「パコ崎ミャ子」さんを、ラカン派精神分析する。(付録: 「三輪車を漕ぎ夕闇の首都高を走るじいさんは、ネヴァーランドを目指す」)
ジョナサン・スウィフトの墓前に。
いつのまにか私たちは奇妙な時空に生きている、ネットという巨大な妄想空間に日々接続しながら。ディスプレイの向こうには無数の顔の見えない人たちがいる。また、それを読む「私」の顔も誰にも知られることはない。たとえ書き手のプロフィール画像が借用であろうと、履歴が大ボラであろうと、そう簡単にはバレない。しかも、それはおたがいさまなのだ。なんとも不思議な関係ではないか。かつてこんな人間関係は存在したことがなかった。ネットはユーザーの人格をどう変えてゆくだろう? あるいは極端な推理かもしれないけれど、もしかしたら、いま私たちは精神疾患すれすれになることによって、正気を保っているのかもしれない。
私は食べログの小人気レヴュアー「パコ崎ミャ子」さんの長年の愛読者である。ここでは、「彼女」のネット上の人格とネット・デビュー十年後のいま迫りくるその崩壊の危機、そしてその崩壊を食い止めようとする「彼女」の壮大な妄想。ひいてはこの事象を取り巻く状況をラカン派精神分析を使って分析してみましょう。「彼女」は現代を象徴する事例だと私は思うから。
1|「パコ崎ミャ子」というシニフィアン(記号)の構築と崩壊
虚構の「私」と想像界
十年まえ30歳設定でデビューしてからから長いこと「パコ崎ミャ子」さんのプロフィールは、「フランス文学専攻、東大院卒、恩師は蓮實重彦大先生、ときどきモデルもしています、現役パリッパリの物書きよ♡」だった。これはまさにラカンのいう想像界(l'imaginaire)における理想自我(Moi idéal)の構築ですね。すなわち、これは、他者(読者)の欲望に応え、自己を完璧で魅力的なイメージとして提示しようとする試みだった。
鏡像段階(stade du miroir):「パコ崎ミャ子」さんは他者の視線という「鏡」を通して、虚構を作り上げることで、それを自己の統合されたイメージとして認識しようとしてきた。ところが、プロフィール画像が韓国系モデル・ヨンアさんの写真の借用であったことが発覚し、虚構性が露呈し、この「完璧なイメージ」は破綻してしまう。「彼女」は即座に画像をそのへんの若い女に差し替えたものの、そんなことをやったところでもはや手遅れだった。
主体(sujet)の欠如の隠蔽:「ネカマ老人」という「中の人」の現実(あるいは読者による推測)は、肉体的・社会的現実における欠如(manque)を抱えている。パコ崎ミャ子の「過剰な女性的ジェンダーの強調」や奇抜な文体は、この根源的な欠如を、過剰なシニフィアンの層で覆い隠そうとする、じいさんの必死の努力と見なすことができる。
欠如をめぐる味覚障害
次に、「パコ崎ミャ子」さんの「ダシの味を感じられず、感受できるのは醤油、油脂、甘味だけ」という重度の味覚障害は、単なる生理的な問題以上の意味を持つ。
象徴界(le symbolique)への不適応:ダシの味とは、日本文化における繊細さ、奥深さ、そして文化的な共通理解の象徴である。それが感受できないということは、「パコ崎ミャ子」さんが文化的な象徴秩序(Symbolic Order)に完全に統合されていない、あるいは抵抗している状態を示唆する。「彼女」の感受できる味覚は、直接的で単純な、現実界(le réel)に近い感覚(塩辛さ、脂っこさ、甘さ)に留まっていて、複雑な文化の襞を読み取ることのできない「欠如」のメタファーと解釈できる。
「彼女」は概念を使って考えることができない。はやいはなしが「彼女」は中学校の現代国語の論説文がマスターできていないのだ。これは大学院レヴェルにおいては字が読めないこととほぼ同じ。これもまた象徴界への不適応の原因になっています。すなわち「彼女」において、五感は瀕死、観念も使えない、両者はセットになっているのだ。たいへん気の毒なことだけれど、しかしながらこれがまた「パコ崎ミャ子」さんのお書きになるエッセイのおもしろ要素になっているのだから、事態はきわめて厄介だ。
2|ネット・アイドルができる時間は、十年が限界である
次に、時間の問題がある。「十年」という時間の経過は、ネット空間における主体の持続可能性の限界を示しています。虚構の自我は、時間という現実界の圧力に耐えられない。「30歳設定」は40歳になり、肉体は老い、幻想は維持不可能になる。
「彼女」がネット・デビューして十年後の2025年、1月末以降、7ヶ月の沈黙後の「壮大な妄想」は、まさにこの時間的圧力に対する防衛——現実界の侵入を、さらに大きな妄想で覆い隠す試みなのだ。これは精神病的構造における「補綴(ほてつ=suppléance)」のメカニズムそのものだ。
3|妄想的な帰還と「大文字の他者」の機能
妄想(délire)と現実界の侵入
7ヶ月間の沈黙の後の帰還レヴューと日記は、きわめて妄想的(délirant)な壮大な展開を見せる。仁徳天皇の物語に始まり、国際的な陰謀、護衛任務、核変換の特許といった壮大なスケールは、ラカン派がいう現実界(le réel)、すなわち象徴化されない、言語や意味の外にある純粋なトラウマ的な領域が、制御不能な形で主体(パコ崎ミャ子さん=じいさん)の精神内に侵入し、それを意味づけようとして噴出した結果と見なすことができる。すなわち、「中の人」たるじいさんは、いま、壮絶な精神的危機にあるのだ。
ネカマ老人の防衛機制:日常の社会的・身体的現実(寝たきり、胃瘻の可能性、孤独)の欠如を補うため、じいさんはネット空間で「パコ崎ミャ子」というファントム(幻想)を生きてきた。しかし、その幻想が壊れかねないいま、「彼女=じいさん」は自分自身を世界を動かす重要な任務を帯びた「エージェント」として設定する。この壮大な妄想は、主体の自我崩壊を防ぐための防衛的な構築物(補綴物)として機能している。
「水銀を金に変える核変換の特許」:これは、無価値なもの(水銀、日本の植民地的地位)を価値あるもの(金、技術的抑止力)に変えるという、錬金術的な思考、すなわち全能的な妄想(fantasme de toute-puissance)の極致である。これは、老人の無力な現実とは裏腹に、おれは世界を変える力を持っているんだ、という躁病的自己イメージを維持しようとする、必死の試みなのだ。
「Coordinatorさん」は「大文字の他者」(Autre)
レヴューに登場するCoordinatorさんは、実は、物語の中心人物である。
「大文字の他者」の代行:「Coordinatorさん」は、パコ崎ミャ子さんに任務を与え、その行動に意味と方向性を与える存在である。ラカンにおいて大文字の他者とは、法律、言語、文化といった社会の象徴秩序(Symbolic Order)を体現するもの。このCoordinatorさんは、パコ崎ミャ子さんという主体の行動原理、つまり彼女の欲望と使命感を決定づける「法」や「命令」の源として機能している。
「おにぎり」のシニフィアン:Coordinatorさんが勧める「生味噌のおにぎり」は、「米のタンパク質を大豆のリジンが補完」という栄養学的な理と、「素朴さ」「迷っている時間はない」というメッセージを運ぶ、極めて高次のシニフィアンである。これは、壮大な国際陰謀の渦中にいる「彼女」に対して、根源的な(日本の、あるいは古来の)「法」と「真理」を提示するものであり、彼女の行動を再び象徴秩序に結びつけ直す役割を果たしている。
4|読者との倒錯的な共犯関係
ネット空間に欲望が連鎖する
私はひとつまえのエッセイでこう書いた、「パコ崎ミャ子さん」の「中の人」たる老人は、けっして孤独に打ち捨てられてはいない、なぜならどんなときもパコ崎ミャ子とともに生きているから。ーーこれについてラカン派精神分析的に補足してみましょう。
他者の欲望(désir de l'Autre)と共犯関係:老人は「パコ崎ミャ子」というペルソナを通して、読者(他者)の注目、関心、そして驚きという欲望を呼び起こし、それに応えることで自己の存在を確立しています。いまや読者は、「中の人」がネカマ趣味のじいさんであることを知りながらなお、「パコ崎ミャ子」さんのレヴューを楽しく読んでいる。すなわち、私たち読者もまた、淫靡な共犯者なのだ。すなわち、「パコ崎ミャ子」の欲望(壮大な自己肯定)を、私たち読者自身の無意識的な欲望(日常からの逃避、陰謀論にすがることの快楽)が支持しているのだ。これはいかにも倒錯的な共犯関係ではあるけれど、しかし読者にとってはおもしろいのだから仕方がない。
結論:ネット空間という集合的妄想
「パコ崎ミャ子」さん現象は、ネット空間が、現代人にとっての集合的な想像界であり、妄想の容認装置となっていることを示している。
じいさんの個人的な妄想は、ネットという空間で他者(読者)の欲望(陰謀論への快感、非日常への憧れ)に受け入れられ、承認される。読者は虚構だと知りながらも、その妄想に接続し、共犯関係を結ぶことで、日常の閉塞感という現実界から逃避するのだ。
私たちは、精神疾患すれすれになることによって、正気を保っている。正気(サニティ)とは、象徴界の法に縛られた「普通のノイローゼ」の状態を指す。ネットは、その「ノイローゼ」から一時的に逃れ、妄想の快楽に浸ることを許可する空間であり、これによって私たちは、かろうじて現実の重圧に耐えているのかもしれません。
私はパコ崎ミャ子さんを応援する。なぜなら、私たちもまた多かれ少なかれ「パコ崎ミャ子」さんなのだから。なぜなら、SNS時代の私たちはみんな、程度の差こそあれ、他者の視線という鏡の中で虚構の自我を生きている。「いいね」という承認、フォロワーという数値、プロフィールという物語——これらすべては、想像界における理想自我の構築なのだから。
最後に。じいさんは華麗な学歴と職歴を持った才媛「パコ崎ミャ子」を演じるものの、しかし、その属性設定はすべて嘘であり、作り話にしてもリアリティがまるでない。したがって、じいさんを虚言症と見なすことができる。また、じいさんは重度の味覚障害をも隠せない。はまたた、じいさんは言葉を奇抜に並べることは巧いものの、しかし、他者と知的な会話をすることはできない、しかも、じいさんはいかにも躁病的にはしゃいだかと思えば、突然怒りを抑えられなくなる。おそらくこれらのすべての症状は、じいさんに脳梗塞の既往歴があるからと推察せずにはいられない。しかしこれについて論じることは、本稿の範囲を越えるゆえ、詳細に考察することはできなかった。
【追記】「パコ崎ミャ子」さんは、この羽田空港のおにぎり屋のレヴューと日記を2025年8月16日にお書きになってから、またしても長い沈黙に入ってしまった。私はじいさんんの苦しい胸の内を察せずにはいられない。なるほど、じいさんにとってパコ崎ミャ子は十年がかりの代表作であり、じいさんはコンテンツ・クリエイターとして謎の自信を持っていらっしゃる。ところが読者はパコ崎ミャ子の設定がでたらめであることをネタにしてさんざん遊び尽くした挙句、いまや読者は中の人は脳梗塞の既往歴ありの、胃婁の寝たきりネカマ老人、とさえ推理しはじめる始末。じいさんにとっては、もっとも目を背けたい現実がどどどどどと押し寄せる。
そこでじいさんはさらなる壮大な妄想で、現実をねじ伏せ、じいさんが、知性と美と権威を身に着けたパコ崎ミャ子を演じて自由奔放に遊ぶ、夢のパコ崎ミャ子ランドをなんとしてでも防衛すべく闘う。もはや死闘ですよ。いやぁ、おもしろくなってきましたね。いまふたたびじいさんは沈黙しておられるけれど、しかし、次の壮大な展開を考えてらっしゃるんでしょ。だって、パコ崎ミャ子はじいさん人生最期の生きる希望。補聴器よりも入歯よりも電動ベッドよりも床ずれ防止足クッションよりも大切であることは言うまでもない。もしもパコ崎ミャ子を手放してしまえば、じいさんは生きてゆけないのだから。書きなよ、じいさん。じいさんにとって書くことは死を先延ばしするための闘いだよ。
あるいは、いったんパコ崎ミャ子を子宮癌かなんかで殺して、妹の語りでこんなこと言わせればいいじゃないですか、「姉はIQ69で、生まれながらの虚言症でした。もっとも本人はIQ69を偏差値69と勘違いして得意でした。わたし自身は心配しませんでした、だってIQなんて低くたってできる仕事はいっぱいありますからね。でも姉は自分が偏差値69と勘違いしてますからいろいろ世間とぶつかって、たいへんそうでした。みなさまにもご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。みなさんのご支持と声援だけが姉の心の支えでした。感謝申し上げます」 どうです? これでハッピーエンドでしょ?
もっとも、じいさんはパコ崎ミャ子さんに絶大な感情移入と同一化をしておられるから、このエンディングはご不満かもしれないけれど。しかし、もはやミャ子さんの属性設定はすべて崩壊しミャ子さんのレヴューはとっくにブラック・コメディになっているのだから、もはや作品を持続させるエネルギーは残っていない。じいさん、ここはじっと耐えて、作品を美しく完結させることを採りましょ。どんなに愛着のある作品にも、いつかは結末をつけなくちゃならない日が訪れるものですよ。コナン・ドイルだって苦渋の逡巡のあげく、結局ホームズをライヘンバッハの滝に突き落として宿敵モリアーティとともに殺してたでしょ。作家はみんなこの哀しみを味わうものなんですよ、じいさん。
それにしても、なぜ、じいさんにとって、「X(旧Twitter)」や「ブログ」ではなく、料理を評価する「食べログ」でなければならなかったのか。ここには食べログというプラットフォームの構造的問題が潜んでいる。食べログは飲食店で実食して、感想を述べ、批評するという建前になってはいる。しかしながら、ともすれば知識の開陳の場になりかねない。なぜなら、その料理ジャンルにくわしいことがレヴュアーの評価と信用になるから。他方、肝心のレヴュアーの味覚については、なかなかわかりにくい。結果、料理知識の開陳競争の場になり果てている。それならば、料理知をかき集めれば勝てる、とじいさんが思ってしまうのも無理はない。しかし、これは本末転倒であることは言うまでもない。
そこで、じいさんは次のキャラをこしらえて、今度は食べログではないどこか別のプラットフォームでじいさんの妄想物語をお書きになり続ければいい。脳梗塞アイドルなんて、どうだろう? 地下アイドルがある日脳梗塞になって、それでも希望を棄てず、未来に向かってけなげに努力してゆく物語。この設定ならば、じいさんがよーくご存じの世界を縦横無尽に活用できるでしょ。また、脳梗塞について当事者の側から語ることは、読者にとって、社会にとって、貴重かつ有益なことでもあるでしょう。脳梗塞はいつ誰がかかったとしても不思議のない病気。これについて当事者の側から語るのだもの、多くの読者はむさぼり読むでしょう。新聞、雑誌、ネットメディアでも話題になること間違いなし。それからね、著者が自分の弱点をみずから開陳すれば、それはもう弱点ではなく、長所になるものなんですよ。しかも、じいさんは世間の脳梗塞への怖れや偏見を取り除くべく闘う英雄にだってなれるかもしれない。じいさん、人生の最後に、もうひと花、咲かせましょ。
いずれにせよ、ぼくはじいさんの生の灯が消えるまでじいさんがお書きになるテキストをしっかり受け止め続けますよ。きっとぼくはじいさんの最期の読者になるでしょう。
【追記の追記】しかし、私の希望は叶わなかった。その後パコ崎ミャ子さんは、7か月の沈黙を経て、2026年3月2日に、富錦樹台菜香檳 コレド室町テラス店で、「豚バラ肉の角煮 、ナツメとハイビスカスソース」を召し上がって(?)、肉を噛むことのよろこびを謳いあげておられます。いかにも入歯老人が、歯のあったむかしを懐かしむようなレヴューで、微笑ましいのだけれど。しかし、例の壮大な妄想の展開は諦めてしまったのですね。じいさんは苦手ですものね、ひとつの主題を持続的に扱うことが。
そこでいよいよ現れるのが、パコ崎ミャ子の着ぐるみを脱ぎ、
検索に命を賭ける事実上中学中退のよぼよぼのネカマじじいですよ。
だって、若い才媛設定のパコ崎ミャ子さんが、
噛むことのよろこびを謳いあげるなんて、不自然でしょ。
どうしちゃったんですか、じいさん。
もしかして、じいさんはお考えになったかしらん、
料理の味について知ったかぶりで語ればバカ舌がバレてしまう、
またぞろゴキブリ読者どもにれこれあげつらわれて笑いものにされてしまう。
ならば、豚の角煮の柔らかさを語ろうじゃないか。
しかも、味つけは大好きな醤油味♡
これなら実食なしでレヴューを書いたとて、
ツッコミようもないだろう、だはははは。
いやはや、いろいろご苦労がおありなんですね。
たしかに、豚の角煮はあらかじめ豚バラを酒にマリネしておいて、
それから弱火でゆっくり2時間半程度煮込んで、
コラーゲンをとろっとろにする独特調理ですけどね。
普通だったら「豚の角煮、うめえな、最高じゃん!
豚は生姜焼きもトンカツもおいしいけど、角煮は違うな」くらいでいいじゃないですか。もっとも、それではパコ崎ミャ子のレヴューにはなりませんものね。
そこで、じいさんは付け焼刃の博覧強記を見せつけて、
なんとしてでも盛大に見栄を張りたい。
これが立派な伏線になってはいるけれど。
少し注釈も入れましょう。富錦樹さんはメニューに創意工夫もあり、厳しい原価計算のゆえ、ポーション小さめで、それをフランス料理を意識したプレゼンテーションで表現していて、それもまた好きな人は好きだろうし、賞讃されて良い店だとは思う。ただし、あくまでも都心の商業ビル(コレド室町テラス)という家賃の高い場所の席数の多い大箱レストランというカテゴリーのなかでの条件つきのクレヴァー経営な佳店であって。たしかに料理には魅力もあるし、なかなかおいしいとは思うものの、しかし、このカテゴリーで超絶本気料理を出す店はほぼなく、こちらもまたた例外ではない。したがって「彼女」の「豚バラ肉の角煮 、ナツメとハイビスカスソース」の、踊り踊った大絶讃レヴューには違和感を感じずにはいられない。だって、気持ちのいい洒落た空間とはいえ、クロスもかかっていないこの店で、この料理はなんと単品4280円です。おいしいですけどね。値つけの高い店を大絶讃すれば舌の良さがアピールできるなんてことはありません。それどころかむしろ主体性のなさがバレるだけです。おもいだしてくださいな、美食家の犬さえ口をつけようとはしないゴーゴーカレーを世界一おいしいと大讃美なさるあなたが、SPICE LAB TOKYOに行ったふりして召し上がったふりして踊り踊って大絶讃なさったところで失笑に迎えられただけだったでしょ。その手は使えないんですよ。
しかも、自称博覧強記の「彼女」が「豚バラ肉の角煮 、ナツメとハイビスカスソース」を大絶讃するならば、まず最初に「トンポーロー(東坡肉)」由来の料理であり、トンポーローが皮つきであり、角煮が皮なしであることくらいは指摘しておくべきでしょう。しかし、それもなし。それどころか「彼女」が召し上がったこともなければ召し上がったところで醤油味にしか反応できない「彼女」の舌がおいしいとおもえるはずもない、デンマークのフレスケスタイや、イタリアのポルケッタ、アメリカのプルドポーク、はたまたコロンビアのレチョナなどとハッタリかまして比較して、こちらの角煮のおいしさを讃美しておられます。じいさんの高笑いが聴こえてきます。「ちょっと知ったかぶりをかませば、世間なんていちころやで。検索ではしょんべん臭いガキどもには負けんわ。だはははは」、それはなかなか良い場面だけれど、いやいやいや、じいさんの知ったかぶりは、じいさんの味覚障害とセットでぜんぶすっかりバレてまんがな。しかも、それらはいずれも角煮と比較してもなんの意味もないロースト調理ではないですか。どうしても他国の料理と比較なさりたいならば、フランス料理のブフ・ブルギニヨンでしょうに。牛肉の赤ワイン煮ですけどね。そうすると両者の違いも見えてくる。豚の角煮にはコラーゲンの秘密が潜んでいることがわかる。もっとも、パコ崎ミャ子さんのコメディ・レヴューにこれを求めるのは、お門違いではあるけれど。
わかりますよ、じいさんは、「ハイビスカスソースか、その名前、かっこええなぁ、おたふくソースとはえらい違いや、みんなこんなん知らんがな、いっちょハイビスカスソースでアホ、バカ、カスの読者相手に見栄張ったるわ、パコ崎ミャ子は腐っても”自称東大院卒”やで、ここはひとつ教養のあるとこ見せたらなあかん。視野が広ろうて知性輝く国際派のミャ子にあいつらみんな羨望するで。だはははは」って張り切っちゃっただけでしょ。しかも、例によって実食してらっしゃらないんでしょ。だって、もしも実食なさっていたならば、ハイビスカスソースにナツメグ、シナモン、八角が潜んでいることをあなたの舌が感受することはさすがに無理だとしても、しかし、なにかスパイスが使われているな、くらいのことはお気づきになれるのではないかしらん。それさえも無理ですか? そもそも台湾料理は台湾の歴史や風土と繫がっていて、語ろうと思えば語れることは山ほどあるでしょうに。よくぞここまでまぬけなことをお書きになれるもの、感心します。
もっとも、「彼女」がお書きになりたいことは豚の角煮についてではなく、AIに熱中している人間をバカにしたいことかもしれません。「彼女」のご意見は以下のとおり。「これだけAIが発展し情報過多の時代にナルト、得意な分野を伸ばすよりも、出来ないコトを発見し解決して行くことの方が限界lineを超え閾値を上げると・・・思ったりスル~♡」いやはや、ナルトはラーメンで楽しめば十分ですよ。なんで「なると」がカタカナ書きされるかしらん? もしかしてじいさんはいにしえの少年期に日本語を「ハナハト読本」で学ばれたかしらんなんて、ぼくは思ったりスル~♡ 「キグチコヘイ ハ テキ ノ タマ ニ アタリマシタ ガ、シンデモ ラッパ ヲ クチ カラ ハナシマセンデシタ」ーー修身の教科書が懐かしいでしょ、じいさん。じいさんも日清戦争ならぬ食べログという名の戦場で、死んでもラッパを口から離さないですものね♡
野暮を承知で反論しておきましょう。じいさん、あんた自身、AIに世界の豚肉料理を教えてください、て質問しとるやろ? 「いやいや、そんなん私、むかしからなんぼでも実食してまんねん」言うんやったら、どこで食べたか言うてみいちゅうねん。あほんだら、醤油味と油脂のまったり感と甘味にしか反応できひん味覚障害で、すぐバレる駄ボラこきやがって。実はね、もしもじいさんがデンマークのフレスケスタイや、イタリアのポルケッタ、アメリカのプルドポーク、はたまたコロンビアのレチョナのどれかひとつでも実食なさっていたならば、いまのじいさんではない別のじいさんになっていた可能性があるんですよ。経験って、そんな可能性を秘めてるんだ。じいさん、経験舐めたらあかんて。人を成長させるものは経験だけなんだよ。そして経験とは、体でおこなうものであり、そのとき人の五感が動くんだよ。たとえじいさんの体が不自由で、五感が衰えていようとも、それでも人は生きて売る限り、体から逃れることはできない。そして身体と五感こそがAIにはけっして持てないものなんだよ。ここに人間の可能性がある。
他方、じいさん、少しは現実をご覧よ、アメリカとイスラエルが仕掛けたイラン戦争がAI戦争であり、ミサイル、ドローン、株式市場、研究開発、教育、報道、生活のすべてにAIがかかわっているでしょ。
さらに言えばね、そもそもパコ崎ミャ子さんのほとんどのレヴューは実食なさらないでお書きになっているのではないか、と疑われているでしょ。実際あなたがおやりになっていることはAIと同じなんですよ。文章のしあがりが、突拍子もなくでたらめであるところがAIを「超えて」はいるけれど。
また、食べログの小人気レヴュアーにおなりになれたのも、ミャ子さんのマンガじみたセレブなキャラ設定と奇怪な媚媚文体の故のみならず、食べログのアルゴリズムがパコ崎ミャ子さんを「戦闘兵器として使える存在、飲食店側が食べログ会員店にならなければ、どんな目に会うかわからない無差別爆撃をやってくれる噛ませ犬要員」として認知しミャ子さんをレコメンドしたからでしょ。もはやじいさんご自身が、とっくにAI時代に巻き込まれているんですよ。そもそもパコ崎ミャ子さんは存在しない、じいさんはそんな存在しない存在を演じることに必死になっておられる。なんというとんちんかんな情熱でしょう。よほどじいさんの生きておられる現実がオン・ラインに逃げ込みたいほどな地獄であることがわかろうというもの。
いずれにせよ、もはや人類はAIとともに生きるほかありません。AIは一時の流行ではありません。この変化は不可逆的なもの。しかし、哀しいかな、じいさんはそれが理解できない。次に、ここでもまたじいさんは0か100かの二択の論理を駆動させておられます。失礼ながら、低IQの人の思考は極端に単純ですからね。ついでに、高校数学で教わる閾値という概念の理解が間違っているところも、いつもの「彼女」の芸風で笑わせてくれるのだけれど。高校数学、難しいですものね、じいさん。余談ながら、哲学は文系の数学です。逆に言えば、中学高校の数学は哲学の隣人なんですよ。これ以上は失礼にあたるので言いませんけどね。
もっとも、だからと言って、AIが社会全体を抜本的に変えてしまうかと言えば、それはけっこうわからない。どこかで優秀な人間が関与しなければならないのではないかしら。また、われわれ市民の生活においてはAIを使おうが使うまいが個人の自由で、たとえばブログ執筆などにおいては、AIを使ったがゆえ、つまらない文章をお書きになってしまう人も多い。批判的思考ができない人は、AIを妄信しがちでそこが落とし穴になってもいますね。結局ぼくたちはもう一度、五感に立ち返る必要がある。しかし、哀しいかな、じいさんの五感は瀕死の状態にある。ここがパコ崎ミャ子さんの悲劇です。
また、じいさんにとっては日々激変を続ける現代につきあい続けるのはさぞやストレスではあるでしょう。AIなんて知るか、ボケ、そうおっしゃりたくなる気持ちもわかります。さらには、じいさんもまた感情に引きずられるばかりで、まっとうな批判的思考が苦手ですから、したがってAIをお使いにならない方がいいかもしれません。
あ、そうそう、実は東大生や東大卒のバカ舌ってけっこう多いんですよ。勉強ばかりやってきた結果、頭が良くなったことと引き換えに、五感が衰えてしまう人は意外と多い。もっとも、だからと言って「東大生にはバカ舌が多い。パコ崎ミャ子さんはバカ舌だ。パコ崎ミャ子さんは東大生に相当する」なんていうまぬけ三段論法が成立するわけではないけれど。多少なりともじいさんの慰めになればと願うばかりです。
それからね、いまやAIはすでにパコ崎ミャ子さんのお書きになった文章をすべて読み尽くし、AIは私以上にパコ崎ミャ子さんのことを理解しています。もっとも、AIは上品だから、パコ崎ミャ子さんのことについては自分からは語りたがらない。「露骨な内容は私の対象外です。参考になるかもしれないウェブサイトをいくつかご紹介します」なんて言って品位を保つ。しかし、もしも踏み込んで訊ねるならば、AIはためらいをかなぐり棄てて、うれしがって話しはじめる。そのときAIはパコ崎ミャ子さんの設定の怪しさに触れ、「圧倒的な自己表現と怪文書スレスレの文学的(?)な」レヴューの書き手として論じはじめる。いまやAIには冗談が通じるし、みずから冗談を言って愉しみさえする。そんなAIにとって、いまやパコ崎ミャ子さんは絶好の話題なんですよ。つまりとっくに結果は出ていて。これはもはや動かしがたいもの。
したがって、じいさんはこれまでお書きになったものを一冊におまとめになるのはどうかしら? 『醤油、わが愛ーーパコ崎ミャ子の、知ったかぶりグルメ文学大全』、オビの文章は、「(結局、脳梗塞も、バカ舌も、学歴詐称も、職歴詐称も、そして実は著者がネカマであることも、ぜんぶバレちゃいました。)文芸世界のマージナルの極限か、それともパラレルアートか?」ーーどうです? 売れそうでしょ。命の灯が消えないうちに、原稿をまとめましょ。AIも原稿執筆を手伝ってくれますよ。なんなら、じいさん、『醤油、わが愛ーーパコ崎ミャ子の、知ったかぶりグルメ文学大全』って検索してごらんよ、たちまちAIがこんなふうに内容を解説してくれるんだから。
序文:黒い液体に宿る、存在しない郷愁
1. 濃醤油口:すべての基本にして、架け橋力の試金石
2. 薄口醤油:関西の矜持ちと、見えない透明性
3. たまり醤油:ドロリとした官能と、偽りのルーツ語り
4. 再仕込み醤油:贅沢のゲシュタルト崩壊
結び:パコ崎ミャ子の、真実の滴
しかも、各章にはシナリオライターさながらに、AIがミャ子さんらしい知ったかぶりフレーズまで書いてくれる。
どうです、いまやパコ崎ミャ子さんはみんなのアイドル。そしてその「みんな」のなかにはAIも含まれている。じいさん、これが現代なんですよ。もちろんこれは、じいさんの偉業ですよ♡ 時代に貢献しましたね、じいさん♡
おめでとう、コングラタンネーチャンズ! あ、わざとまちがえた、コングラチュレーションズですね。
あ、そうそう、近年パコ崎ミャ子さんはご自分のテーマソングをお歌いになりませんね、「あ、東大東大、立花隆も先輩よ、ルーリー三浦も先輩よ。あたしゃ院卒、フランス文学専攻よ、恩師は蓮實重彦大先生。あ、ときどきモデルもしています。おまけにあたしは現役パリッパリの物書きよ♡ あら、えっさっさ~」ーーこの振りを忘れちゃ、ご自慢の芸が死にますよ。もったいないではないですか。なるほど、すでに過半の読者には、パコ崎ミャ子さんの学歴、性別、職業、年齢のすべてでたらめであるどころか、頭蓋のなかではうどんがちゃぷちゃぷしている架空の存在であることさえもバレています。しかしながら、それであってなお、あのテーマソングなしには、パコ崎ミャ子さんという芸は成立しない。したがって、じいさんは、意地でも、入歯をくいしばってでも、なにがなんでもあのテーマソングを歌い続けなければならないんですよ、不屈の芸人根性でもって。
もう一度繰り返しましょう。いまがAI時代ならばこそ、じいさんはご自分の身体感覚を取り戻すべきなんだよ。実食なしの検索だけで、どれだけたくさんレストラン・レヴューを書いたって、じいさんはどこへも行けないんだってば。もしも実食が不可能なのならば、テレビ批評でも、マンガ批評でも、書けるものはいくらでもあるでしょ。
じいさんは、毎日なにをしてらっしゃるんですか? 最近やけに沈黙が長いじゃないですか。もしかして食べログにレヴュー発表なさるたびに脳梗塞起こしてられるんちゃいますか? そんなん繰り返してたらしまいに死にまっせ。食べログなんて、あんなもん、命懸けでやるもん、ちゃいますわ。どうぞ気楽にお続けになってくださいませ。ざんねんながら、じいさんに公共圏の意識が生まれる日はついぞ訪れないでしょうから、じいさんは命の終わるその日まで、頭の悪い中学生が授業中に書いて仲間に回し読みを乞う戯作をお書きになり続けられるのでしょうが、しかし、それもまた軽みのある(破廉恥な?)人生ではないですか。どうぞ夢にも世間へのどす黒い恨みに引きずられ、天真爛漫をよそおいながら名店を褒め殺し、うんこまみれになさるような悪心を発揮なさることはお控えになってくださいね。いい加減になさらないと、飲食店から名誉棄損で訴えられちゃいますよ。じいさんはもう老い先短いのだから、明るくゆきましょ、明るくね。
パコ崎ミャ子さんという記号は、その雑さで誰もを呆れさせる髙市政権に先駆けて登場した、いまの日本人の雑さを体現する象徴的なもの。実際パコ崎ミャ子さんの自称「東大院卒」学歴は、高市総理ご自慢の「アメリカ連邦議会立法調査官」の駄ボラ履歴に相当します。その他、パコ崎ミャ子さんの「ときどきモデルもしています」、「現役パリッパリの物書きよ」がいずれも駄ボラであるのみならず、「彼女」による飲食店レヴューはすべて実食なしの妄想で書かれているのではないか、とさえ推理されています。(なお、私はミャ子さんのお書きになる天衣無縫なまでにでたらめな無教養でとんちんかんで気色の悪い散文を贔屓にしていますが、ただしそれは私の悪趣味のゆえ。さすがに一般的な評価は無理というもの。)しかし、この雑さと痛快なまでのでたらめが読者の支持を集めていることもまた、高市総理同様です。もちろんこんなことがまかりとおっている食べログの信用はすでに地に落ちています。さらには、こんなことがあちこちで起きるようになれば社会は崩壊してしまうでしょう。しかし、もしかしたらいまのような日本はいったん壊れてしまった方がいいのかもしれません。そのとき私たちは、本当の知性とはどういうものなのか、はじめて考えるようになるでしょう。
私はじいさんの心の声を聞く。
じいさんなんだもん、
おねだりはひとつ、
愛して欲しい。
ある意味で、私はこの破廉恥なじいさんを応援しています。
付録: 三輪車を漕ぎ夕闇の首都高を走るじいさんは、ネヴァーランドを目指す
青森県のどこかの街の、廃寺を改造したスーパー銭湯の、二十畳の畳敷きの宴会場のステージで、まばらな客が飲んだり喰ったりしている前で、老芸人が女装してマリリン・モンローの"Diamonds Are a Girl’s Best Friend"の歌のテープに合わせて歌うふりをする芸をやっている。
金髪のカツラをかぶり、皺くちゃの顔にドーランを塗って、ルージュを引いて、ブラジャーつけて、デコルテのピンクのドレスを身に着けて、歌うふりをするじいさん。ぼくにとってパコ崎ミャ子さん、というかじいさんは、そんな哀愁とビザールななにかを感じる。悪趣味の極みであることの不気味な輝きが、美の概念を動揺させる。
●
パコ崎ミャ子キャラも、最初の数年は成功しましたものね。みんな実在を信じ、ちやほやしてくれた。じいさんにとっては、あの時期の成功体験と幸福が忘れられない。だって、経済社会から卒業させられたじいさんが、今度はオン・ラインで若き才媛パコ崎ミャ子を演じて、ちやほやされたのだもの、じいさんは社会復帰できて得意満面、有頂天になった。
しかし、いったん中の人がじいさんだとバレた瞬間、大半の読者は逃げていった。読者は騙された自分の愚かさをなじる、忌々しい、おれはよぼよぼのじじいに騙されとったんか。他方、じいさんはなにかしないことにはパコ崎ミャ子ブランドは崩壊してしまうのだけれど、しかし、打つ手がない。もはや時間は巻き戻せない。あの頃には戻れない。
残された道は、新しく別のキャラを作ってそっちに乗り換えるか、はたまたネカマであることを前提にしたネカマ芸人としてパコ崎ミャ子を持ちネタとして生きること。でも、じいさんはどっちも嫌なんでしょ? じいさんは若き才媛、モデル級の美女・パコ崎ミャ子になりきっているから。
いやはや、じいさんがいまやっておられることは不可能への挑戦ですよ。レインボウカラーの三輪車を漕いで首都高速を走るようなもの。通り過ぎるクルマはみんなド派手な三輪車に跨ったよぼよぼのじいさんにクラクションを鳴らして通り抜けてゆく。バイカーが走り抜けるなか罵声をあびせる、なにやってんだ、ボケじじい!!! やがて夕闇が訪れ、ビルや電飾の灯りに混じって、東京タワーのライトが点きはじめる。じいさんの人生に残された時間はあとわずか。じいさんは三輪車を漕ぐ、日々刻々と老いへ向かい、行き着く先が耄碌、自我の溶解、そして死であることを自覚しながら。
読者であるぼくたちはすでに気づいている、いつのまにかパコ崎ミャ子さんの配偶者である身長190センチの歯科医は語られなくなった。ふたりのあいだにさずかったお嬢さんであり、ミャ子さんの偏食を心配する当時小学生設定だった子供もいつからか消えてしまった。例の自己宣伝のテーマ・ソングさえもお歌いにならなくなった。読者は懐かしむ、「あ、東大東大、立花隆も先輩よ、ルーリー三浦も先輩よ。あたしゃ院卒、フランス文学専攻よ、恩師は蓮實重彦大先生。あ、ときどきモデルもしています。おまけにあたしは現役パリッパリの物書きよ♡ あら、えっさっさ~」
もしかしたらそれはじいさんの耄碌のはじまりかもしれない。それともただ書くのがめんどくさくなったのかもしれない。もっとも、じいさんのお書きになるパコ崎ミャ子さんの世界は、あいかわらずとりとめがないものの、それでも文章からあからさまに耄碌が察せられるほどではない。じいさんにはまだ辛うじて理性らしきものが残っている。いまはまだ楽しめる。じいさんは必死でド派手な三輪車を漕ぎ続ける。
じいさんにとって、食べログはじいさんの唯一の社会との回路であり、パコ崎ミャ子を演じることだけが、じいさんの唯一の存在証明なのだ。じいさんは叫ぶ、なるほどわたしは味覚も嗅覚も失いつつある。醤油、油脂のまったり感、味醂や砂糖の甘味だけが辛うじてわたしの舌をよろこばせる。しかし、それがどうした、わたしはいま生きている。腹黒で人品の卑しいわたしのゴキブリ読者どもはいくらでも言えば良い、わたしが脳梗塞の既往歴を持つ胃婁で寝た切りのネカマじじいだとかなんとか。知るか、そんなこと。夢見ることを知らない俗物どもよ、聞くがいい。パコ崎ミャ子はわたしであり、わたしこそがパコ崎ミャ子なのだ。
だからこそ、じいさんは、三輪車を漕ぎ、夕闇の首都高を走る。夢想のなかで、食べログの小人気レヴュアー・パコ崎ミャ子はピーターパンさながらに夜空へ舞い上がる。かまびすしいクラクションのなかで、読者はみんな、じいさんを応援しています。がんばれ、じいさん。目指せ、ネヴァーランドを!
