【煉獄のパールライト】03.現在地の想像と妄想
周囲を探してみると、同じバスに乗っていた数人を見つけることができた。しかし、どうしてこんなところにいるのか、知る者はいなかった。
通勤時間帯のバスだったこともあり、誰もが早く部屋から出たいと思っているようだった。サラリーマン風の中年男性が、ひとり怒鳴り声を上げていた。
「会社に間に合わないじゃないか。責任者はどこだ」
だが、その男がいくら訴えかけても、答える者はいない。
「都筑さん、今何時かわかりますか? 私のスマホ、時間がおかしくて……」
スマホを覗いた結衣香が、困惑した表情でそう言った。彼女のスマホも浩輔と同じように、時計が0時で止まっているらしい。
「俺のもだよ。まさか、全員同じ症状ってことないよな」
おかしな状況に、浩輔は眉をひそめた。
電波が届かないのはわかるとして、どうすれば全員の時計がリセットされてしまうのだろうか。誰かに細工されたなど、考えたくはなかった。
「アナログ時計も、止まってて……」
そう言って、結衣香が左腕を差し出した。彼女の時計の針は、きっかり0時を指して止まっている。浩輔と結衣香は、目を合わせて途方に暮れた。
地味に、理解を超える出来事が続いていた。まだ身の危険を感じることはないが、気味の悪さは拭えなかった。
浩輔たちは、人が集まっている場所を通りつつ、部屋全体をぐるりと回り終えた。しかし、みことの母親は見つからなかった。バスに乗っていた全員が、この部屋にいるわけではないらしい。
「大丈夫だよ。ママが見つかるまで、一緒にいようね」
結衣香がみことを元気づけようとするが、少女は不安なそぶりも見せずにうなずいた。子どもらしからぬ落ち着いた態度に、浩輔はなんとなく違和感を覚えていた。しかし、それを言語化することは難しかった。
「とりあえず、僕らも出口を探してみようか」
浩輔はそう言って、近くの壁を指さす。結衣香たちを促し、そちらに向かって歩き始めた。
そう提案したものの、浩輔はすぐに出口が見つかるとは思えなかった。ずいぶん前から、人々が出口を探し回っているのだが、見つかった様子がないのだ。
中には隠し扉でも探しているのか、壁の端から端まで、コツコツと叩きながら進んでいる者もいた。
浩輔は歩きながら、建物の天井を見上げた。屋根の骨格や照明などの器具もなく、床と同じく平面が端から端まで続いていた。部屋全体が昼間のように明るいが、天井自体が発光しているのかもしれない。技術的には可能かもしれないが、どんなに新しく立派な施設でも、そんな照明は見たことがなかった。
「いったい、これは何の建物なんだろう」
浩輔が広い室内を見回してつぶやくと、結衣香がおどけた表情で言った。
「テレビのセットですかね。実は隠し撮りされてるのかも!」
彼女の言いたいことも、分からなくはない。普通の建物としては、この部屋はあまりに異質すぎるのだ。
「ドッキリにしては、手が込みすぎだよ」
これだけの規模とコストで、番組を作るのは難しい気がする。ましてや、了承なく一般人を巻き込むなど、許されることではないはずだ。
「実は、悪の組織に誘拐されたとか。私たち人体実験されちゃうのかも?」
結衣香が男児向けヒーロー番組のような冗談を言うので、浩輔は思わず吹き出しそうになった。そう来るならと、浩輔は似たようなネタを被せて返した。
「違うな、この部屋は酔狂な金持ちが作ったんだよ。これからそいつと、命を賭けたギャンブルが始まるのさ」
陳腐な設定のネタに、ふたりは顔を見合わせて苦笑した。
「みことちゃんは、どう思う?」
結衣香がみことに話を振ると、少女は少し考えてから答えた。
「ノアの方舟」
「はこぶね?」
「……世界が洪水で沈むの。ノアの方舟という大きな船に乗れた人だけが、助かることができるの」
神話を基にした博識な答えに、浩輔たちは驚いた。この子は聖書がテーマの絵本でも、読んだことがあるのだろうか。
「みことちゃん、いろんなこと知ってるんだね……」
結衣香がみことを褒めながら、さらに話を広げた。
「神話じゃないけど、宇宙船と言われたら説得力あるかも。窓もないし、外が宇宙と言われたら信じちゃいそう」
結衣香は天井を見ながら、思わずそう呟いた。
「ノアの方舟か……」
浩輔はそう言いつつ、また別の可能性に思いを巡らせていた。
「ここは核シェルターで、事前に救助された人々が集められた。時計の時間がおかしいのは、爆発の電磁パルスの影響だから……とか」
浩輔の言葉に、結衣香が息を呑むのがわかった。それなりに説得力がある例だと感じたのだろうか。思考が悪い方に流れていたからか、結衣香は気分を変えるべく明るく言った。
「もうやめましょう……そのうち理由はわかりますよ!」
「そうだね」
浩輔は努めて明るい声で答えた。
彼女も心の中では不安だったので、冗談を言って明るく振る舞っていたのかもしれない。たとえ可能性の話だとしても、不安を煽るような例えをしてしまったことを、浩輔は後悔していた。
そうこうしているうちに、目指していた壁際に到着した。
浩輔は目の前の壁に、そっと手を触れてみた。コンクリートでもプラスチックでもない、なめらかで手触りのいい、不思議な感触だった。
浩輔はこの建物に、ずっと違和感を覚えていた。用途が全く想像できないのに加え、かすかな傷や汚れひとつない。きれいすぎて、建物に現実感がないのだ。
結衣香が隣で、壁を軽くノックしていた。
「変な建物ですよね。新築よりも、新しいというか……」
彼女も、同じような違和感を覚えているようだった。
浩輔はふと、足元の壁に視線を落とした。膝をついて凝視すると、床と壁が接している部分が、定規で引いた線のように、わずかな歪みもなく伸びていた。それを見て、浩輔の中の違和感が確信へと変わった。
「完璧すぎるんだ……」
「どうしたんですか?」
かすかなつぶやきに反応した結衣香に、浩輔は先ほど見ていた床と壁の境目を指さした。
「どんな建物でも、壁の接地面には多少の隙間や歪みができるはずだ。けれど、この建物は、無意味なほどに正確だ」
「仕事が、すごく丁寧ってことですか?」
結衣香には、そのすごさがいまいち伝わっていないようだった。
「こんな精度で建物を作る必要はないはずだ。倍どころではないコストが、かかるはず……」
浩輔は改めて、部屋全体を見回した。
「これだけ大きな建築物なのに、柱が一本もない。これを建てるのは、今の技術では無理なのかもしれない……」
浩輔が言いたいことをやっと理解したのか、結衣香は息を呑んだ。
「それって……」
「さっきの説だと、宇宙船というのが一番可能性高いのかも」
浩輔は、天を仰ぎながらそう答えた。
