文章の向こう側に愛を見せてほしいんだよって話
シロイは元ITエンジニアなので、近年の生成AIの進歩に「技術的にはすごい」と感じることは多いです。一方で、「AIが人類を超える」みたいな話は正直わりとどうでもいいと思っています。
現代の生成AIがすごいのは、「確率的に妥当そうな文字列を出力をさせると、まるで知性があるっぽく見えちゃう」という飛躍の部分にあります。特に、コンピュータが日本語のような自然言語をそのままに理解してるっぽく振る舞えるようになったという点で、これは確かに10年に一度レベルの技術革新に当たるでしょう。この「っぽく」というのは、応用先として思い浮かぶような分野の大半で、既に実用に十分な精度に達しています。
音声認識という技術は一昔前からありましたが、マイクで拾った音声をテキスト情報として取り込むところまではできても、そのテキスト情報から「発話者の意図するところ」をすくい取って柔軟に対応することは困難でした。技術が生活を便利にしていくという点では、「普通の人々がコンピュータと母国語で自然にやりとりできるようになる」というのは相当なインパクトがあるはずです。
ただ、それはあくまで技術としてのすごさ、からくり仕掛けとして驚くべき発展だというタイプの話であって、人間的な知性がどうとかいう話として見れば全然お粗末なものだと思うんですね。
もちろん、人間の脳や神経というのも有機物で組まれたからくりであって、人間の心や精神というものを変に(スピリチュアルめいた形で)特別視しようとしているわけではないです。私が「人間には人間としての価値がある」と言うときも、別に人間を犬や猫と異なる高等なものと見なしているわけではありません。
その意味するところは「私たちには喜んだり悲しんだりする意識と感情があるし、犬や猫にもそれはあるだろうけど、コンピュータにはそれがないんだから、コンピュータが曲芸をやったところで別にどうでもよくないですか」というだけなんです。
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AIの話題に関係して、私は少し前にこんなnoteを書きました。「生成AIの出力内容をそのまま貼り付けたnoteが目に入ると、すごくげんなりする」というのが話の発端です。
で、今回考えたいのは「AI生成の記事は何も面白くないのに、なぜ私たちは人の書いたnoteを読むと面白く感じるのか」という点です。
上記リンクの記事では「悩みに対する答えそのものというより、同じように悩んだ他の人々の経験、その過程を知りたいのだ」という視点を出しました。そこには単なる教科書的な一般論からは引き出せないような共感や気づき、思考の深まりといったものが見つけられるからです。
しかし、他人の経験談や思索の過程というのは、自分の悩みとはまったく無縁のものであったとしても面白いのですね。私がフォロワーさんのnoteを読んでいるときでも、記事のテーマが自分の生活上の悩みや課題と似ているということは半分もないはずです。それなのに、私はちゃんとそこに興味深さというものを感じています。
さらに、趣味や推し活の話題が楽しく書かれているような場合でもこれは同じなんですね。音楽オタクである私の好きなマイナー音楽ジャンルの話なんてめったに遭遇しないし、個人的なバイブルにしている本や漫画が同じだというフォロワーさんも特に思い浮かばないです。私は元々、メディアや流行に対する観測範囲がかなり狭いので、人の楽しんでいるジャンルというのも自分にとっては未知のものである場合がほとんどなのですけど、それでも「とにかく楽しそうだ」ということだけは間違いなく伝わってきます。
悩みの話でも、楽しみの話でも、そのどちらでもない淡々とした日々の記録であっても、そこには何らかの面白さがある。FunnyではなくInterestingのほうですね。なんだかこの現象そのものにもInterestingを感じます。
そういえば、以前書いた別の記事でも「普通の人々のnoteはバチバチに商品化されていないからこそ面白い」という指摘をした部分がありました。
なぜ人間の書いた文章は面白いのか。上記のデータ分析の記事では、有名人でもない普通の人々のnoteにたくさんのスキがついているということが客観的に明らかになっているので、そこには何らかの理由や説明が存在していてもいいはずです。
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この疑問に対して、今の私はちょっとした仮説を持っています。それは以下のようなものです。
文章を書くというのは、それなりに大変な作業である(書くことが好き、書くことが楽しいというのは、大変でないという意味ではない)
しかも、頑張って書いたところで別に儲からないし、特に褒められない
それなのに書くということは、それは本人にとってわざわざ書くだけの価値がある話である
つまり、そのテーマは本人にとって「真剣に悩むだけの価値があるもの」か、シンプルにその対象に「愛がある」かのどちらかである
noteの画面を日常的に開いている人というのは書き手の人が多いですから、最初の「大変さ」について長々と説明する必要はないでしょう。ただ娯楽がほしいだけなら、ソファで横になって1日に40時間でもスマホを触っていればいいんです。
普通の人々にとって、ブログやSNSやnoteというのは仕事ではありません。仕事だからいついつの締め切りまでにこれだけやらなければならない、といった理由は何もありません。それでも私たちは何かを書き始めてしまいます。白紙のページを何度でも新しく開きます。私たちの中には、そのページを埋めていくだけの価値がある何か、昼も夜も考え続けずにはいられなかった何かが存在しているからです。それはまだ文章以前のモヤモヤとした内面の世界、思考と感覚の断片であり、文章という形で外の世界に定着させられるのを待っています。
仕事というのは、やらなければ生きていけませんね。お金がないと死んでしまいます。そして、割合的には少数ですが、ある意味では「書かなければ生きていけない」という人も世の中にはちらほら存在しているようです。
私たちが本当に書きたいと思っていること、本当に読みたいと思っていることはその点にあるのではないでしょうか。私たちはそうせずにはいられないから書くし、他の人々に「そうせずにはいられない」と思わせたものが何なのかを知りたいと感じています。
通常、生きるということには苦労が多く、苦痛が多く、面倒ごとが多いものです。どうでもいいようなことをやるための時間的な余裕、心理的な余裕、体力的な余裕を持ち合わせている人というのはほとんどいないと思いますが、人の書いた文章の中には「それでも表現したい」という感情の痕跡を見つけることができます。
やりたくもない仕事と生活上の雑務ばかりの多忙な毎日の中で、それでも書きたいと思ったこと。私たちはそういう話を聞きたいと思っているんです。
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生成AIを使って何か記事を作るなら、自分自身は何も大変な作業はせずに済みます。
AIはそこらの百科事典を軽く凌駕する量のテキストデータを学習していますから、適当な生活上のテーマを指定して(たとえば「忙しい朝の食卓の時短テクニック」「転職先の企業選びで必ずチェックしたい3つの項目」「30歳までに読んでおくべき海外文学の古典的名作10選」)、数分で読める程度のnote記事を量産していくということもできるでしょう。
実際にそうしている人もいます。ゴミみたいな記事ばっかりですね。きっとみなさんも見覚えがあると思います。今しているのは「他人の主観的な感じ方、考え方、価値観に対して、私たちは主観的な面白みを感じるのだ」という話ですが、こうした量産記事というのは客観的な観点からもゴミなんです。意味のある形で整理されていた情報(=学習元)が元々どこかにあって、それをバラバラに分解して適当に混ぜ合わせて再びそれっぽく成型したというだけで、意味のある「情報」というものが(主観的なものであれ客観的なものであれ)何も新しく付け加えられていないわけですから。
反対に、少しでもその人の感想や感情が付け加えられているのなら、それがただの主観であっても、上手にまとめられていなくても、それは意味のある文章です。客観的な意味や情報としての実用性ということとは無関係に、そこには本人にとって無意味ではなかった何かが含まれており、他の人々は(もしかしたら運のよい少数の人たちだけが)そこに何があったのかを読み取ることができます。
個人的な調べものをする際ならば、AIによる情報の再要約という処理にも意味はあるし、実際に仕事上や趣味の時間で役に立ってくれることはそれなりにあります。その点で、AIという道具が優秀かつ有用である点は否定していません。しかし、それをインターネットの海に放流するというのは環境汚染以外の何物でもありません。やめましょう。
あなたにとって大切なことだけを見せてください。
関連書籍
「主観的な価値だけがその人の生きる意味の根拠となってくれる」という点は、今年の3月に出した書籍「人生の意味のつくり方」の中心的なメッセージでもあります。
400ページ超(20万字)というアホのボリュームになってしまったので、私にここまでやらせてしまったものは何なのかが気になる方はぜひ読んでみてくださいね! noteでは「試し読み版」も公開中です。
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