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漂流する高校国語~高校国語の明日はどっちだ?~

更新日:2026/05/18


鳴り物入りで作った「論理国語」と「文学国語」は早くも次で退場?

「2032年度以降に高校で実施予定の次期学習指導要領を巡り、文部科学省は11日、国語の再編案を、中央教育審議会(文科相の諮問機関)の専門部会に示した。22年度から始まった現行の指導要領で新設した「論理国語」「文学国語」などを廃止し、評論や小説など多様な題材で学べる科目構成に刷新する内容だ。」

(高校の国語科目、異例の短期再編へ…2022年度新設の「論理国語」「文学国語」を廃止【読売新聞】)

(高校国語、再び小説重視 AI時代に感性を 次期要領で文科省案【毎日新聞】)

 2022年度から登場した「論理国語」と「文学国語」などは、早くも次の学習指導要領(32年度)から退場する可能性が出てきました。上の読売新聞の記事でも伝えている通り、新科目を設置してすぐに次の学習指導要領でなくすというのは異例のことです。

 時代の変化に伴い教育はかたちを変えていきます。いや、変えなければなりません。ただし学習指導要領は大体10年ごとに変わるものです。ですから、教育施策はある程度「時代を後追いせざるを得ないもの」であることは否めません。しかし、Xである方もポストしていましたが、この急な手のひら返しを見ると文科省の教育施策があまりにも近視眼的であると言わざるを得ません。論理的思考が重要であるこれからの時代に合わせて、小説などの文芸的文章よりも評論文・論説文などの論理的文章を重視するかと思えば、次はAIの出現によって「これからは人間独自の感性を磨く必要がある」と再び文芸的文章の重要性を持ち出し科目を再編するというのは、はっきり言って文科省の「時代を読むセンス」を疑います。というか、時代の変化に振り回され過ぎて文科省は「国語という教科の本質」を忘れているのかとさえ思えてきます。ぶっちゃけ、迷走しています。

(AIに書けない、人間にしか書けない文章とは何かを考え、人間独自の感性を磨くこともたしかに大切です。)

 そもそも今回(現行の学習指導要領)の高校国語の科目構成については、論理的で実用的な文章をメインに扱うという意図が強く反映されたものでした。そのため、必修科目である「現代の国語」では論理的で実用的な文章(論説文や評論文など)を扱い、同じく必修科目である「言語文化」で小説(文芸的文章)や古典作品を扱います。そのうえで、選択科目として、論理的で実用的な文章を扱う「論理国語」、小説などの文芸的文章を扱う「文学国語」、スピーチや討論、文章作成の技法を扱う「国語表現」、古典作品を扱う「古典研究」が用意されています。

 しかし、こうなると現代の実用的な論理的文章に対する学習に偏り文芸的文章や古典作品を扱う機会が減るため「多様な国語学習や言語体験ができなくなる」との懸念から、主に現場から批判の声が上がっていました。なぜなら、文芸的文章と古典作品はまとめて「言語文化」として扱われるのみとなり、また「文学国語」は選択教科であるため生徒が主体的にそれを選びとるとは考えにくいからです。たとえば、大学受験における国語の試験内容を考えれば、小説などの文芸的文章は大学共通テストのみで扱われ、多くの私立の独自試験では扱われません。こうした状況下で、共通テストでしか国語の試験がない理系受験者や共通テストを受ける予定のない私立受験者が「文学国語」を積極的に選択することは、おおよそ考えにくいのです。実際現場でもこうした状況になっていると聞きますが、これはすぐさま予想のつくことだったはずです。いずれにしても、これは「高校国語からの事実上の小説などの文芸的文章の排除」であり、こうした「ないがしろにされる『文学国語』」については私も問題視して以前記事にしています。

(拙記事「文学国語をないがしろにするべきではない」明確な理由)

 私は一介の作文・小論文指導者です。ですから、大学受験対策として論理的な文章の作成を中高生に教える立場にあります。しかし、直接的な受験指導から距離を置いた高校での国語学習は多種多様な言語学習や体験が行える貴重な機会であり、だからこそ、私のような受験指導者は「安心して」大学受験に照準を絞った指導ができると考えています。つまり、高校国語で高校生の誰しもがいろいろな文章に広くふれることで大学受験対策の準備に必要な素養(基本的な語彙力や表現力、運用力など)が身に付くわけで、それがあるという前提に支えられて塾や予備校の大学受験対策が成り立っているのです。たとえば私はたしかに小論文指導者ですが、だからといって、ある高校生が推薦系選抜で小論文が課されていてそれ以外で国語関係が試験で課されないとしても、その高校生が文学作品を読む必要はなく実用的な論理的文章だけ読んでいればいいとは思いません。「文章を書く」という行動に求められる国語力とはそういうものではありません。大学受験で求められる国語力は「国語で学ぶことのある一面」に過ぎません。その生徒がこの日本語を母語として使って生活をしていく限り、本来必要とされる国語力は大学受験をも含むより広範なものを対象としているはずです。そうでないと一生をかけて養成される国語力がとても貧困なものとなってしまいます。『源氏物語』や『羅生門』などで読んだことが直接活かされるシーンは大学受験でも日常生活でもほとんどないかもしれませんが、それでも誰しも一度はふれておいた方が多様な日本語体験としてはよいのです。そして、「国語」はそうしたすそ野の広い総合的な教科だと言えます。

その前に文科省のプランはすでに机上の空論と化していた

 しかし、この話の前に、実は文科省の現行の学習指導要領に込めたプランは、いわば机上の空論と化していました。つまり、現行の学習指導要領に無理があることがもうすでに露呈していたのです。それは、去年の3月に出た次の記事でわかります。

("入る余地ない"小説、「現代の国語」半数に掲載 知恵絞った出版社 ※有料記事)

「2026年度から高校1年生が使う教科書の検定で、国語の科目「現代の国語」では小説を取り扱った教科書が相次いだ。文部科学省は学習指導要領の内容に照らし、この科目での小説掲載に厳しい視線を向けてきたが、申請された教科書のうち半数が小説を載せて合格した。」

 先にも説明しまたこの記事にもありますが、「現代の国語」では「評論文など論理的な文章や法令、契約書など実用的な文章」を扱うとされていました。小説などは「言語文化」で扱います。その中で、一部の教科書出版社は「もっと『定番の文芸作品』を扱いたい」という教育現場の声を受け入れ、「現代の国語」に小説を掲載しました。しかし、それが最初の検定に通ってしまいました。これに対し、学習指導要領にしっかり従った一部の出版社から非難の声が上がっていました。ただし、これを前例として、上でも引用したように「現代の国語」で小説を掲載した教科書が次第に増えていきました。そしてついに半数が小説を載せたまま検定を合格していきました。

 このニュースを見たとき、私は強い既視感を覚えました。そうです。「一部私立大学の入試内容の変更に合わせて総合型選抜がなし崩し的に意味合いを変えていった」ことです。2025年度入試で、東洋大学が年内に学力テストを行う「学校推薦入試 基礎学力テスト型」を実施したことで、学力試験を年内入試で行うことは「学力試験で合否を決めるのは翌年の一般選抜に限る」というルールを逸脱しているという指摘が文科省からなされました。それを受け東洋大学は、26年度入試からはこれを「総合型選抜」に変更し、「基礎学力テストと合わせて調査書などの提出書類やその他の評価方法を組み合わせる」という文科省に言われた条件を踏まえて実施したのです。しかし、これによって本来「総合的に人物を評価する」総合型選抜は「(学力試験以外の他の評価方法を組み合わせるという条件はあるものの)事実上の早期の学力試験」へとかたちを変えていったのです。これについては、下の拙記事でふれています。

(年内の学力試験に変貌した『総合型選抜』)

 今回のケースもこれによく似ています。要は、実際の教育現場や教科書出版社の声に押されて文科省は学習指導要領に盛り込まれたプランをなし崩し的に変えざるを得なくなったというわけです。そして、現行学習指導要領にある「文芸的文章の扱いを極力抑えて論理的文章を重要視する」という方向性が教科書検定を通じて有名無実化していったのです。今回の現行学習指導要領の小説軽視の考えを捨てて次期学習指導要領で高校国語の科目を再々編するという流れは、こうした出来事の延長線上からも考えることができます。

時代に拠らない国語という教科の本質~国語は「国語」を超えた総合的な教科である~

 私は、ここで国語という教科の性質を改めて考えるべきだと思いました。前述した通り、たしかに時代の要請によって教育は変わるべきだと思います。時代の流れと合わない教育は生徒にとっては百害あって一利なしです。しかし、「時代に関係なく本来的に国語とはどういう教科であるべきなのか」、文科省はもとより大人たちは考えるべきなのではないかと思っています。

 或(ある)春の日暮です。
 唐(とう)の都洛陽(らくよう)の西の門の下に、ぼんやり空を仰いでいる、一人の若者がありました。
 若者は名を杜子春といって、元は金持の息子でしたが、今は財産を費(つか)い尽して、その日の暮しにも困る位、憐(あわれ)な身分になっているのです。
 何しろその頃洛陽といえば、天下に並ぶもののない、繁昌(はんじょう)を極(きわ)めた都ですから、往来にはまだしっきりなく、人や車が通っていました。門一ぱいに当っている、油のような夕日の光の中に、老人のかぶった紗(しゃ)の帽子や、土耳古(トルコ)の女の金の耳環(みみわ)や、白馬(しろうま)に飾った色糸の手綱(たづな)が、絶えず流れて行く容子(ようす)は、まるで画のような美しさです。

芥川龍之介『杜子春』

 これは芥川龍之介の『杜子春』の冒頭部ですが、この文章を理解するのにどういった知識や力が必要でしょうか。まずかなや漢字といった表記と仮名遣いについて知っている必要があります。また表現や語彙について知っておく必要もあります。さらに文法に依拠して文構成や文章展開を理解する必要もあるでしょう。しかし、いわばこうした「国語についての基本知識」だけがあれば読めるかというとそうではありません。たとえば、唐が、当時の日本が遣唐使を送って学ぶほどの、世界の中にあってとても隆盛を極めた中国大陸にあった大王朝であったことやその都の洛陽がシルクロードの終着地に位置した大国際都市であったことも知らないと、この文章を読むことができません。どうしてそこにトルコの人がいるのか、これらを知らないと理解することはできないでしょう。こうした地理や歴史・文化にかかわる知識もここでは必要です。つまり、ただ文字が読めて日本語の文法がわかるだけでは文章は読めないのです。

 これは書くことにおいても同じです。たとえば志望理由書を書くのに表記や表現、文や段落の構成についてなど日本語文章の運用や作成の基本知識があればいいのかというとそうではありません。現在の自分の興味や関心などを理解しておくことやそこを起点として自分の将来像を具体化することといった「自分に対する理解」や自分が志望する大学や専門学校に対する学びについての理解といった「志望先に対する理解・知識」が必要です。小論文を書くことも同じです。ただ課題文の内容を理解して意味の通る日本語の文章が書けるほどの「国語力」があればいいわけではありません。たとえばそれが国際紛争をテーマとしている課題文ならば、それを読んで理解してそれについて小論文を書くためには実際世界でどのような国際紛争があってそれがどういった政治的・歴史的・経済的背景から生じているのかといった世界史や国際政治・経済の知識や理解が必要でしょう。

 一般的に国語では、「読むこと」、「書くこと」、「聞くこと」、「話すこと」を学ぶとされます。しかし、私たちが実際にそれらを行うことを想定すると、それはいわゆる「国語」の枠にとどまらないより多くの経験や知識を総動員している行動であることがわかります。つまり、語弊を恐れずに言えば、国語という教科が教える対象としているものは「国語」だけにとどまらないということです。こうした総合性や雑食性、これこそが国語という教科の本質だと私は思います。一つの文章を作成したり理解したりするのに、日本語運用能力や基本知識はもとより私たちは今までの人生の中で得たその文章に関連するおびただしい量の知識や自己体験をフルに活用します。それらの有機的な結びつけを適切に行って、読んだり書いたり聞いたり話したりを正しくできることを国語という教科は学習目標としているはずです。

 ですから、「これからはディベートや小論文作成が大学受験で求められるから論理的な文章が読めることが大切だ」とか「これからはAIが一般化するので人間が人間独自の感性を養うために文芸的な文章を読むべきだ」とかは、その総合的で雑食性のある国語という教科のほんの一面の話に過ぎません。ある一面ではそれらは真理ですが、そのどちらかが正しいというものではないと思います。中高生の時分には少なからず、小説も評論文も、現代文も古文も漢文も、食事と同じで好き嫌いなく均等に摂取することがバランスのいい国語力を醸成するのには最も大切なのではないかと私は考えています。高校国語の科目編成や構成についても、こうした国語という教科の持つ本質を忘れないでいただきたいと文科省の方々にはお願いしたいですね。

(引用資料)

読売新聞

毎日新聞

青空文庫



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