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HSPについての短い私見(と偏見)

noteを毎日開くようになって、私は「あれっ、『繊細さん』と言っている人にもちゃんと共感性と思いやりに満ちた人はけっこういるんだな」と認識を改めました。つまり、以前まではそうではないように感じていたのですが、ここにはいくつかの理由を示すことができます。

安心を約束してほしい人々

先月出版した新刊「人間関係が苦手でもなんとかやっていくための本」の中で、HSPという概念に含まれた独特の歪みについて指摘した部分があります。HSPはここ5年ほどで頻繁に目に入るようになったワードで、「繊細さん」といった表現もよく見かけますね。

この本の基本的なスタンスとして、私は本来わからないはずの人の心を「わかっている」と思い込んでしまうことを強く戒めています。人の心に対する誤った憶測というのは、個別のコミュニケーションの場面でも頻繁に起こるものですし、人間関係における「こう考えれば大丈夫」という安易なマニュアル的思考とか、MBTIのような「性格診断」として形にされていることもあります。

他人に対して偏見に基づいたレッテルを貼るというのは普通によくないことですが、その点で、今出てきたMBTIとHSPという2つのキーワードは少し変わった立ち位置にいるんですよね。

一般に、私たちが現実逃避的に誤った情報を求めるのは「わからないという不安」や「自信のなさ」を解消するためです。そして、今挙げた2つの用語は「他者へのわからなさ」を解消するための道具というよりも、「自己へのわからなさ」を解消してくれる道具として使われている点に特徴があるんです。

自己というのはあやふやで、頼りなくて、何もきっぱりと説明できないものなのですが、これらの用語は「あなたが○○なのは実は○○だからなのです」という単純明快な説明を与えてくれます。スッキリしますね。もうモヤモヤしなくて済みます。

しかし、実際のところ、その説明は当人のためになるものでしょうか?

別の言い方をすると、安酒を浴びるように飲んで意識を失うことでもこうしたモヤモヤからは逃れられますが、長期的に見て、そのような行動は本人を幸せにすると思いますか?

目的が果たせるなら、他はどうだっていい

今回の本の中で、私は次のように書きました。人の心というものを扱うとき、どうして「筋の通った(そして完全に誤った)説明」がこんなにも多く流通しているのかという点を考えた部分です。

 人間関係というテーマを扱った書籍やネット記事を見ると、大抵は「こんなときはどうすればいいのか」「相手の性格や行動をどう解釈すればいいのか」という結論ありきになっているようですね。いずれも読み手が「そういうことだったのか」と思い込んでくれればそれでいいらしく、そこで発信されているメッセージの真意は「このように自分に言い聞かせなさい、とにかくそういうことにしておいて思考停止しておきなさい」というものです。私たちの基本的な状態は「不安」というもので、求められているのは常にその解消のための説明であり、ビジネスパーソンの仕事は顧客の望んだものを望んだとおりに提供することです。

 しかし、仮に「ナマズが地震を引き起こすのだ」という説明に「そうか、ナマズのせいだったのか」と安心したとしても、実際に地震を引き起こしているのはナマズではないので、そんな説明に意味はないでしょう。その説明は現に存在している複雑な世界の仕組みとは何も関係がなく、現実の物事の理解と対処ということには何も役立ってくれないからです。そして、ナマズを怒らせたところで現実に地震は起こりませんが、あなたが適当な思い込みによって目の前の人間を決めつけるなら、場合によっては地震よりもずっとひどいことが現実に起こります。

「第四章:わからないの原則」p.143-144

説明というものは、私たちを安心させてくれます。生き方や人間関係のノウハウなどを扱った書籍やネット記事では、誰もが「実はこういうことなんです、もう安心ですね」と言っています。

このとき、その情報が客観的にも事実と呼べるのか、それが本当に本人のためになるのかというのは比較的どうでもいい扱いになるんです。「酒をくれ」というお客さんがいるとき、そのとおりの酒を出して何が悪いのでしょう。本人はそれでいいと言っているし、ちゃんとお金も払っています。確かに、その人が酔っ払って公共の場で迷惑行為に及んだりしないのなら、それは何も悪くないのかもしれません。及んだりしないのならです。

その点で、ナマズが地震を引き起こすのだと信じること自体は何も迷惑ではないのですが、人の心について一定の見方を信じ込むことは、実際に迷惑行為と呼べるような振る舞いを引き起こす可能性を秘めています。おそらく、それは現実にトラブルを引き起こします。

私がHSPという概念を問題視している理由は、ちょうどこの点にあるんです。

私はいかにしてHSP恐怖症(仮称)になったのか

これは完全に偏見と呼べるものですが、私は「HSPを自称している人と一定以上の深さで関わると、必ずものすごく不愉快な結末を迎える」という経験則のようなものを持っていました。

今思い返してみたら、私にこのように強く感じるさせる事件を運んできた人物は合わせて2名です。それに引きずられて、もっと多くの人々の中にも似たような傾向を感じるようになったという流れなのですが、冷静に考えるなら、元々のサンプル数がn=2のデータから全体について何かが言えると思ってしまうのは明らかにおかしいですね。なので、この結論は偏見です。先入観を持って何かを見るなら、そこには存在しない何かが見えてしまうでしょう。

しかし、実生活でこのような経験則を持つことは仕方がない面もあるんです。仮にある山道で大きめの落石を目にしたとして、それが平均的にどのくらいの頻度で、平均的にどの程度の大きさの岩が落ちてくるのかはまだわかっていないとします。このとき、きちんと観察と記録を続けてみれば「それほど危険な頻度と程度ではない」という結論が出せることもあるかもしれませんが、そんなことを考えながら当の山道を歩いているとき、2度目の落石に当たってあっさり死んでしまうかもしれません。想定される被害が大きいとき、ここで「1度落石を見かけたからもう近づかない」と判断することには一定の合理性があるわけです。

私自身がどういう目に遭ったのかということを説明しようと思うと、おそらくそれは純粋な悪口になってしまうので、ここでは詳しくは書きません。まあ、2回遭遇した程度で強く拒絶反応が出るようになってしまったという事実からなんとなく想像してくれればと思います。

私の個人的な話はいったん置いておいて、「HSP」や「繊細さん」というキーワードの元に発信されている世界観の歪みという話に戻ることにします。鍵となるのは、「自己の特別な重要性」という観点です。

「繊細」という言葉が主張しているもの

これについては書籍の中で既に詳しく考察しているので、本文からそのまま引用することにしましょう。

今思うとだいぶ辛辣な書き方をしてしまったような気もしますが、まずは1つ目です。「困りごとの話をしているはずなのに、なぜか美点を示すための言葉を自分自身に使っている」という指摘です。

 「繊細」というのは、一般に「視力がよい」とか「風邪を引きやすい」といった心身の機能的特徴を指した言葉ではありません。機能の話をしたいのなら「聴覚過敏」のような個別の用語を使えばよいだけで、用語が正確であるほうが具体的なサポートにも繋がりやすくなるので、可能であればそちらを使うべきでしょう。一方で、「繊細」という表現は「やさしい」や「面倒見がよい」といった言葉と同じく、人間性の善し悪しに関わるようなニュアンスを含んでおり、審美的な感性、つまり何かを美しいと強く感じるような性質を指して使われることもあります。そして、言葉というのは相対的・関係的に使われるものなので(Aに対して「Aでないもの」を想定していないのなら、そもそもAという言葉は出てこないはずです)、「自分は繊細だ」という人は自分以外の人々を「自分ほど繊細な人間ではない」と認識していることになります。

 これは相当にまずい認識だと言わざるを得ません。普通の感覚として、無自覚に他人を低く見ているような人とはお近づきになりたくないと思いますが、「繊細」と自称することにはそれと同じような危うさがあります。実際、こうした表現が使われるときには決まって「特別に傷つきやすい私」だけが主役になっており、「大切な友人が周囲から尊重されていないことに毎日胸を痛めている」とか「紛争に苦しむ地域の人々のことをニュースで見るたびに泣いてしまう」といったタイプの話はまったく目に入ってこないのです。

「第四章:わからないの原則」p.173-174

2つ目の引用は、なぜそのような情報が商業メディアやSNS上で流通するようになったのかという点に関わるものです。

 近年見られるようになったHSPの流行の特色は、感受性という言葉の本来の意味とは正反対とも言える「自己完結した世界観」の正当化にあります。仮に「繊細すぎて理解されない私」が「自分以外の繊細でない人々」の抱える悩みや事情や葛藤に何も関心を持っておらず、その無関心さゆえに「あの人は無神経で鈍感で悩みごともないが、自分は繊細だから深く深く悩んでいる」と結論付けているとしたら、その人の主張する「繊細さ」「感じやすさ」とはいったい何を意味しているのかという話になってきますね。

 「特別な私」というのは、本来は顧客をおだてるためのセールストークでしかなかった「特別なあなた」がいびつな形で聞き手の内面に定着したものです。こうした世界観の歪みを自発的に生み出す人がそれほど多いとは思えません。しかし、人間の心はそれほど強くないので、誰かが「あなたは悪くないですね、感性が豊かなんですね、傷つきますよね、みんな悪いやつばっかりですね」と言ってくれたとしたら、たぶん何割かの人はそこに流されてしまうのでしょう。実際には、この人物はあなたのことを心配しているわけではないし、助けたいと思っているわけでもありません。ただ「そういうことを言ったほうが売れるから」「バズるから」「チャンネル登録者数が増えるから」そうしているだけです。そして、このような情報に影響された人がどのような振る舞いをして、周囲からどう思われたとしても、情報の発信者がその人の人生に責任を取ってくれるということは決してありません。というか、その発信者が誠実か不誠実かという点に関係なく、他人の人生に責任を取るということは誰にもできません。

 他の人間と一切関わらずに幸せに生きていくということは不可能なので、仮に「他と違って特別に繊細である自分」というストーリーを作り上げたなら、その人は「繊細でないあの人やこの人やその他大勢の有象無象に毎日悩まされながら生きていかなければならない」というストーリー(=主観的な世界)を自ら創造してしまうことになります。この「自分ほど繊細ではない他人」という概念は、まず間違いなく不幸の源泉となるはずです。愚か者に囲まれ、自分よりも貧しい者に囲まれたほうが幸せだというのはちょっと考えにくい話でしょう。

「第四章:わからないの原則」p.174-175

たぶん、これらの引用に「そんな極端な考え方はしていない」と感じた方もいると思います。私もHSP関連情報のすべてがそうだとは言っていないし、HSP界隈と呼べるようなコミュニティの人々が全員そうだとは全然思っていません。

それでも、ここに述べたような「自己完結した世界観」の流行というのはかなり問題のあるもの、実際に周囲と本人の両方にとってあまり愉快でない結果を引き起こし続けるものだと感じられたので、今回の本の「通俗心理学への批判」という話題の一つとして取り上げる価値がある内容だと考えたわけです。

それ以外の心やさしい人々について

冒頭にも書いたとおり、私はnoteという個人発信が主役の空間で長い時間を過ごすようになって、「繊細さ」という言葉の本来の意味で悩んでいるように思える人をちらほら見かけるようになりました。

つまり、その人は自分自身の悩みや傷つきと同様に、他人もまた悩み、苦しみ、理解されず、傷ついているということをまっすぐに認識しています。繊細さという一つの性質を持つことを自覚しつつ、それを「特別な自分だけが特別に理解されていない(ゆえに、特別に配慮されて然るべきである)」という免罪符として振りかざしてはいないんです。

正直、ここまでに引用したような批判を今回の本に組み込むことには、いくらか迷いもありました。何らかの価値観に対して批判的な目を向けるとなると、当然それをよく思わない人もいるでしょう。「傷ついた」と感じる人もいると思います。

この点で、私は作家の鈴木光司さんの発言とされる以下の言葉を思い出します。平成の初期に一世を風靡したホラー小説「リング」や、映画「仄暗い水の底から」の原作で知られる作家さんですね。

花は美しいというと『美しくない花もある』という人が出てくる。そのクレームを想定し『美しい花もあるが美しくない花もある』と書く。それはもはや言う必要のない文となる。全ての人が納得する文では表現にならない。

https://x.com/izz_izm/status/1039468833705091072

このとき、「美しい」にも「美しくない」にも言い分はあるし、どちらかが絶対的に正しいという話でもないんですけど、少なくとも他人に何か意味のあるメッセージを伝えたいと感じたとき、「どちらの立場も取らない」ということはできないんです。

私の過去のnoteでも、「ネット上で誰も傷つけない・誰も不快にさせない発言をすることは不可能だ」と述べた部分がありました。以下の記事の後半部分です。

今回の指摘について「言葉がきつすぎる」と感じられた方がいたとしたら、その点はお詫びします。既に書いたとおり、ここには私自身の個人的な経験に由来する偏見も含まれているからです。

しかし、本来の意味での感受性を持った人々が今回の内容を単なる一面的な攻撃と解釈することはないと思っているので、その点はフォロワーさん方を信頼することにして、私が人間関係の本にこの話を盛り込んだ経緯(私自身の感情的な経緯)を説明してみることにしました。

本の内容としても考えたとおり、私たちを苦しめているのは「自分」に対する「自分以外」からの無理解であり、同時に「自分」の中に存在する「自分以外」への無理解でもあります。私たちが周囲の人間を理解せず、大切にすることもできないのなら、いったい誰がこちらのことを「理解したい」「大切にしたい」などと思ってくれるのでしょうか。

流行りの用語はあなたを一時的に安心させてくれるかもしれませんが、それはもっと本物の安心を運んできてくれるかもしれなかった別の誰かをあなたから切り離すかもしれません。この「私はAであり、あなたはAではない」という分断を生み出しているのは誰なのでしょうか。それは本当に必要なものですか?

タイトルに「短い私見」と書きつつ、またもや長い記事になってしまいましたが、今回のお話はこの辺で。

関連書籍

今回の引用元となった書籍はこちらです。近年の流行っぽい話題はほんの一部で、全体としてはもっと普遍的に「ままならない社会の中で、前向きに人と関わりながら生きる」方法を論じた内容となっています。

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