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確信を持って言えること、いくつ持っていますか?

「断言します」などと言ってしまうのは「自分の無知を自覚していません」という自白みたいなものです。一方で、私たちが「疑いようもなく」言い切らなければならない別の何かというのも確かに存在しています。それは何で、無知による断言とどう違うのでしょう?


誤った自信と適切な自信

今回のお話は、先月書いた記事「あなたが何にも満足できない理由」の続編的なものです。

前回、私はこんなことを書きました。「幸せとは何か」という文章に対して、「それって誰を主語にしてるの?」ということを指摘した流れです。

ここまでに得られた学びを一度要約すると、それは「他人の話ではなく、自分はどう生きたら幸せなのかを考えよう」ということになります。

こうした提案に「普通すぎる」「もっと斬新な答えはないのか」と感じる人も相当数いることでしょう。しかし、いったいそのうちの何パーセントの人が「他人の答えは自分のものではない」と確信を持って言えるような生き方をしているでしょうか。あるいは、「説明されただけの答えには大した意味はない」ということをはっきりと認識しているのでしょうか。彼らは自信のある人間に見えますか? 虚勢や虚栄ではなく、ちゃんと自分の足で立っているでしょうか?

あなたが何にも満足できない理由」(2026.1.17)

これに似た話として、私は去年、生成AI出力の文章をまるごとnoteに載せてしまう人への違和感を指摘した話を書いています。

AIというのは物事を簡単に断言してしまうのですが、そこに断言してよいだけの確認が行われているわけでは全然ないし、「○○なのです」「○○することが大切です」といった言い回しがありながら、「その発言に責任を持っている主体がどこにもいない」ということが大変に気持ち悪く感じられる…という話でしたね。

別の言い方をすると、「ミネラルの不足は貧血を引き起こします」というのは事実の記述ですが、一般に「○○が大切です」「○○しましょう」という表現は意見の主張であり、実在する発言者の名前や顔と紐付かない意見の主張というのは、基本的に「読むに値しないもの」なんです。

そこで、ふと思ったのですが、みなさんは「自分は確信を持ってこう言える」ということをいくつ持っていますか?

私は元々が技術者なので、事実と推測を分けることや、事実と感想を分けること、それから「わかっていないこと」を正しく「わかっていない」と認識することの大切さというのは知っています。そして、この社会とか人の心っていうのはものすごく複雑なので、そこに対して「はっきりとしたことは何も言えない」というのは、ほとんどの場合に正しい認識になるはずです。

その分野でのきちんとした専門家であるほど、そもそもの事実関係を間違いなく確認することの難しさや、細かな例外ケースの存在、避けられないデメリットやトレードオフ(例:コストを下げれば当たり前に品質も下がる)といった要素たちを正しく認識しているので、当の問題が事実としてどうなっており、どういう対策がベストなのかということも、やはり「すぐには断言できない」となることが多いわけです。

反対に、詐欺師っぽい人は物事を簡単に断言してしまうし、神様でもなければ現実には叶えられないような何かを簡単に約束してしまったりします。インターネットにはそういう人がいっぱいいますね。

ところが、さっき問いかけた「確信を持って言えること」というのは、そういういいかげんな断言とはタイプの異なる話なんです。

外側の現実と内側の現実

私が自分の書籍やnoteに頻繁に書いていることとして、「主観と客観」という視点があります。

この世には客観的な事実や客観的な価値のほかに、主観的な正しさや主観的な意味、主観的な世界観といったものが存在しています。別にそれはスピリチュアルめいた非現実的なものを想像しているんじゃなくて、単に「何に対して深い意味や真実味を感じるのかは人それぞれだ」という常識的な話を言い換えただけなんですよね。

この点で、よく言われる「主観的なのはよくない、客観的でなければならない」ということが正解になる場面というのはかなり限定的です。本当の問題は「客観的に扱うべき問題を主観的に扱うこと」や「主観的に扱うべき問題を客観的に扱おうとしてしまうこと」の中にあって、実際には「客観的でなければならない」というのも話題と状況次第なのだということです。

たとえばの話、おにぎりにチョコレートを入れたらきっと驚くほど不味いと思いますが、それはチョコレートが悪いわけではありません。チョコが不味いのではなく、まずいのはその組み合わせです。そうであるにも関わらず、主観的であるということはそれ単体で「悪いこと」だと誤って解釈されてしまっているケースが少なくありません。

仕事中に出会うあれこれは大抵が客観的に扱うべき問題なので、ここで客観性を重視することは何も間違っていません。反対に、あなた自身が「どうなったら幸せなのか」と考えるとき、その大部分は主観的に扱うべき課題で成り立っています。これも「世間が何を評価するかではなく、自分がそうしたいと感じる生き方をしよう」ということで、特に変わった発想でもないでしょう。この点は前回書いたお話でも強調したことでした。

仮にあなたが何かの商売で成功したいなら、さまざまな点で客観的な思考は必要なはずで、「こうすれば絶対にバカ売れするはずだ」という個人の主観が現実を書き換えてくれることはありません。反対に、自分が幸せになりたいのなら、商売における客観的な成功はそこまで重要なものとはならないかもしれません。幸せは主観的なものだからです。

つまり、客観的な領域に主観を持ち込んでもうまく機能してくれないし、主観的な領域に客観を持ち込んでも同様に機能してくれないのだということです。これを混同して、場違いな扱いをしまうことが問題になっているわけです。

疑いがあるとき、人って幸せでいられるのか?

そこで、冒頭で投げかけた「確信を持って言えることがいくつありますか」というのは、主に主観という領域の話になります。別の訊き方をしてみましょう。

あなたは「自分にとってこれはかけがえのないものだ」「このように生きることには価値がある」と確信を持って言えることをいくつ持っているでしょうか?

さきほど書いたように、幸せや生きがい、やりがいのある仕事、理想的な生き方というのはいずれも主観的なもので、あなたにとってのそれは他人にとってのそれとは異なります。みんなが同じ「幸せになりたい」という目標を立てたとしても、ゴールの方角はそれぞれに違っているということです。

今の問いかけの「かけがえのないもの」「価値あるもの」というのは、自分にとっての目的地であり、この質問は「その行き先がどっちにあるのかを自覚していますか」と尋ねているんですね。目的が東京駅にあるなら、東京方面の電車に乗ればいいだけですが、自分がどこに行きたいのかすらわかっていないのなら、その辺でうろうろすることしかできないでしょう。

おかしなことに、人々は本来断言してはならないはずの外の世界の物事を簡単に決めつけてしまうわりに、自分の内側で「疑いようもないもの」になっていなければならないはずのそれについては、自信とか確信と呼べるような感覚はほとんど持っていないようにも見受けられます。

まともな専門家が安易な断言を避けるように、他人の心や社会のあり方といった外部の物事に対する確信というのは、大抵は「悪い意味での自信」に当たります。こうした誤った自信は無用のものなので、自分の中にそれがあるならば早めに捨てておく必要があるし、他人の中にそれを見つけたときには「自信なさげな人よりも信用できないな」と思っておく必要があるでしょう。

他人の心を「わかる」と思っていたり、特定の政治的イデオロギーの正しさを信じて疑わない人というのは周囲の人々にとって相当に迷惑な人間になりうるもので、こうした物事に関しては「確信してはダメ」なんです。客観的には、何も確信してはダメです。

一方で、主観的な価値の感覚というのは、おそらく「確信と呼べるレベルにまで持って行かなければダメ」だと思うんですよね。なぜかというと、他人についていいかげんな決めつけや押しつけを行いたがる人間が多いように、個人が持つ価値の感覚というのは、世間からの有形無形の圧力によって簡単に凹まされてしまうものだからです。

確かに、自分の感覚に自信を持つというのは容易ではないことです。主観的であるということは、客観的な事実を無視するという意味ではないので、自分の心が「実際に」そのように感じていないのならば、それは主観的にそうだということも言えません。

つまり、自信の「信」の字というのは現実逃避としての自己暗示や自己催眠ではなく、「確認された事実を疑わない」という意味になっている必要があります。あなたはそのような生き方を実際に試みて、それを貫けないかもしれない困難な現実に直面して、「それでも自分はこれを捨てることはできない」という主観的な事実を確認しておく必要があるのだということです。

こうした困難というのは頼まなくても勝手に降ってくるのが世の常なので、わざわざ試そうとしなくてもいずれは試されるでしょう。たぶん、この世は元からそのようにできています。

「大切にする」とは労力を割くこと

生き方の問題というのは、ある意味では「生活の問題」でしかないとも言えます。生活とは仕事であり、日々の人間関係であり、その他のあらゆる面倒ごとのすべてのことです。

「自分のいちばん好きなことでプロになって暮らす」という最高に理想的なケースではないにしても、社会や他者との日常的な関わりの中で「自分が自分であることを貫く」というのはそれなりに困難なことです。やりたいことや叶えたいことはたくさんあるのに、時間は足りないし、体力も足りませんね。お金も足りません。

何かを「大切にする」というのは、それでもそこに貴重なリソースを割くということを意味しています。人間関係の中でも、単に「大切に思う」ということが「実際に大切にしていく」の代替物になることはありませんね。言葉にしていないことは伝わってないし、現実にやっていないことは現実になっていません。何かを大切にするなら、それに苦労させられるということは避けられません。

実際にやってみれば、当初の理想が疑わしくなるとか、本気で立てたつもりの目標に対して「そこまで頑張れなかった」という結果が出ることもあるでしょう。これもやはり事実の一種であって、主観性を重視するというのは「美化された思い込みを信じる」という意味ではありません。

事実としてそれが「そこまでのものではなかった」としたら、あなたにとって本当に大切なものはおそらく別にあるのでしょう。だとしたら、私たちはあくまでそれを探すべきなのではないでしょうか。

十年後のことはわからないとしても、百年後には必ず死んでいるであろう私たちは、そこに「疑いの影すら差さないもの」を見出すことなく死んでゆく未来をよしとするのでしょうか? 他の誰かの話ではなく、あなた自身はそれに納得できますか?

自分の言葉でそれを宣言しようよ

「自信過剰」という言葉が悪い意味での自信を指すように、「主観的」ということも通常は悪い意味で使われています。

ところが、過去のnoteでも繰り返し書いてきたとおり、あなたの人生の意味というのはあなた自身の主観の中にしか存在しません。主観的であることができないのなら、あなたは「幸せだ」とか「自分が頑張ってきたことには意味があった」という感覚を手にすることは決してできません。

もう一度言いますが、客観的な物事について語るとき、「断言します」というのは単なる無知と愚かさの表れです。そう言ってよいだけの客観的な根拠を個別に示せない限り、何も断言してはなりません。しかし、あなた自身がこの世界の何に価値を感じていて、どのように生きたいのかという点に関して言えば、それは確信を持ってそのように宣言される必要があるでしょう。

私は「このように考えよう」とか「これこそが人生の意味です」ということは何も言っていません。答えはあなた自身の中にあるのであって、私の意見や思想の中にあるのではないからです。誰もそのような仕事を代行してはくれません。自分でやらないと意味がないんです。

あなたの人生は最初からあなたのものであり、そこに間に合わせの借り物を詰め込んで満足してしまうほど、私たちは薄っぺらな人間ではなかったはずです。

関連書籍

今回のテーマは去年の3月に出した本で扱ったものですが、これだけ分厚い本にしたのに(※420ページ)まだまだ書くべきことが残っているのだな…ということに自分でも驚いています。よかったら書籍のほうもどうぞ〜。

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