小論文と作文の違いとは?小論文を書くときに、あなたの頭の中の「先生」を意識するな!【小論文キホンのキ⑤】
更新日:2026/01/11
小論文・作文指導者の〆野が普段の添削・採点指導で教えている、文章作成における基本事項を紹介するのが、このシリーズ【文章作成の基本】。
(〆野の自己紹介はこちらから見られます。)
小論文を書くとき、作文を書くときのような「生徒道徳」は必要ない!
小論文に垣間見られる作文的「文章態度」
この「小論文キホンのキ」シリーズでは小中学校で身につけた作文の癖から脱却して、高校生(大学受験生)が小論文を書くためのポイントをレクチャーしています。今回はその5回目、一応シリーズ最終回です。作文と小論文の違いを十分に理解していないために、小論文で今まで培った「作文的なふるまい」をとってしまい、結果として小論文としては適切ではない内容や展開になってしまうことがあります。それについて、それがどういう点で問題なのか、それはどう改善するべきなのか、についてここでは述べています。
今日も本題に入る前に、まずは次の文章を読んでみてください。
次の文章は、〆野が添削指導した小論文答案の「冒頭の書き出し部分(序論)」と「終わりの部分(結論)」をまとめたものです。【A】、【B】共に、「ある文章態度」が読みとれるのですが、それが何か、おわかりになるでしょうか。つまり、この二つの文章には共通した「小論文を書くに当たって、適切とは言えない態度やふるまい」が認められるのですが、それは何だと思いますか。
【A】
「日本人自体が、日本文化とは何かを改めて考える時期に来ているのだろう。」という課題文の筆者の意見を受けて、私は、日本文化とは「他国の人が気持ちよく観光することができるように配慮するおもてなしの文化」であると考える。
(中略)
私は日本文化というものを理解しているつもりだったが、課題文の筆者が指摘するように全く理解できていなかった。日本人である以上、私も日本文化を改めて考えていきたいと思った。
【B】
課題文から「快適性や利便性を追求するだけでは、持続可能な社会を構築することができない」ということがわかった。私も、課題文の筆者の主張に賛成だ。
(中略)
目先の生活の豊かさや便利さを追い求めることを優先するのではなく、自分たちの子孫もまた今の豊かな生活を同じように送れるように今の社会をデザインしていくことが大切であることがわかる。まずは自分の身の回りの生活のあり方から見直していきたい。
【A】も【B】も序論と結論は同じ内容であり、一応論旨は一貫しています。この点は一応どちらもできています。この小論文を通じて何が言いたいのかは、どちらもわかります。
【A】は、課題文の筆者が「日本人が日本文化を改めて考えるべきだ」という主張するのを受けて(筆者の意見に賛成して)、「おもてなしの文化が日本文化である」と自身の意見を提示しています。そして結論では、筆者の主張を踏まえて日本文化について日本人である自分も考えたところ、やはり筆者の主張の通り自分も日本文化を理解できていなかったとまとめています。ただし、最後の「日本人である以上、私も日本文化を改めて考えていきたいと思った。」は蛇足であり、これは以前別の記事で指摘した「作文しぐさ」です。しかし、「その前で結論が出ているのでこれはいらない」というのも問題ではありますが、今日は「ここが問題」というお話がメインではありません。
(小論文にいらない「作文しぐさ」)
【B】は、課題文から「快適性や利便性を追求するだけでは、持続可能な社会を構築することができない」ということが筆者の主張ということがわかり、その上でそれに賛成しています。そして結論では、課題文の筆者の主張と同じ立場から持続可能な社会の構築の必要性について述べています。ここでも、結論が出ているにもかかわらず最後に余計な一文「まずは自分の身の回りの生活のあり方から見直していきたい。」があり、これもいわゆる「作文しぐさ」です。
上掲の記事で「作文しぐさ」についてまとめました。今日のお話はこれに深く結びついた問題と言えるかもしれません。上掲記事では、「結論が出ているため最後の一文は論理的に考えて不要である」という点からその問題を指摘し、そのいらない余計な一文は作文(感想文・意見文)教育によって培われた「作文しぐさ」だろうという話をしました。しかし、今日は「その一文が問題」という表面的な話でなく、「小論文全体から読みとれる、その文章を書いている態度が適切ではない」という話です。この両者は強く関連づいたものですが、今日は「小論文はどういう態度で書くべきか」という内面の問題に焦点を置いて話していきます。
【A】を改めて見ると、全文を通じて言いたいことはわかるものの、特に結論部が「小論文としては微妙」ということがわかります。「おもてなしの文化が日本文化だ」と主張するのなら、その意見に対して適切な根拠を示した上で「したがって、おもてなしの文化こそが日本文化である」と結ぶべきです。それにもかかわらず、ここでは「(自分も課題文筆者が言うように)日本文化を理解できていなかった」という話で終わっており、これは厳密に言えば「小論文を書いてみてわかった気づき」、つまり「小論文を書いてみた感想」です。この点から、これは「小論文ではなく、小論文を書いてみたことに対する感想文」と言えます。つまり、「小論文における意見とは何か」がわかっておらず、「他者(読み手)を説得する」という態度で書けていないのです。「自分が日本文化をしっかり理解できていなかったこと」についての反省なんて、ここではいりません。むしろ、その自己の内面に向かう反省の念は、他者を説得しようとする姿勢を阻害するものです。
(小論文では、その構造上、あらかじめ自分の意見を立てておく必要がある)
(小論文とは他者を説得するための文章である。)
また【B】は、「わかった」や「わかる」という文末表現が少し気にかかります。課題文からこういうことが「わかった」は、課題文からこういうことが「読みとれた」ということとして読みとれます。この限りでは問題はありません。しかし、どうもこの「わかった」はそういうことを「知りました」、「理解しました」という意味で言っているようです。それが証拠に、結論でもこういうことが「わかる」と言っています。これは高校生の小論文なのでこういう表現になりますが、中学生の作文だとここはもっとダイレクトに「課題文でこういうことを『学びました』」となります。実はこれ、作文では「よく見かける表現」なのです。大人からすれば「この課題文ではじめてこんな社会問題があることを知りました!学びました!」と言ったら「他者を説得すること」なんてできないことはおろか「自分の意見の表明」にもならないことがわかりますが、中高生はわりと素直にこう表現します。本当に「素直に」。大人ならかりに知らなかったとしてもその課題文を読む前からそれこそ100万年前から知っていた体(てい)で小論文を書きますよね(笑)。中高生はそうしないんですよね。なぜなら、こうした言いぶりは「作文では素直な感想として評価される」からです。つまりこの「わかった」、「わかる」もまた「学んだ」と同じであり、だとしたらこれも【A】と同じく「小論文ではなく感想文」です。これは「わかったことの表明」に過ぎず「ただの感想」です。「この課題文で私はこういうことを学びました」ということを読み手に教えているだけの文章です。この小論文には自分の考えた意見はありません。この点から、こうした文末表現をとるこの小論文はあまり適切ではないと言えます。
(小論文の文章態度にふさわしくない文末表現)
しかし、これは単なる「わかる」、「わかった」という文末表現が悪いということだけの問題ではありません。つまり、【A】も【B】も「作文で学んだことをそのまま引きずり、小論文を書く態度やその書き方にシフトチェンジできていない」のです。これが一番の問題です。結果、どちらも「小論文ではなく感想文」になってしまっています。
以前、下の記事で指摘したように、「作文」と「小論文」は同じ文章でありながら、その「文章の内容や性質」、「そこで評価されること」、「そこで求められること」の違いからその間には若干の断絶があります。つまり、「作文でよいとされているもの」は小論文を書く上ではいったん捨ててもらう必要があるのです。「小論文は作文とは違うものなのだ」ということを強く自覚した上で、小論文の学習に臨んでもらう必要があるのです。
(文章教育における「作文」と「小論文」の断絶)
しかし、おそらく、これは多くの小論文学習者は「頭では理解できていること」なのだと思います。高校や塾・予備校で「小論文の書き方」を学んだとき、「作文とは違うな」ということはわかったはずです。にもかかわらず、「頭でそれを理解できていても、『文章はこう書くものだよね』と長年にわたり習慣化したものが文章を書く中でにじみ出てくる」のです。そして、それを払拭しない限りは、いくら「小論文の書き方」を学んでその通りに書いても「小論文を装った作文」にしかならないのです。
年間3000枚近くの作文や小論文の答案を添削し続けてきた上で私が出した結論がこれです。つまり「小論文を書くための身体や精神性を獲得すること」が大切だと言えます。小論文の「型」をなぞってただ書くだけでは評価される小論文にはなりません。一見小論文としてよくまとまっているように見えても、それは隠しきれない「作文のクセ」が垣間見られるような「小論文のようなもの」です。頭では「小論文はこう書くもの」とわかっているのかもしれませんが、長年培った「作文のクセ」はなかなか抜けません。そうした習慣化された作文の書き方や文章態度から意識的に脱却して、小論文の書き方や文章態度を新しく自分の体にインストールする必要があるのです。
今、私は「インストール」と言いました。コンピュータ関係に詳しいならわかると思いますが、新しくアプリをインストールしてそのアプリを起動するときに、そのアプリの起動を阻害するものというのがあることがあります。そのときには、その阻害する別のアプリをアンインストールしてから、新しいアプリをインストールします。実はあなたの中にも、「小論文を書くためのアプリ」をインストールしそれを起動しようとするとそれを阻害するアプリがあります。そのアプリとは何か、長い前置きになりましたが、これは今日の話の本題です。
「生徒道徳」のプログラムはデリート(消去)しよう
「『生徒道徳』って何?」とみなさん思われたでしょうが、これは私の造語です。「小論文アプリ」の起動を阻害するもの、それは過去に頭の中にインストールした「作文アプリ」にある「生徒道徳」というプログラムです。これが、「あなたに作文じみた小論文のようなものを書かせる正体」だと、私は思っています。
ニーチェという哲学者がいるんですが、この哲学者が作った言葉に「奴隷道徳」というのがあります。ニーチェは、この「奴隷道徳」が本来の人間の持つ能力の顕現を妨げるものだと考えました。奴隷は主人の価値観を否定しそれを「悪」と見なすことで自分を慰めている、そういう根底にある考え方を「奴隷道徳」と呼びました。簡単に言えば、「自分は本来的にこうしたい」というような考えの下で自己を成り立たせているのではなく、真っ向勝負では敵わない主人をときに憎みときに嫉妬し、そうやって意識することで自己を成立させているということです。
まあ、哲学の話はここでの本筋ではないのでこの辺にしますが、そういうことに倣って言えば、みなさんの作文的な文章態度はさしずめ「生徒道徳」と呼ぶことができるでしょう。【A】のように「自分の無知を素直に懺悔した」り、また【B】のように「自分が学んだことを正直に報告した」り……、なぜそのような文章になってしまうのでしょう。それは、過去にそういう態度が学校の先生に評価されたからではないでしょうか。「わからないことをわからないと素直に言う」、「『先生の授業を受けてこういうことを学びました』と口に出して伝える」、そのとき小学校や中学校の先生はそれを全面的に肯定してくれたはずです。そしてその態度を評価してくれたはずです。あなたの中にはそうした「実績」がある、だからそれが小論文を書くときにも出てきてしまうのではないでしょうか。つまり、あなたはあなた自身の評価を「先生が評価するかしないか」を通して行ってきたのであり、そうした評価につながるように「自分は生徒として先生の前でどうふるまうのが適切か」を考え、その行動や思考を決定してきたのではないでしょうか。言葉を選ばずに言えば「先生に媚びて先生から好評価を得ること」でそれを「自分の絶対的評価」とみなし、そうした評価につながる行動を選択してきたのではないでしょうか。「よくできました」と先生が赤ペンでコメントするような文章答案の書き方やそのコツを、あなたは先生の顔色を意識しながら小中学校で学んだのではないですか。
これは、いろいろな記事で言っていることですが、小論文は自分の意見を立てて、それを他者(読み手)に説得するものです。これはあなたの頭で考えあなた自身が行うことです。ここに、あなたの意見や考えをジャッジする「先生」はいません。もういい加減「あなたの頭の中にいる先生の反応をうかがう」ことはやめましょう。自分はまだ未熟な子ども、「生徒」だから……。その謙虚さは普段の生活の中で美徳ですが、小論文を書くには必要のない精神態度です。ですから、「課題文から学んだ」、「そんなことは知らなかった。学びたい」なんて言う必要はありません。たしかに課題文を書いたのは大学教授や評論家などの「立派な大人」かもしれませんが、小論文を書く上では、課題文の筆者もあなたも「対等な立場の一論者」です。課題文の筆者の主張に耳を傾け、「私ならこう考える」と気後れすることなく原稿用紙に向かって言ったらいいのです。「私は生徒だから……」と「生徒道徳」で自分を束縛する必要はありません。
大学に入れば、多くの大学教員がいます。その方々をたしかに「先生」と普段は呼ぶかもしれません。しかし、それら大学教員とあなたは「対等な立場の研究者」同士でもあります。かりにその大学教員と考えが異なったとして、そのときいくらあなたが年の若い、知識や技術、経験が少ない者であったとしても、その研究に真摯に向かって考えたことならば、大学教員に対して同じ研究者として「私はこう考える」と言うべきです。
大学受験はそうした大学の世界への入口であり、小論文試験などはその入口を通過するための「パスポート」です。小中学校の学びで身についた「生徒道徳」というプログラムは今こそ消去するべきです。本当に評価される小論文を書きたいなら、どう書くかという「書き方」以上にここにこだわってみるとよいでしょう。「書き方」自体は小論文の参考書を開けばすぐに学べます。しかし、内面の自己変革をできていなければ、つまり簡単に言えば「大人になっていなければ」、得点や評価につながる小論文は書くことができません。
まとめ ~作文とは違う!小論文を書くときは「生徒道徳」をいったん忘れよう!~
この記事をもって、「小論文キホンのキ」シリーズは最終回とさせていただきます。作文と小論文との違いに着目しながら、小論文を書くのに、どこに注意して、どのように考えたらよいか、全5回の記事でまとめてきました。
私は、日ごろ生徒さんに直接会わない「添削指導者」です。添削のコメントではなかなか書きつくせないことを受験生のみなさんにお伝えするために、私はこのnoteを始めました。そうした原点に返って、普段の指導では伝えにくい、いろいろなことをお伝えできたのではないかと思っています。
小論文の本当の難しさはこういうところにあるのではないかと、私は常々思っていました。文章作成技術は多く文章を書いて多く指導を受ければ誰でも身につけることができます。また、長い文章が書けなくてもたくさん書いていれば書けるようになるでしょう。しかし、「精神的に大人になること」、これは言うは易いがなかなか難しいですよね。
大学受験が終われば晴れて大学生。小学生は「児童」、中高生は「生徒」と呼ばれますが、大学生は「学生」と呼ばれます。つまり、もうすぐあなたは「生徒」ではなくなるのです。これから先のあなたには「生徒道徳」は必要ありません。「作文」から脱却して小論文を書くことは、「生徒道徳」の脱却に他ならないのです。
いいなと思ったら応援しよう!
「記事が参考になった!」と思われる方がいましたら、サポートしていただけると幸いです。いただいたサポートはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます! 