芸術の定義(あるいは、あなたは何を叫ばなければならないのか)
半年ほど前のこと、私はSNSに以下のような投稿をしました。
突き詰めれば、芸術とは「この世は○ソである」に対して「○ソではない」という証拠をどれほどの強度で出せるのかという話だと思っています
実は、タイトルに「芸術」と付けたのは単なるとっかかりです。今回はこれを美術や文学のような個別の分野に限定せずに、もっと全般的でささやかな自己表現の話として考えてみます。
私たちはnoteやその他のSNSを毎日使っていて、時間のあるときには新規の投稿画面を開きますね。わざわざ発信するからには、できればそこに込められた想いが読者に届いてほしいと感じます。このとき「書いた意味があった」という手応えが生じたとしたら、それは読者に対して何を伝えられたときなのでしょうか?
言い換えれば、私たちは何を、どのように伝えるべきなのでしょう?
🐟 🐟 🐟
まず、この世界がどれほどク○であるかという主張は特に書かなくていいと思います。そんなことは言わなくても誰でもわかっているし、そういうことを書きたがる人がたくさんいるという事実そのものがこの世界がク○であることの証明みたいなものでしょう。そうした主張を死ぬほどデカい声で叫ぶ人が増えれば増えるほど、世界は実際にそのような状態へとさらなる歩みを進めていきます。これは本当にやめたほうがいいです。
通常、こうした主張の背景には「世界はこのようにあるべきだ、そうでなければならない」という理想ないし信念があって、現実の世界がそうでないのでその人は憤慨しているようです。世界はわたしにやさしくすべきである、しかし世界はわたしにやさしくない、よって世界は○ソである。簡単な論理ですね。
私見では、ここには2つの問題があるように感じます。
1つ目に、否定は肯定よりも簡単で、破壊は建設よりも簡単です。否定だけならどれだけ愚かな人間にもできますし、それで自分が優位に立ったような気持ちにもなれるので便利でしょう。反対に、自分の生きている世界を肯定するというのは、そこに自分なりの意味を建設するということなので、この仕事は否定と破壊よりもずっと困難です。比較にならないくらいの時間と労力を要求してきます。本来、「書く」ということは建設の仕事に属するもので、だからこそそれは簡単な過程ではないわけです。
このとき、適当な悪者を見つけて「はい論破」などと言ってしまう習慣を持っていたらどうなるでしょうか。ただの挙げ足取り、一時的なガス抜きであればそれだけで済んでしまいます。建設機械にガソリンや軽油を入れるなら、そのガスは何か意味のある仕事のために消費されます。ところが、ガス抜きはそうではありませんね。まったく無意味に有毒物質をまき散らしたというだけで、何も肯定できておらず、何も建設できていません。そして、これがいちばん重要なことなのですが、外の世界がどうこうという話以前に、その人自身の人生が何一つとしてよい方向に進んでいません。この人は何か悪いものと闘っているつもりなのかもしれませんが、実際にはこの世界にまた一つ新たなク○を増加させるという行為に加担しただけです。
2つ目の問題は、否定の必要性に関するものです。人はAを正しいものとするとき、誤ってBからZまでを「否定して打ち倒さなければならないもの」と考えてしまうことがあります。本当のことを言えば、この世界には「相手を否定しなければ自分を肯定できない」という条件が常につけられているわけではないにも関わらずです。
科学的な事実を論じるときのような厳密な状況設定を除けば、「A以外を否定しなければAを肯定することができない」というのは大抵は誤りで、これは無用な摩擦や衝突を生み出す悪癖でしかないものです。あなたがきのこ派であるとき、たけのこ派が存在するという事実は特にきのこの価値を貶めるものではありません。「好みは人それぞれ」と言っておけばいいだけの話です。
ここで「邪悪なたけのこ派は地上から抹殺されなければならない」という主張に繋げていくのは正気の発想ではないですね。一般に、ある人物が主観的な善し悪しを客観的なものとして証明しようとするとき、その結果は必ず地獄のようなものになります。歴史の話になると、今の抹殺や虐殺という言葉が比喩ではない意味で出てくることになるわけです。これもまた、どこからどう見ても無意味な否定と破壊の衝動が外の世界に転嫁されてしまうというありふれた現象の一例です。
このようなタイプの主張を原稿用紙10枚分くらい書き殴ったところで、それは意味のあるものとは感じられないことでしょう。大半の人の目にはそう映るし、本人にとっても一時的なストレス解消ということ以上に得るものはありませんでした。そこには肯定や建設という仕事が何も含まれていないからです。仮にその記事がネット上でバズったとしても、それは同じ不満のはけ口を求める人々にたまたまヒットしたというだけで、拡散から1ヶ月も経てば誰も内容なんて覚えていないし、書き手の名前などは最初から見向きもされていません。
その行為は読み手の中に新しい何か、その後も残り続けるような価値ある何かを生み出すものではなかったということです。
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まったく個人的な定義ではあるのですが、私は芸術というものを「世界を肯定するために成された仕事」と解釈しています。
SNSやnoteに何かを書く場合でも、書籍やZINEのような形でまとまった文章を世に出すとしても、その表現が書き手にとって世界の肯定と秩序の建設を意味していて、読み手に対しても何らかの変化や気づきを与えるものであったなら、その文章は意味のある文章だと言ってよいはずです。たぶん、それは本来の意味での芸術、アートという言葉の意味にも一致しています。英語のartには、何らかの秩序(無秩序ではなく!)を生み出すための技巧や技能という用法があります。
「意味がある」「価値がある」というのは主観的な話なので、その表現者や鑑賞者にとって最も強い意味を感じさせる作品というのは、それぞれの人物に固有の形をしています。そこに心から共感してくれる人もいれば、いまいち共感できないという人もいるし、こんなものは大嫌いだという人もいるかもしれません。
それは違っていて当然のことです。全員に好かれるということはあり得ません。それでも、たった一人か二人でもいいから世間の人々に言葉を届けたいと願うのなら、そこには何らかの肯定と建設の仕事が存在していなければなりません。よって、あなたが何かを書き始めるのなら、実際にそれを試みるべきでしょう。どれだけ難しくてもそうする必要があります。
ところで、お気づきの方もいるかもしれませんが、私はnoteや書籍の原稿を書くときに「あなた」という二人称による呼びかけをよく使います。読み手にとって大切なものは読み手の中にあって、私の中にではないからです。私は「これこそが大切だ」という個別具体的な主張をなるべく避けて、読者にとってのそれが何であるのかを問いかけます。私個人の思想と価値観としても「真なるものはその人自身の中にしかない」という感覚は極めて重要なものなので、そのための案内書をまとめるという仕事は、書き手である私から見ても「自分にとって意味のある仕事」に該当しています。
そして、ここまでの内容で多少なりとも何かを感じていただけたとしたら、ひとまず私の仕事は今回もうまくいったということになります。
では、あなたのこれからの仕事もうまくいきますように。
関連書籍
今年の3月に出した書籍「人生の意味のつくり方」では、「主観」というキーワードを足がかりにして「抽象的な一般論ではない、あなた自身にとっての生きる意味」を考察しています。
noteには試し読み版も置いていますので、よろしければチェックしてみてくださいね!(買ってくれないとシロイが路頭に迷っちゃうぞ!)
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