼女」としては個性のつもりだろうし、ありあまる知性のゆえという演出だろうにせよ、しかし、「彼女」は概念を扱うことができず、なにかを考えるにあたって使える論理をなにひとつお持ちでないのだ。

したがって「彼女」の本当の学歴は、たとえば赤羽商業高校を日商簿記3級も取れないままに中退ではないか、と疑われてしまう。いいえ、中学の現代国語の論説文解読さえできないのだから、本来ならば中学中退でもいいくらいです。もっとも、リアルに中学中退か高校中退ならば、街場のおもしろい話を山ほどできるでしょうが。(「彼女」は価値観も、人生でなにを追い求めているかも、まったく設定されていないのだ。)「彼女」はただひたすらオン・ラインで無駄話を続け、突然日本を憂慮し、こうしてはいられない、いまこそがんばらなくては、と奮起するのだ。いったい何を、どうやって???)

次に、もしも1985年生まれの「彼女」が本当に2003年に東大駒場の門をくぐったならば、フランス語の動詞活用を覚える苦労もあれば、教養科目のマクロ経済学に溜息をつく、そんな描写があっていいはずではないか。はたまた進学振り分けにおける迷い、賭け、努力、本郷キャンパスの伝統建築の重厚なふんいき、学び続けることのよろこびと絶望、さらには当時、国立大学独立法人化の大混乱、さらには修論、博論の壮絶な苦労の話が出てこないはずがない。ところが「彼女」の東大自慢はまるでカルチュア・センターさながらのお気楽極楽ぶりなのだ。そもそも彼女は「恩師は蓮實重彦大先生♡」と囀っておられるけれど、しかし「彼女」の入学時すでに大先生は東大を去っておられるではないか。いやはや、とんでもない「時を駆ける元少女」である。

しかし、そのビザールで破れかぶれな文体はまさに類まれなる珍品としておもしろかったし、実際「彼女」はしばらく人気になった。連載半ばで「彼女」は身長190センチの巨漢の歯医者と結婚し、やがてお嬢さんも生まれた。ホームドラマが始まるかと思いきや、しかしたいした展開もないままに、「彼女」の執筆活動は続く。

「彼女」の、なにがなんでも東大院卒と主張するごり押しがなんともおかしい。「フランスに3年しか住んだことがない、あ、た、し♡」なんてハッタリも笑いを誘う。「彼女」は魚のグリルがフランスであたりまえな料理であることさえご存じないのだ。クリスチャンは毎週金曜日に魚を食べるではないか、魚のグリルもご存じないの? 恩師は蓮實重彦大先生なんでしょ。

ところがある日、「彼女」のプロフィール写真が韓国系モデルのヨンアさんの写真を借用したものであることを誰かが発見し、それが話題になるやいなや「彼女」は即座にそのへんの「若い女」に画像を差し替えた。その後「彼女」は「ときどきモデルもしています」なんてことも一切言わなくなる。

追い打ちをかけるように、「彼女」が女性的ジェンダーを過剰に強調し、奇抜な女性語尾を使いまくることも、ネカマ老人ではないかと疑われるに至る。なにせ「彼女」はマカロンを色のついたカルメ焼きに喩えるのだ。いまどきそんな連想をする40歳女などどこにいる!?? 「パコ崎ミャ子」、キャラ崩壊の危機である。

そんなこんなの果てに、現在40歳設定の「彼女」は、2025年1月末、赤坂のわんたん亭のレヴューを最後に7か月間沈黙を守っていた。読者は案じたものだ、「パコ崎ミャ子」は死んだのか? 

ところが「彼女」は、不滅である。8月16日、羽田空港第1ターミナル内にあるおにぎり屋「五穀豊穣」のレヴューで、華麗にネット空間に舞い戻ってきた。帰って来たぞ、帰って来たぞ、パ~コざ~きミャ~子♪ 中の人が寝たきりで胃婁かどうかはさておき、どう見てみよぼよぼのじいさんだと固く確信している私たちは、拍手大喝采。待ってました、ミャ子さん! 

さて、最新レヴューはまず「彼女」が仁徳天皇を思い出すところからはじまる。仁徳天皇は、国民の貧しさからかまどに煙が立たないのを見て心を痛める。周囲の反対を押し切り、3年間税を免除し、自らの宮殿の修理も見送るなど質素な生活を送る。3年後、多数のかまどから煙が立ち上るのを見て、天皇は民の生活の平穏を喜び、「高き屋にのぼりて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり」と和歌を詠んだ。これは、民を思いやる慈悲深い政治姿勢を示しています。


場面は現代に変わり、パコ崎ミャ子さんはスマホのトラブルや寝坊による飛行機の乗り遅れでイライラしている。そんな「彼女」にCoordinatorさんは「生味噌のおにぎり」を勧める。そのおにぎりは、無垢な生の味噌の風味と、海苔、硬めのご飯の食感が絶妙で、「彼女」を感動させる。

Coordinatorさんは、米と味噌が栄養学的に理にかなっていること(米のタンパク質を大豆のリジンが補完)や、米がかつて非常に経済的な食材であったことに言及します。筆者は、この素朴で栄養豊富な「おにぎり」のチョイスから、これからやるべきこと、迷っている時間はないというCoordinatorさんのメッセージを悟り、奮起する。

続く日記で、「彼女」は出張の任務がどんなものであったかをうちあける。

「彼女」は、護衛任務の準備としてS&W M327(8連発リボルバー)の訓練に集中していたものの、しかし、Coordinatorさんから緊急の、報酬の高い交渉事を依頼される。それは、某大国の「超関税」の真意を確認するという、現状で誰でも分かりそうな、実質的に強制的な派遣だった。「彼女」は、この国がグローバルな潮流に反し、大きな変化の時を迎えている予感を抱く。


現地に到着すると、携帯などを没収され、特殊機能のないスマホを渡され放置される。「彼女」は、裏通りのネットカフェに移動し、情報収集を始める。この国では、公的な情報が筒抜けであり、一般人でない立場の人間は機器の電源を入れるべきではないと危機感を抱く。

突破口を見つけられないまま、ワシントンDCのレストラン「ブルー・ダック・タバーン」でシンクタンクに再就職した元政府関係者たちと接触する。かれらとの会話から、ドラトラ政権の主戦派が中間選挙までの2年で株式会社US〇の強固な設立を目指しているというニュアンスを掴む。特に、国籍を7~8億円で売るという施策は、国の価値(株価)を表す異例の経営者的発想であり、「彼女」はドラトラを「織田信長」のような変革者だと感じる。


「彼女」は、ドラトラの言う「ディープステート」は「闇の政府」ではなく、政府・諜報機関・金融の三権が私腹を肥やすシステムのことであり、日本もこれに深く浸かっている、つまり「植民地」の状態だと結論づける。この「交渉」は対等なものではなく、日本が金銭を差し出す(巻き上げられる)場だと感じる。

しかし、交渉の場で「彼女」は「水銀を金に変える核変換の特許使用」を認めさせ、90%を差し出す代わりに技術的な抑止力を得ることに成功する。「彼女」は、現状の日本は植民地であり、自立には血と涙を流す覚悟を持った変革者が必要だと訴えつつ、任務を終え帰国する。

例によって、この日記もまたとりとめなく錯乱した妄想メモをそのまま開陳してあって、しかもいつものように奇抜な文体は、「ぬっ」「ズら」「オイラ」「アタイ、超かわいい♡」「ヤバい♡」などの砕けた表現や、任務を指す「レンコン」「ドラトラ」「Aロット様」、国を指す「Kunに」といった隠語やスラングが多く使用されていて、これは、「彼女」のいつもの文体でありつつも、同時に「彼女」が特殊な立場にあることを示唆する演出 ではあるでしょう。

いやはや。寝たきりで胃婁かどうかはさておき、麻布十番だかどこだか知らないけれど、ひとりのネカマ老人がラノベを読み散らかしネット・ニュースを見ながら、榮太郎のとろみしょうが蜂蜜飴でも口のなかで舐めながら、きょうも壮大な夢を見ておられます。もちろんいまや「パコ崎ミャ子」さんを東大院卒40歳と信じる読者は誰もいない。「ときどきモデルをしています」、「現役パリッパリの物書きです」と言われても場末の老いた漫談師のお決まりのボケにしか聞こえない。しかし、鄙びた寄席の昼席でまばらに入った客たちに交じって、しょぼくれた老芸人の磨き上げられた平凡な芸を愉しむのも乙なもの。私たちはパコ崎ミャ子さんのレヴューを失笑し、苦笑し、ときには腹を抱えて笑いながらそれを読む。また、老人は老人で妄想的文章演技を続け、その妄想はどんどん壮大になって、そのとんでもない妄想を「彼女」は縷々開陳し続けるのだ。じいさんはけっして孤独に打ち捨てられてはない、なぜならじいさんは場末の立派な文章芸人であり、そしてじいさんはどんなときもパコ崎ミャ子とともに生きているから。

すべての夢見る人は、パコ崎ミャ子の「中の人」たるじいさんを好きにならずにはいられない。

お帰り、じいさん。きょうも良い夢を。

私たちは、ネットという巨大な妄想空間に、きょうも接続しながら生きているのだ。


次のエッセイでは、パコ崎ミャ子さん現象をラカン派精神分析によって分析してみたい。



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