人間関係のわからなさと、愛される方法の存在について - 書籍「人生の意味のつくり方」 試し読み版 5
シロイブックスより刊行した書籍「人生の意味のつくり方:正解が『ない』とき、私たちは何をすべきなのか」の試し読み版です。
このページでは「第七章:他者という救い」より、章の後半「またもや道に迷わないために」の一部を公開しています。
またもや道に迷わないために
自分が「かけがえのない人間」でないことを受け入れる
既に考えてきたとおり、人間に抱えられるものは有限なので、相手を理解するとか、その存在を受け入れるといったことに関しても、人は有限のキャパシティしか持っていません。私たちは周りの全員を深く理解するということはできないし、全員を希望をそのままに受け入れるということもできません。これが深いレベルで行われるのは、家族や恋人や親友といった少数の特別な関係においてのみです。
この常識的な前提からは、私たちが普段は見逃しがちな、というよりは本当は気づいているのに心理的には拒否してしまいがちな、ある重要な指摘が引き出されます。それは、この社会で暮らす個々の人間は、周囲の大多数の人からはワンオブゼム(その他大勢のひとり)として扱われるものでしかないという事実です。これはいいとか悪いとか、かくあるべきだとかこう考えようといった話ではなく、有限性という背景からはどうしてもそうなるのだという話です。
ある人物が頭抜けて優秀で特殊であるかといった点とは何も関係なく、私たちは誰もがかけがえのない人間であって、これはある意味では絶対的な事実でもあります。絶対というのは個々が内側に持つ主観性のことで、そこには他者との比較という相対的な視点が関わってこないので、理屈の上でも「私たちそれぞれの存在の価値は絶対だ」と表現してもいいわけです。
しかし、実社会のレベルでは個々の人間はそのように特別には扱われないし、そうすることしかできないし、それはそれでよいのです。理解はされないよりはされたほうがいいですが、全員に理解されなくても何も問題ありません。社交辞令とか、他人行儀な関係ばかりであるといったことにそこまで寂しさを感じる必要はないし、本質的な議論で衝突するのを避けるといったことも、誰かの不利益が大きく絡むような状況でなければ、強く責められるような話ではないです。表面的で深みがなくても構いません。社会生活で出会うすべての人々の内面的な複雑さ、その人の抱える諸々の事情、ストレートな欲求や主張といったものを何もかも受け止めて理解すべきだというのは、生身の人間に耐えられるような負荷ではないからです。
生きることの空虚感や満たされなさという感覚について、そこに「自分を深く理解してくれる人がいない」「そのままの自分を認め合える関係がどこにもない」という理由が思い当たるという人々は、この社会を見渡せばいくらでも見つかりそうです。実際、そうした関係を築くということは私たち自身の幸せの実現にとって最重要課題のひとつなのですが、この点はもう少しあとで改めて考えることにして、今は反対側の視点に注目しています。それは「深さ」だけが大切なのではないという、バランスの感覚についての話です。
おそらく、特別な深さで人間的な相互理解を求めることも、ほどほどの距離感で無難にやっていく職場の人間関係も、楽しいひとときだけで軽めに繋がれるような趣味の仲間付き合いも、いずれも人間の幸せにとっては必要なものなのでしょう。家族や親友にも話せないことが、匿名のSNSでゆるく繋がっている人には話せたりすることがあります。私たちは場面ごとに別々の顔を使い分けていますが、それがうわべだけの嘘だとか、本当の自分でないというわけではありません。役割と深さが違うというだけで、どれも本物です。
私たち自身が完全でない以上、完全栄養食のように「これだけあれば足りる」という相手は存在できません。環境やコミュニティについても同様です。そうであるとしたら、私たちは自分自身の心身の健全さのために、もっと多種多様なものを摂取していくべきでしょう。本書がこの章で「大変であるとしても、なるべく人間関係を広げていこう」というスタンスを取っていることに対しては、この視点がひとつの根拠となります。
物事に本質や要点といったものがあるとしても、人間も世界も本質だけでできているわけではないものです。感動のクライマックスだけでできた小説や映画というのは存在できないし、サビだけでできた歌というのも存在できません。人間関係も同じようなものです。少数の大事な関係さえ確保できたなら、その時点で十分に成功しています。それ以外の場所については、特段意義深くなくても「仕事は仕事として回していくか」という態度でやっていけばよいのです。
孤独感や相互理解の欠如といった感覚は、明らかに不幸の感覚へとつながるものです。価値ある人間関係をどこまで深めていくことができるだろうかというのは、この先の何十年かでじっくり進めるとして、ひとまずの処方箋としては、以上のような相対化とバランス感覚という視点が少しは役に立つことでしょう。
愛されたいのなら、何をすべきかなんて明らかだ
さて、ここまでに何度か出てきた最重要課題、つまりごく一部の特別な関係について、改めて目を向けることにします。形式的には親友でもパートナーでも何でもよいですが、一時の気まぐれでも利害関係ベースでもない、人間性に基づいた深いレベルでの繋がりが存在するということになっており、そこには信頼や愛情と呼べるような本物の感覚があると考えられています。
これを単に想像したり、言葉であれこれ言うことは簡単ですが、実際にそれを見たことがあるとか、実際に手にしているという人はそれほど多くありません。こうした本物の関係を築いていくための方法を詳しく共有できるといいのですが、本書では紙面が限られているので、それを現実にしていくために必須となる視点、私たち自身が真っ先に身につけておくべき姿勢についてお伝えてしておくことにします。
さきほど「全員を大事にできるキャパシティは誰にもないのだから、自分が全員から大事にされることも期待できないよね」という話が出てきました。このように立場と見え方を一度ひっくり返してみるというのは、人が無自覚に抱えがちな思い込みを抜け出して、事実を事実として理解するための単純かつ強力なアイデアです。逆に、こうした視点の反転を一度も行っていないと、あまりにも常識的な事実を理解し損なうことになります。「相手の立場になって考えよう」ということは普通に言われますが、推論というのは心がけというより思考の能力なので、やろうと思っただけですぐにできるものではありません。日常の中での実践を重ねて、無意識レベルの習慣にしてしまう必要があります。
私たちは「自分を理解してほしい」とは思いますが、「この人を理解しよう」とはなかなか言いませんね。実際、この社会では誰もが「自分は理解されていない」「軽視されている」と主張しているわけですが、そうした人々の多くは、自分から目の前の他者のことを真剣に理解したいとは全然思っていないし、その人の存在、その人の価値観、願望や不安を自分のそれと同じ程度に重要だと考えることもありません。人から愛されたいと願いながら、自分は誰かや何かを愛する能力を持たないし、それを問題だとも思っていないようなのです。言い換えれば、誰もが受け取ることを当然の権利だと思っていながら、それを与えようとする人はごくわずかです。誰もが「自分をそのままに受け入れてほしい」と望みつつ、同じように願う他人をそのままに受け入れるということは拒否します。
ここに最大の問題があります。これは何も「愛されるよりも愛することが大切だ」とか「見返りを求めてはならない」といった、どこかで聞いたような話を繰り返したいわけではありません。こうした倫理的なスローガンは、いずれも頭の中だけで「これはよい、こうあるべき」「よくない、すべきでない」と言いたがる人のための空っぽな言葉です。本書はそうしたメッセージを提唱していません。今ここで考えているのは、自己と他者の現実のありようというものを見たとき、それはまだ理解されておらず、理解されるべきもので、それは他でもない私たち自身の課題なのだから、私たちはここにある「相手のことが何もわからない」「何をどうすればうまくいくのか本当にわからない」という事実と、そのように感じる自分自身の隠された本来の感情に対して、もっと真剣に向き合う必要があるのではないですか、ということです。
私たちは本来受け取るべき何かを受け取っていないと感じていて、そのことに内的な空洞と不満を抱えています。しかし、自分自身がその何かを与えるということはしていないし、実際に自分がそうしていないということを私たちは見たがりません。それは周りの人間も同じなので、こうした個人の集合によって、あなたや私の知っている現実の人間関係がこのように存在しているのだということです。
ごく普通の感覚として、何か協力によってしか得られない貴重なものがあり、そこに力を尽くす意思が相手の中に見えないとしたら、自分も協力するのをやめるでしょう。反対に、そのような意思と行動を自ら見せるとしたら、相手もそれに気がつくはずです。そして、今ここで考えているような深さの関係が「協力によってしか得られない」ということは明らかです。さきほど出てきた「見返りを求めない」という表現もある意味では間違っていないのですが、少なくともその感覚は一方通行ではなく、双方向的に存在している必要があります。
ここまでの話をまとめれば、何か特別な深みのある関係を得たいのなら、まず先に私たち自身がその深さまで潜る必要があるし、それは心がけというよりは理解と実践の能力の問題だし、その関係が本物であるなら、私たちの掲げる動機と行為も本物である必要があります。結局、問題は「何も与えてくれない誰か」にあるのではなく、そこで試されているのは私たち自身なのです。
事実はやはり「わからない」という点にある
人間関係のもっと実際的な面を考えるなら、そこには適切な距離感の取り方と縮め方といった観点があるし、仮に将来的にもっと親密になれる相手だとしても、自己開示のステップや必要な時間といったものも当然あります。ご縁という言葉で曖昧にまとめてしまうしかないように、その発展がひどく偶然に左右されるということも、どうやら事実であるようです。
人の心を理解することや、人間関係をうまくやっていくということは、いずれも明らかに複雑で困難な課題です。しかし、私たちがそこに対してどういうスタンスを取るべきかということであれば、話は極めて単純です。
唯一の問題は、私たちが実際に目の前にいるその人を理解できるかどうか、実際に目の前の誰かを愛することができるかという点にあります。それだけが今ここで向き合うべきものであって、言葉の上でああだこうだと議論することにはほとんど意味がありません。それなのに、私たちはこうすべきだとかすべきでないといった表面的な議論だけで満足してしまうし、自分はこうだ、あの人はこういう人だ、だから世の中はこうなんだと簡単に決めつけて、各々が勝手に希望や絶望を抱えたりしています。
本書では「方法に欠けたアドバイスは役に立たない」という立場を取ってきました。しかし、ここで「このように考えよう」といった主張を持ち出すのは、指針としてはっきりと誤りになります。個別の他者というのはそもそもが未知なものであって、人間が一般的にこうだということも簡潔に説明可能なものではありません。そもそも「一般的に」と定義しようとしている時点で、それは目の前の人間を理解するということから離れているので、あまり意味のない言葉の上での定義が出来上がるだけです。
現実の人間関係の中で、信頼や愛情と呼べるようなものを得たいのならば、あなた自身が相手という人間そのものを見ること、生身の相手に向き合うということでしか達成できません。「こうしよう」というのでは、単なる先入観と偏見になります。「こういう人間関係が理想だ」「これこそが真実の愛だ」といった、あらゆる空想を捨ててください。
やり方はないということ、相手を「わからない」と理解するということだけが、ただひとつの正しい指針となります。これは相手の存在そのものに向き合うことであると同時に、あなた自身の「わからない」という不安に正面から向き合うということでもあります。自己と他者という二つの未知の領域について、「わかる」という前提を正しく捨てて、「わからない」という前提の上に「わかりたい」という気持ちを持ち続けられるだろうか、ということです。この「わかる」「わからない」「わかりたい」という表現は、それぞれ「知っている」「知らない」「知りたい」に置き換えていただいても構いません。
それができるなら、あなた自身の他者との関係は、徐々に表面的なものでも浅薄なものでもなくなっていきます。そこに意味の実感と深みが現れたとき、あなたにとっての日々の人間関係は、不満と不自由を感じさせるだけの骨折り仕事でもなくなるでしょう。
【前のページ】 仕事が無意味に感じられる理由
【次のページ】 コラム:あなたの手元にひどい手札が配られた場合
書籍版のご購入ページ
分厚い紙書籍の通常版と、Kindle向けでお財布にやさしい「分冊版」上下巻が好評発売中です!
関連記事
人を愛することに、感情の強さはあまり関係がない (2024.1.6)
アパートが燃え始めたとき、私が抱えて避難したただひとつのもの (2024.8.28)
誰よりふしぎなpのこと (2024.12.13)
いいなと思ったら応援しよう!
いつも応援ありがとうございます✨ いただいたチップはおやつ代へ…(カロリーを書籍とnote記事に変換しています🍩🍰☕️