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自己肯定とトートロジー - 自分に自信を持つためには、本当は何が必要なのか

「自分に自信を持って、前向きに生きていけるようになりたい」と望むとき、絶対に外してはいけないポイントについての話です。


「幸せになる方法」をロジカルに考えるとどうなってしまうのか

今回の記事では「自己肯定感」と呼ばれるものについて考えてみます。先日出版した書籍「人生の意味のつくり方」のおまけ的な話で、まあ半分はこの書籍の内容のご紹介みたいなものなのですが……。

書籍タイトルのとおり、この本では「自分の人生を意味深くしていくにはどうしたらいいのか」というテーマについて考えています。もう少し日常的な表現にしてみれば、「どうにも幸せな感じがしないので、もっと幸せになりたい」とか、「自分に自信が持てない、あまりクヨクヨせずに前向きに生きられるようになりたい」といったニーズに対応するものでもあります。

この本の要点をものすごく簡単に述べると、人が「意味がある」とか「ない」とか言うのはすべて主観の話であって、これは客観的な根拠や理由に支えられるものではないので、私たちが「幸せだ」とか「自分の人生には意味がある」と感じるようになりたいのなら、自分自身の主観に徹底して生きる必要がありますよ、というのが主要なメッセージになります。

面白いことに、「生きる意味というのは主観的な感覚の話だよね」という点をロジカルに考えていけば、それはそもそも他人の持ってきた理論や説得の力でどうこうできるものではないというのが論理的な帰結になるわけです。もちろん、これは客観性とか合理性と呼べるような視点を何もかも無視するという意味ではありません。常識的な意味での「妥当な範囲」というのは確かにあるので、「お金や仕事や人間関係にまったく恵まれなくても幸せになれる」などと主張したいわけではないです。

本書の重要な論点は「そうしたわかりやすい成功にまつわる諸要素は、幸せの根拠になるとか、必須条件になっているわけでは全然ない」という点にあります。逆に、人生の豊かさに客観的な物差しと根拠を求めれば、それはおそらく失敗します。単純なお金儲けでもそうだし、人から評価される・認められる・有名になるといったことでもそうです。空虚感や満たされなさというのは、そもそもが主観の領域に置かれている心理的課題なので、外部からの物量でそれを埋めることは原理的にできないからです。

「貧血になると氷がやたらと食べたくなる」という話を聞いたことがあります。実際に子どもの貧血がそれで発見されたりするそうですが、氷を摂取することで貧血が治るということはもちろんありません。欲求と問題解決が一致していない、人体のバグのようなものです。

人が「幸せになりたい」「自分に自信を持てるようになりたい」と切望するときにも、やはり同じような間違いへと向かってしまうことがあります。その根拠を外部に求めてしまうのです。

自己肯定感の唯一の源泉

さて、今回は自己肯定の話でしたね。

書籍「人生の意味のつくり方」では、特に哲学めいた抽象的議論をしたいわけではなく、読んだ人が現実に幸せを掴んでいくための助けになることを目指しています。ただ、人の幸せというものを真面目に考え出すと、スッキリと割り切った話だけで進めるということはどうしてもできなくて、ときには禅問答のような行き詰まりに直面させられることがあります。

たとえば、幸せになりたいのなら「今の自分のままでも大丈夫だ」と思えたほうがよさそうですが、これはちょうど「自己肯定感を持っている」という状態のことです。では、そう思えるようになるためには、いったい何が必要になるのでしょうか?

この点は書籍全体の流れを説明した第一章で考えているので、少し引用してみます。

(……)次に出した用語は、自己肯定感と呼ばれるものでした。意味の感覚なしに幸せになるということが考えにくいように、自分という人間のことがあまり好きではない状態で幸せだというのも、やはり難しいでしょう。「人からどう評価されようとも、自分はこのような人間でいい」「このままの自分にはちゃんと価値がある」という感覚は、自分自身を幸せにしていく上ではほとんど必須となるはずです。

 自己を根拠とできないのなら、主観性の問題であるところの自己肯定や人生の肯定がどうして可能なのでしょう? これは「自分を肯定するためには、自分を肯定できている必要がある」という、ほとんどトートロジー(同語反復)と呼ぶしかないような主張です。しかし、人生の意味付けという仕事をやり抜くためには、こうした論理的な扱いを拒否するような構造を避けることはできません。ひとまず、この自己肯定というものが将来の達成目標であると同時に、人生の探究と実践を推し進めるために必要な装備品でもあるという、前後の矛盾したような感覚を理解しておくことが必要になります。

「第一章:最初に捨てておくべきもの」より

さあ、いきなりこれです。「自分を肯定できないのなら、自分を肯定することはできないよね」と言っています。ここで、「誰にも理解できない哲学もどきの議論で悦に入りたいわけではない」ということはさっき言ったばかりなので、これは結局どういうことなのか、詳しい説明が求められそうです。

書籍の内容としては、そちらはそちらで最後まできちんと考えを進めているので、今回の記事では少し別の視点から考えてみたいと思います。

説明になっているもの、なっていないもの

トートロジーもしくは同語反復というのは、基本的には「説明として成り立ってない」といった指摘のために使われる言葉です。

例として、どこかの市議会のような場で「こんなにバカ高いコストがかかっているのに、なぜその政策を続けることが大切なのか」という責任追及があって、「それが市民にとって何より大切だからだ」と返すような答弁が行われていたとしたら、これはあまり意味のない同語反復だと言えます。この場合は「大切だから大切」と言っているだけで、「なぜ」に対しての説明になっていないからです。

ところが、言葉の表現としては同じような単語が反復しているとしても、よくよく聞いてみればきちんと理由が存在しているというケースもあります。 たとえばの話、普通の安定した会社員とはだいぶ違う、一芸で食っていくような変わった職業の道に進もうとする人がいたとして、「どうしてそんな仕事がやりたいの?」という問いかけに「どうしてもやりたいからだ」と答えてきたとしましょう。

一見すると、これは同語反復に見えますね。しかし、もう少し詳しく言語化してもらえば「自分は昔から、損得勘定よりも好奇心や熱意で動くタイプなのだ」とか、「そういう気持ちを大事にしたいから、いくらか安定性を犠牲にしてリスクを取ることも許容したい」といった説明が出てくるかもしれません。これは自己の変えがたい性分や価値観のさじ加減を考慮した上で決断しているということになるので、理由つきの説明としてちゃんと成り立っています。

これと同様に「自己を肯定するためには、自己を肯定できている必要がある」という同語反復も、言葉を少し変えれば、ちゃんと意味の通った文章になります。この点が明確になるよう、実際に言い換えてみましょう。すると、次のようになります。

『自己を肯定するためには、他人の評価や客観的な物差しを根拠として求めたがらないような心の習慣を身につけられている必要がある』

これは意味がないどころか、自己肯定というわかりにくい話題の中心に何があるのかということを明らかにした、核心的な指摘になります。行動指針として言い換えれば「それを外部に求めるな」という表現になるわけですが、この指針が何よりも重要なんです。それこそが根本的な自己肯定に至るための唯一の道だからです。

微妙なポイントを今一度確認しておきますが、「会社での仕事を一人前に、立派にやれる」というタイプの自信も、それはそれで大切です。「自分がそれでいいと思えているから」という肯定の感覚が、実社会での行動をまったく伴わずに、頭の中だけで構築できると言いたいわけではありません。しかし、その行動結果や能力的な優秀さ自体が「根拠」になるわけではないというのがポイントなのです。

「立派な仕事で評価されているから、自分という人間は立派だ」ではいけないのです。そうした「自分は○○だからこれでよい」の「○○だから」という条件が外れたときこそ、本当の自己肯定(=絶対的な自己肯定)と呼べるような状態になります。

逆にそれがなければ、心身をすり減らして昼夜のすべてを仕事に捧げたところで、そうした人生上の選択への最終的な満足や納得といった感覚は起こらないことでしょう。

結局、どうすればいいのかな?

「条件を外す」というのが答えになったので、「じゃあ具体的にどうすればいいんだ」という声がすぐさま飛んできそうですね。実際、それは説明するにはだいぶ難しい話で、そのために私は書籍一冊分の解説を書いたわけです。(めちゃくちゃ大変だったよ! 400ページオーバーの本になったよ!!)

ひとつ重要なヒントになりそうなのは、さきほど出てきた「外部に根拠を求めない」という指摘の「……ような心の習慣を身につけられている必要がある」の部分です。この「習慣」と「身につく」という言葉には、注目する価値があります。順番に見てみましょう。

まず、心というものには、習慣の轍(わだち)が存在します。轍とは車輪の跡のことで、アスファルト舗装されていない道路では人のよく通る部分が少しくぼんでいたり、芝生がハゲていたりすることがありますね。これが「ついついそちらに流れてしまう」というような流れを生んで、結果が原因を作り出すようなループになったりもします。

すぐにイメージしてもらえると思いますが、この轍は「抜け出すとき」にいちばんエネルギーを要求してきます。そこでひと頑張りできなければ、その後もずっとそのままになるでしょう。私が今回書いた本で伝えようとしていることには、「いっちょ頑張ってみようか」という気持ちを読者に出してもらうための、単純な後押しと勇気づけのメッセージも含まれます。気持ち次第でなんでもどうにかなるわけではありませんが、とりあえず頑張ることが必要だという点は間違いありません。

さらに、轍すなわち習慣を変えられるかという点に関わってくるのが、もうひとつのポイントである「身につける」という表現です。自分の人生を豊かにしていくというのは、スポーツのトレーニングにも似た部分があります。各個人がそれぞれの性質と向き合った上で、完全に個人的にやり抜くしかありません。チームで行うスポーツだとしても、自分の身体を鍛え上げられるのは自分だけです。

これは「安直な自己啓発本や成功本だとかを読んだだけで人生が変わるはずがないよね」ということで、それも覚えておいたほうがいいですが、もっと重要な観点があります。それは「幸せに生きていくための能力は、学びと実践を繰り返すことで向上できる」という点です。

あくまで「自分が頑張る」がメインになるというのはしょうがないのですけど、一応、この世には真面目にそのための方法論を考えている人もいます。人の言うことだとか本に書かれていることというのも、読み手の側に「自分自身できちんと吟味する」というつもりがあれば、それは現実に役に立つものになってくれる可能性があります。

私としても、人生の意味付けという仕事が「最終的には全員が自分の力でやるしかないとしても、役に立つ助言はできるはずだ」と思っているからこそ、今回取り上げたような書籍一冊を書き上げたのだし、今このようにnoteの記事を書いたりもしているわけです。

しかし、結局のところ、自信を持つということに対して「頭の中であれこれ考える」ということはさほど意味を持ちません。これもスポーツのトレーニングなどと同じで、短い言葉で表せるようないくつかのポイントを押さえられたなら、あとは実践と訓練の問題だということになります。

結論は全部「やれ」になる

最後に、私が以前ネット上のどこかで読んで、すごく笑ってしまった言葉を引用しておきます。詳細はうろ覚えですが、以下のようなものだったと思います。

あらゆる自己啓発本は「やれ」を複雑に表現したものに過ぎない

この記事の結論もだいたい同じです。自信を持って生きていきたいのなら? 自信がなくても、失敗しても、あくまでそれをやり続けるということです。仕事でも人間関係でも、あなた自身の具体的な課題がどのような形を取るにしろ、自信は実際にやり抜いたことに対してしか生まれません。

自己肯定のトートロジーを思索と論理によって打ち破ることは不可能です。それは生身のあなたが行動して、悩んで、傷ついて、それでも立ち上がったときのみ解決されます。本物の答えはそこにしかなく、そうした苦しい過程をショートカットすることは誰にもできないのです。

だから、大変でもなんとか頑張っていきましょう。すべきだとかすべきでないとかいう話ではなく、あなた自身の幸せのため、あなた自身の納得のためにです。

最後に:書籍版はこちらから

生きるということの肯定についてもっと深く知りたい方は、正式な書籍版のほうをどうぞ! 最初のほうの章をnoteで立ち読みできる「試し読み版」も置いてあります。

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