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仕事が無意味に感じられる理由 - 書籍「人生の意味のつくり方」 試し読み版 4

シロイブックスより刊行した書籍「人生の意味のつくり方:正解が『ない』とき、私たちは何をすべきなのか」の試し読み版です。

このページでは「第六章:あなたの仕事は何ですか」より、章全体の3分の1ほどに当たる第一節「働くということの意味」の部分を公開しています。


働くということの意味

人は「働かなくてもいい」にも耐えられない

本書の冒頭で「人間の代わりにAIとロボットがすべての仕事を行ってくれるユートピアはまだ来ていない」という表現が出てきたことを覚えているでしょうか。実際のところ、このような発想をユートピア=理想的社会と呼ぶことには問題があります。ここには、人間が何に幸せを感じるかという点への根本的な誤解が含まれているからです。

人は「安楽にゴロゴロしていれば満足だ」というふうにはできていません。もちろん、会社で毎日働くのが大好きだという人はあまりいないでしょう。しかし、人から頼りにされ、居場所と役割を与えられ、社会から必要とされるということは、通常はまず仕事を通して実現されます。自分の能力を向上させ、それを行使する機会と環境が得られるという点でもそうです。この孤立がデフォルト設定の慌ただしい現代社会の中で、誰かから「お客様」でも「通りすがりのおっさん」でもない、「○○が得意な○○さん」といった形で個人を認識してもらえるような場所を、私たちは他にいくつ持っているでしょうか?

パートナーから誰にも替えられない存在だと思われているとか、セミプロと呼ばれるほど突き詰めた趣味でその界隈で一目置かれているというのなら、それは素晴らしいことです。とはいえ、そのようなポジションは誰でも努力次第で得られるというタイプのものではなく、ある種の幸運な人生のめぐり合わせが必要になります。一方で、職場で人並みの存在感を得るという話であれば、多少の縁に左右される部分はあっても、そこまで例外的な幸運は必須とされません。

言うまでもなく、仕事には責任が付き物です。というか、責任が存在しないものを「仕事」とは普通は呼びません。そして、この責任というのはときに大きな負担になるものですが、逆にそれが一切ない生活というのも、多くの人にとっては耐えがたいものです。昔から「叱ってもらえるうちが華」という言葉があって、おそらくこうした昭和的な価値観は、平成以降に生まれ育った世代にはうっすらと(もしかしたら相当はっきりと)嫌悪されているものと思います。しかし、ある特定の観点が全面的に間違いだということはあまりなく、多くの人は「責任ある振る舞いを何も期待されなくなった」という状況が実際にどのようなものか、自分の身で経験したことはないものです。

転職にあたって、企業側が履歴書の「空白期間」を過剰に気にするということはよく指摘されますね。これは単にキャリア設計上の懸念事項にはとどまりません。病気などの何らかの事情で数ヶ月や数年といった期間を働かずに過ごした人は、「するべきことがない」「誰からも、何も求められていない」という状況の耐えがたい苦しさを知っています。これは自分の存在意義を根底から脅かされるような時間です。ときどき「大病をして生き方と人生観が一変した」という話が聞かれるのも、おそらく「自分がこの世に存在している意味」に対する強い揺さぶりが発生し、それまでに経験したことのない深さでの自己への問い直しが行われるということが関係しているのでしょう。

働くことの本来の目的は、まず何よりも生活のためであり、お金を稼ぐためです。世の中にはブラック企業だとかやりがい搾取といった言葉もあるので、仕事が「労働力を提供し、対価を受け取る」ことでしかないという基本的なポイントは忘れてはなりません。この「それ以上でもそれ以下でもない」という認識は重要です。ライフスタイルとして「仕事なんかに重きは置いていないよ」という人は実際にそれなりにいて、この「たかが仕事」という相対化の視点を持っておくことは、軽やかな気持ちで生きていくには必要な知恵でもあります。

しかし、それでも仕事は人間にとって、他で代替できない価値を持つものです。もしもあなたの中に「働きたくないなあ」という気持ちがあるとしたら(あるほうが普通です)、まず行うべきは「働かないで済む方法」を探すことではなく、私たち自身が無意識に抱えてしまっている「仕事とはこのようなものだ」という余計な思い込みを取り除くということにあります。

特に、こうした重荷は周囲からの小言や押し付けとしてだけでなく、私たち自身の不安や見栄や欲といった心の動きによって、誤った理想や獲得対象としても存在しているものです。これを妥当な方向に修正するというのも、この章で行っておきたいことのひとつです。

仕事というトピックは、私たち自身が生活の中で費やす時間としても、その悩みの大きさとしても最大になる場合が多いものです。一朝一夕での解決はあり得ません。本書が現実問題の解決という方針を掲げている以上、この第六章は頭の上での発想の転換から実際的な行動と決断の話まで、ややボリュームの大きい内容となります。

なぜ働かなければならないのか

「どうすればやりがいのある仕事と出会えるのか」といった話題はひとまず置いておいて、ここで「どうして働く必要があるのか」という基本の話をさらっておくことにします。

第二章で学校教育と非行少年の歪んだ反動という例を出しましたが、仕事に関する「社会とはそういうものだ、ぶつくさ言わずに働け」という圧力にも、やはり同じ心理的対立の構造が見られます。他人が決めたルールの押し付けとしてではなく、物理法則や機械の仕組みを理解するように、労働の意味を理解することが重要です。この点に納得がいっていないと、働くということも「するべき」対「嫌だ」という感情的な闘争になります。これは時間とエネルギーの浪費でしかなく、私たちの人生を豊かで平穏なものとしていく上では無用なものです。

「なぜ働かなければならないのか」という質問に誠実に対応するなら、この答えは「別に働かなければならないわけではない、自分が行き倒れてもいいのなら」ということになります。この国の最高法規には「勤労の義務」というものがあることになっていますが、これは社会をなんとか回していくための建前です。うっかり真に受けないようにしましょう。社会のルールの何割かは冗談でできています。

この疑問に対する本当の答えは、実は本書前半の第三章にて説明が済んでいます。現代社会は分業と積み重ねでできていて、私たちの生活は過去の人々が行った仕事の成果の蓄積と、現代で一緒に暮らす他の人々とお互いに仕事を分担することによって成り立っているという話でしたね。私たちが働かなければならないのは、主に後者の「やるべき仕事を分担している」という点によるものです。

自然界で暮らす動物であれば、自分の食べるものは自分で確保するのが基本です。一方で、人類の場合は異なる仕組みを採用しているので、自分に必要な食料はひととおり自分で用意できるのだという人はかなりの少数派です。食料の確保は専門的な仕事として切り出されており、誰かが代わりに行ってくれます。私たちが普通に「仕事」という言葉からイメージするのは、人間が生きるための活動全体を非常に細かく分割して、専門化という形で思い切り偏らせて再配分したあとの姿なのだということです。

原始的な社会では物々交換が行われていたことや、もう少しあとの時代になって貨幣というシステムが発生したことなどは知っていますね。人間の社会や経済活動といったものは現象としてあまりにも複雑なので、どのような優秀な学者であっても「ひとりの人間がすべての仕組みを把握している」という状況は既に期待できないレベルになっています。

しかし、このような複雑なシステムも、元をたどれば個々の人間の「自分でやる」を、仕組みとしてことごとく「誰かにやってもらう」に取り替えていった結果でしかありません。この単純な事実を飲み込むことができれば、働くということの必要性も以前よりもシンプルに理解できるようになります。

交換システムと「助けてもらう権利」

今この国に暮らしていて、電気や水道を使っていないという人はほとんどいないはずです。外に出れば舗装された道路を歩くし、食べ物はお店で買い、出たゴミは回収してもらいます。当たり前の話ですが、ゴミは「外に置いておけば勝手に消えてくれる」のではなく、それが消えるのは回収作業の人たちが町中を走り回ってくれているからです。

以前出てきた例を再び出して、無人島の漂流者たちの生活を考えるなら、何か他人に少しでも手を動かしてもらった時点で「助け合い」または「貸し借り」という意識が必ず出てきます。仮に自分では何も仕事をしようとしない怠け者がいれば、その人を助けようとする人はすぐにいなくなるでしょう。その人物にゴロゴロなさっていただくために喜んでタダ働きをしたいという人は普通はいないので、これも当然の話です。

しかし、文明的な社会ではこうはいきません。この社会は顔も知らない誰かの仕事、本来ならば一生挨拶を交わすこともないような距離感の他人の仕事で成り立っていて、「自分はこれだけ他人を助けたので、今度はこれだけ助けてほしい(そうしてもらえる権利がある)」という天秤の調整は、貨幣を通して行われています。自分が誰かを助けた分はお金が入ってきて、反対に助けてもらいたいときにはお金を渡すというわけです。

私たちが銀行の預金残高として持っている数字は、顔と名前と日々の振る舞いによって信用を積み重ねた知り合い以外にも使える「助けてもらう権利」のストックのようなものです。これは仕組みとして便利である反面、現代社会ではもっと単純かつ率直に「今日を生きるために今日働く」ということはほぼ起こり得なくなっています。私たちは今日のために、自分のためにではなく、将来困るであろう自分のために、今はひとまず他人のために働いているということです。

現代的な観点から少しだけ補足しておくと、自力でどうにかすることが難しい人を簡単に切り捨てないというのが福祉社会の理想なので、助け合いの天秤は「常に完全に平等であるべきだ」というわけではありません。やる余裕のない人が困窮している一方で、やる余裕のある別の人が近くにいるなら、難しいことは言わずにさっさとやってあげたほうがよいでしょう。自分が特に困っておらず、いくらかでも暇があれば、普通は困っている人には見返りを求めずに手を貸します。それが人間というものです。しかし、一般的な原則としては、天秤は釣り合っている状態に近いほうが健全と言えますし、私たち自身もそれに納得します。

自分たちの手によって食料や飲み水を早急に確保しなければ生きられないという無人島的な状況下で、「なぜ自分がこのような雑用をしなければならんのだ」という文句が出てくることは、昔から漫画でときどき見られるような誇張された大金持ちのキャラクターを除けば、普通の感覚では考えられません。こうした「食うものがないと困る」という具体的な必要性から離れて、抽象的な倫理や義務といった観点で仕事について話すから、反発として「なぜそんなことをしなければならないのか」という発想が出てくるわけです。

その実態はごく単純なものです。生きるためには毎日いろいろとやるべきことが多くて、私たちはその大部分を他人に代行してもらっているので、代わりに他の誰かの「やるべきこと」を引き受ける必要があります。

この世で「働かなければならない」というのは、本当にそれだけのことでしかないのです。

何が「働く」という話題を複雑にしているのか

ところが、現実の社会は「それだけのこと」にはなってはいないようですね。さきほど天秤という比喩を出しましたが、この釣り合いは実際にはかなり怪しいものです。私たちが普通に暮らしている資本主義の社会の中では、ある人物の収入や保有資産の額と「どれだけ人の役に立っているか」という内実は、ひどく乖離しているケースがあります。

食料品を生産・流通させたり、医療や介護の現場を支えるエッセンシャルワーカーと呼ばれる人たちの賃金が低くなりがちな一方で、よく知られた悪口として、そうした現場にあれこれ上から指図するだけの上層部やコンサルは比較にならないような高給を取っているのだということが言われたりします。「離れた場所から、一段上から考える」という仕事もそれなりに大切ではあるのですが、こうした実作業の苦労の大きさと実入りの小ささに対する不公平感は、多かれ少なかれ誰にでも身に覚えのあるものです。

お金というのは本来、単に分業や物品交換の利便性のために発生したものです。助け合いということを考えたとき、毎回「Aさんが代行してほしい仕事とBさんが代行してほしい仕事」や「Aさんの食べたいものとBさんの食べたいもの」をマッチさせるというのは大変な作業なので、中間にお金という「それ自体では特に役割を持たない、単なる数字」を挟むというのはいいアイデアでしょう。ここまでは、そうしたほうがみんなが助かるというだけの話です。

働くということの意味をややこしくしているのは、こうして現れてきたお金という交換媒体が、その先にある交換対象のサービスや品物よりも重要であるかのように考えられるようになったことです。ここで注目しようとしている「ややこしさ」とは、経済や社会の制度としての説明が長くなるのだという点ではなく、そうした生活環境によって私たち自身が内面に抱えるようになった、心理的な混乱の根深さにあります。

食べ切れないほどのパンの山を一度に与えられたとしても、それは食べ切れないのですから、そんなに量を増やされたところで別に嬉しくはありません。そのようなパンの山が自分ではなく隣人にだけ与えられたとしても、たまたま同時に自分の食料が尽きた場合には助けてもらえるかなというだけで、他人のパンの山そのものが羨ましいとは感じないでしょう。にも関わらず、お金の場合は上限なしに「あればあるほどいい」ということになっていて、他人がそれを持っているときには、妬みや不公平を感じます。

パンの山を年収や預金残高に変えてみれば、これは世の中で実際に起きていることです。ここで、お金はパンと違って傷まないのだ(インフレのような専門的な話を除く)という反論も一応ありそうですが、仮にパンの山を「賞味期限のない究極の保存食」のようなものに変えてみたとしても、そこには実用品や食品の中にはない、お金だけが持つ魔力的で独特なイメージは現れてきません。問題は、このイメージの肥大という点にあります。

不平等と終わりのない渇き

働くということに関する議論を複雑にしているもうひとつの要因は、職業がステータスと結びつくようになったという点です。交換媒体であるお金が交換対象よりも重要になったことと並んで、ここでも内実を離れて「実際に何をしているか」よりも「人からどう思われているか」が重要になるわけです。

表向きは「職業に貴賎はない」と言われながらも、実態は子どもでもわかるほど明確にそうではなく、クリエイティブっぽく見える仕事のほうが単純作業よりかっこいいと考えられています。体を動かすよりも動かさないで稼げるほうがスマートだし、偉い人は偉くない人よりも偉いということになっています。最後のものは明らかに同語反復ですが、そもそも「偉さ」の本質は「偉いと思われている」という点にあるので、説明としてこれで合っています。つまり、ここでは内実と対比される直接的な「見た感じ」すら重要でなくなっており、誰かと誰かが「他の人もこう思っているはずだ」とお互いに思い込んでくれさえすれば十分なのです。

これを笑うことは簡単ですが、それでも私たちはこうしたナンセンスを完全に跳ね除けることができずにいます。できているなら、今このような社会にはなっていないでしょう。それが裸の王様であったとしても、座れるものならその座席に座りたいと思うし、もらえるならば何でももらってしまえと感じます。これは資本家対労働者とか、権力者対一般大衆といった話ではありません。そういう成功と特権の席を認め、それを表面上は批判しながら内心では求めることをやめない、私たち自身の矛盾に問題があるのだということです。

物質的な豊かさであれ、社会的な評判であれ、私たちは「必要が足りたので満足だ」とはなりません。ここで獲得対象として現れる有形無形のあれこれは、私たちの底なしの渇きが求めさせるものです。こうした欲望は、空腹感のような健全で実体のある欲求というより、嫉妬や不満や焦燥といったあらゆる心理的混乱に基づいた単なる埋め合わせの衝動であり、ほとんど妄想に近いものだと言えます。

今ここで指摘しようとしていることは、よく言われるような「欲望は悪い」「拝金主義や物質主義はよくない」という倫理や道徳の話ではありません。そういう話ではないのです。本当の問題は、こうした欲望の求めさせるあれこれが、私たちが本心で欲しいと思っているものとは全然異なっているかもしれないのだという点にあります。

小さな子どもが「あれを買ってほしい」とわがままを繰り返すように見えるとき、この本意は親に対する「もっと構ってほしい、こちらを向いてほしい」というメッセージである場合があります。そして、大人である私たちの欲求も似たようなものなのです。私たちは「満たされない」と感じており、何をどうすればその耐えがたい空虚感と不快感が解消されるかもわかっていないため、世間で「これを持つことが幸せだ」とされているものを手当たり次第に入手しようとします。

そうした輝かしい商品とステータスは、本当は私たち自身にとってどうでもいいようなものかもしれないのに、その疑いが真剣に議題に上げられることはありません。少なくとも、大半の人々は「これで絶対に幸せになれる」という夢を信じ込まないだけの分別は持っているものの、やはりどこかで「それさえ手に入れば救われるのかもしれない」という想像を捨て切れずにいます。

私たちがいつしか年老いて、自分自身の長い人生を振り返ったとき、別にそれほど欲しくないような高価なおもちゃのために、自分の時間と健康と本音を犠牲にして、何十年も昼夜奮闘を続けてきたのだと気づいたとしたら、それはかなりぞっとするような話だと思わないでしょうか?

目の前の役割に向き合う

分業が極端なまでに進んだ現代では、自分の仕事に対して「何のための仕事なのかわからない」という感覚が起こるのは、むしろ普通のことになっているようです。いくらお金やステータスが空虚なものだと言ってみても、地に足のついた満足感ややりがいといったものが日々の仕事の中に見つからないのなら、そうした幻想のイメージへと傾いてしまうのも仕方がないことなのかもしれません。

その昔、パン職人は顔馴染みのご近所の人たちのために毎日パンを焼いており、自分の工房内のことなら何でも把握していたと思いますが、現代の食品の生産現場はこれと異なり、機械化とマニュアル的手順によって徹底的に合理化されていることが当たり前になりました。パン工場のバイトの恐るべき単調さと永遠に続くかのような時間というのは都市伝説的に語られることがあって、これがどの程度まで事実なのかはわかりませんが、少なくともこうした生産ラインに立って「自分の仕事が自分の手の内にある」という感覚を持つことは、ほとんど不可能に近いのではないかと想像することができます。

今や仕事の中心は人間ではなく、システムの側にあります。「自分の仕事」という表現から連想されるような両手の内側の手応えは幻となり、これを逆転した「巨大なシステムの内部に自分が部品として組み込まれている」という感覚のほうが日常となっています。こうした風景は工場のような現場仕事に限りません。オフィスでの事務仕事でも同じですし、もっと自由裁量に恵まれたように見える高度な専門職でも、どうやら似たり寄ったりのようなのです。異業種の知り合いや友人といくらか仕事の話を重ねてみれば、この閉塞感を免れている人は果たしてこの世に存在するのだろうかという気になってきます。

本書では、特定のイデオロギーによって何かを悪者を仕立て上げようとはしていません。資本主義という仕組みや、大量生産・大量消費といった風潮に弊害があるのは誰でも知っていますが、こうしたシステムの発展が人類の生活を大きく改善させたということも、やはり疑いようのない話です。簡単な代案がないということも明らかでしょう。

社会の側に改善すべき点が多いというのは確かにそうだし、そのために欠かさず選挙に行こうというのもよいのですが、そうした「社会をよくする」という活動も、分業と専門化によって成り立つ高度な仕事の一種なのだという視点は忘れてはなりません。それはそれで専門に研究してる人がいるし、毎日の変わり映えのない事務仕事や現場仕事として、その実務を担当している人たちがいます。今もどこかでちゃんと進んでいます。それもシステムの一部です。

こうした状況があるとわかったなら、ここまでに考えてきたような大きな話は置いておいて、いったん視界を半径何メートルかに限定しましょう。私たちには自分の仕事があるし、自分の生活がありますね。職業人として、家族や友人や地域の人間としての役割や責任があります。本書で既に見てきた内容にも、「すぐに変えられることと変えられないことがあるなら、変えられるほうに力を注ごう」という視点は出てきています。そうであるとしたら、私たちは何よりまず、自分自身の日々の役割に向き合うべきでしょう。仕事と生活という課題は、抽象的な議論の問題ではなく、現にあなたの目の前にあるものです。それに直接に取り組まない限り、現実の改善はあり得ません。

自分の仕事や生活に何か不満やままならないことがあるとき、政治や社会の話ばかりをしたがるというのは、ある意味では無責任で、当事者意識に欠けた振る舞いだと言えます。少なくとも、そうした議論によって私たちの生活が現実によくなったり、自分や周囲の人間が前よりも幸せになるということは考えられません。切れ味鋭い議論に見えるとしても、飲酒して大騒ぎしている人よりは体裁として少しはマシだというだけの不満の吐き出しでしかないのです。社会が悪いのだと言っておけば、一時的には溜飲が下がるかもしれませんが、何日か経てばまた同じものが現れます。

本書の趣旨に沿って、今ここで確認しておきたいのは「とにかく現状の社会はこのようになってしまっているのだから、私たちは自分自身の幸せのために、こうした状況にうまく対処していく方法を考える必要があるのだ」ということです。そして、その課題はニュースメディアやSNS上の議論の中にではなく、あなた自身の内面と、目の前のあまりぱっとしない仕事の中にあります。

ここまでの内容によって、現代では見えにくくなった仕事の本来の意義、そこで誤って抱かれがちなイメージについて、基本的な確認は済みました。さて、この章で元々注目したかったのは仕事に含まれる価値であり、もっと広く「人生を意味深く、幸せに、豊かにしていく」という目標に対して、日々の仕事がどういう役割を担ってくれるのかということでした。

仕事というものをより柔軟に、広い視野で理解できるようになるために、次の話題では一度視点を具体的なレベルからぐっと抽象的なレベルへと移すことにします。少しだけ時間を取って、純粋に頭の中での思索と検討によって「やりがいのある仕事」の正体を明らかにした上で、再び目の前の具体的な仕事の話へと戻り、あなた自身のキャリア転換や現在の職場への納得といった話題に進んでいきたいと思います。

(……試し読み版としての内容はここまでです。上記のとおり、書籍版の第六章では転職上のヒントなどの具体的な話題へと続きます)


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