老人とは自由を手にした者たちである。――なにが起こるかわからない時代を生き抜くための、21世紀の思想マニュアル 第8章
私は尊敬する、85歳のピアニスト、87歳の解剖学者、90歳の小説家を。かれらは時のなかで熟成してうまみを増したワインのようだ。かれらのように自由気ままに人生を楽しむ老人たちの物語はもっともっとあって良い。「微笑みとともに皺までもが魅力的に感じられる高齢女性」の肖像。「老いてなお生を愉しみ、死を恐れない、ちょい悪老人」の冒険譚。あるいは、「背中がΓ(ガンマ)の字に曲がってしまったおばあさんが、朝の児童公園でラジオ体操仲間と、笑い合う物語」。はたまた「悪徳老人、腹黒日記」だっていい。
要は、老いてはじめて人は自由を手に入れるというストーリーである。そのためには、死を恐れずに、死を自然なものとして受け入れるという構えが必要だ。死を明るくハッピーなイメージとして捕らえるようにできないものだろうか? たとえば、イスラム教では、ひとりの男が死ねば、白い肌、毛のない体、大きな目を持つ美しい72人の処女が性的接待をしてくれる。もっとも、72人という具体的な数字はコーランのなかにはなく、預言者ムハンマドの言行録によるものらしいけれど。(なお、私自身は天国のセックスワーカーたちの労働事情に関心を持たずにはいられないし、また彼女たちの幸福を祈る。それでも)、こういう楽天的な死後のイメージ自体は好ましいではないか。なお、生きているあいだ善行を積んだ女性もまた天国へ行けて、性別にかかわらず、飲んでも悪酔いしない酒、果物、肉、そして清らかな川(水、乳、蜜、酒)といったあらゆる喜びを享受できる。ただし、死んだひとりの女のために天国で72人のイケメンが性的接待をしてくれるというような伝承は存在しないようだ。イスラム・フェミニストの見解を伺ってみたいところである。
いずれにせよ、死はこのように祝祭であるべきなんだ。本来こういうことを考えることこそが宗教の役割だったはずだ。しかし、いま宗教には期待できない。ならば哲学と文学の出番である。
死を忘れる社会/死を抱える文化
日本文化には本来、死を隣人として抱きとめる習慣があった。たとえば俳句の「夏草や兵どもが夢の跡」は、死と無常を五七五に凝縮した。仏教の「諸行無常」は、死を忌避するのでなく、生成変化のなかに織り込む思想である。落語の演目『らくだ』は、町内の嫌われ者で役立たずゆえ「らくだ」と呼ばれる男がある日突然死んだ。ろくでなしゆえ、かれの死を嘆く者など誰もいない。そこでろくでなし仲間が「らくだ」の死体を操ってかんかんのう(もともとは恋歌とともにある舞いなのだけれど、ここではそんなことはどうでもよく、はやいはなしがゾンビー・ダンス)を躍らせて町内の人間たちを怖がらせ、通夜のためというテイでカネをたかるというろくでもない噺だ。余談ながら立川談志はこのネタをおハコにしていたもので、いかにも談志と私は呆れる。いいえ、そんなことはともかく江戸時代にはそのくらい死が身近に転がっていたのだ。
ところが高度経済成長と医療技術の発展は、この「死との隣接」を社会から遠ざけた。死は病院に隔離され、死者の姿は日常から消えた。結果、死はリアリティを失い、ただの統計値やニュース映像としてしか想起されなくなった。一度も会ったことさえない遠くの他人の死は、ただの数字に過ぎない。
これは私たちが生きている世界がおかしなことになっているということに他ならない。
時間の裂け目――ベルクソンとハイデガー
ベルクソンは時間を「持続(durée)」として理解した。時計で計測できる客観的な時間ではなく、意識の流れのなかで感じられる厚みのある時間。それに対し、ハイデガーは『存在と時間』において、人間の本質は「死に向かう存在」であると喝破した。人間は死を意識するからこそ、時間を「自分のもの」として生きることができる。
つまり、生と老いを考えるとき、私たちはこの二つの時間感覚――「持続」と「死に向かう有限性」――のあいだで生きているのだ。
しかし、いま、AIはこの人間の時間を破壊しかねない。
なんかちょっとおかしくないですか?
そう思ったとき、すでにあなたは哲学の門の前に立っている。
老いのマネジメント――社会保障と文化的意味
現代国家にとって「老い」は福祉制度のコストであり、労働人口の減少である。つまり老いは「問題」として語られる。老人は怒って良い。「バカ野郎、人は生きてりゃ誰だって老いるんだ。自然なことだ。その自然がなんで問題なんだ。ちょっとくらい哲学してみろ、ボケ!」いいえ、若者たちには別の言い分もあるでしょう、「なんでこの逆ピラミッド型老人社会で、おれたち少数の若者~中年が膨大な老人たちを支えなあかんねん。老人ども、はよ死ね!」なるほど、これはこれでもっともな意見ではあるけれど、しかしこれはいわば別の部屋の問題であり、同時にふたつの問題を扱うことはできません。
そもそも、文化的・哲学的には老いはむしろ「知の熟成」や「時間との和解」の可能性を含んでいる。セネカの『人生の短さについて』やシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『老い』は、老いを「生の完成」の一部として受けとめ直そうとした。大事なことだと私も思う。また、そんな思想があってこそ、人は老人を尊敬できるし、また時間のなかで生きるしかない人間は、生に希望を持つことができるのだ。
しかし、いまやこのような正論は、多勢に無勢である。
技術文明と不死の幻想
いまや現代のシリコンヴァレーは「不死」すら商品化する。アンチエイジング、脳のアップロード、遺伝子編集、クライオニクス。習近平主席に至っては、臓器移植で150歳まで生きることができる、と豪語して中国人民をげんなりさせる。だが、死を技術的に克服しようとするこの姿勢は、実は死を徹底的に忘却することでしか成り立たない。
ここで問うべきは、「死を消すこと」ではなく、「死をいかに生きるか」である。むしろ死は、人間が人間であることを保証する最終の地平であり、死を前にしたときにはじめて、人は「いまこの瞬間」を生きる意味を発見するのである。
時間と死を翻訳する
私が冒頭で書いた、私が尊敬する、85歳のピアニスト、87歳の解剖学者、90歳の小説家とは、渋谷毅さん、高橋悠治さん、養老孟司さん、筒井康隆さんのことである。みなさんかっこいいではないか。社会はもっとかれらを祝福すればいい。そうすることによって、私たちもまた幸福に老いることができるのだ。
前章で私は「翻訳」を論じた。ここでも同じく、「翻訳」という方法が生きる。老いの孤独を、若い世代の言葉に翻訳する。介護者の疲労を、社会全体の時間感覚に翻訳する。死者の沈黙を、生き残った者たちの物語へ翻訳する。そのとき、死と老いは「問題」ではなく「共有可能な経験」へと姿を変えるのだ。
結び
これは「時間と死のマネジメント」の問題である。けっして死を消すことではない。老いを恥じる必要もない。それは「有限性を意識しながら、いまを持続させる技法」である。未来世代への責任を引き受けながら、同時に自分のいまを生きること。その両立を可能にする知恵を探るのが、本章の目的である。
次章では、記憶と忘却をめぐる問題を扱う。
