愛なき世界を作り上げたのがおれたちだとして、他の誰がそれを治せるっていうんだ?
元日くらいはゆっくり読書をしたくなって、1冊の本をカバンに放り込み、近所の行きつけのコメダ珈琲店に向かいました。お正月からお店を開けて回してくれている店員さんたちに感謝しつつ…。
カバンに入れたのは、クリシュナムルティの「子供たちとの対話」という本です。仮に私の生き方や考え方に最も影響を与えた本を3冊挙げるとしたら、それはラッセルの「幸福論」、鈴木大拙の「禅」、それから最後にこの本ということになると思います。どれが1位だということは決められないのですが、少なくとも4番目以降とこの3冊の間には明確な距離があるような気がするんです。
これらの本が私にとって特別である理由の一つは、何回読んでも、何歳になって読み返しても新しい学びが尽きないという点です。こういう年末年始のように、忙しい日々の合間に「ふと我に返る」みたいなタイミングのときには特に手に取りたくなります。
この社会で忙しく生活を回していると、うっかり正気を失いがちなところってどうしてもあると思うんですよね。そこで、自分を正気に引き戻してくれる何かというのが誰にとっても必要なのだと思います。それは友達でもいいし、港の景色でもいいし、古典文学でもいいんです。
私たちを自己の閉じた世界から引っ張り上げてくれるものであるなら、それは何でも。
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「子供たちとの対話」という本は、クリシュナムルティ(以下K)自身がインドに開設した学校にて行われた連続講話をまとめたものです。講話の時期は1960年前後とのこと。学校の生徒だけでなく、同じ場所に集った保護者や教師といった立場の人々にも同時に語りかけられている点が特徴です。
この本の中から、他のどのページよりも強い印象を残す一節を引用してみます。講話後の質疑応答の時間を切り取った部分です。
Q — なぜ私たちは何にも決して満足しないのでしょう。
小さな女の子がこのような質問をしています。誰かに促されたわけではないと思います。彼女のような幼い年頃に、なぜ何にも満足できないのかを知りたがっているのです。あなたたち大人は何と言うのでしょう。これはあなたたちのしわざです。あなたたちが、女の子がなぜ何にも満足できないのかと問うような世界を出現させたのです。あなたたちは教師のはずですが、この悲劇が見えていません。瞑想はするけれども、鈍く、疲れて、内的に死んでいるのです。
人間はなぜ決して満足しないのでしょう。それは、いつも幸せを求めていて、絶えまない変化によって幸せになれると考えるためではないですか。ある仕事から他の仕事、ある関係から他の関係、ある宗教や思想から他のものへと移り、この絶えまない変動によって幸せが見つかるだろうと考えます。そうでなければ、生の溜り水を選択し、そこで停滞してしまうのです。
藤仲孝司訳、平河出版社、1992年、p.40(強調は引用者)
ここで「あなたたち」という言葉が使われるのは、Kの話し方としてはちょっと珍しいのですよね。彼は基本的に「私たち」の話をする人です。
どういうことかというと、政治や国家や資本主義社会の腐敗みたいな話題にはときどき触れられるとしても、そこで見られる野心や残酷さというのはこの世のあらゆる人々が抱える共通のものであって、彼はそこに「素朴で善良な市民」と「強欲で圧政的な権力者」のような対立構造をでっち上げたりはしないんです。
俗っぽいものであれ精神的と称するものであれ、この世では誰もが安心を約束してくれる権威を求めているし、お手元のスマホでSNSを開いてみればわかるとおり、我々は本当に他人と言い争うことが大好きです。別にそれは社会の中で実効的な権力を持っていようがいまいが同じなのだということですね。自分が偉くないときには偉い人間を憎いと感じますが、自分が偉くなれるなら喜んでその地位に座りたいと思うでしょう。
これは私たちが政敵や論敵として想像したがっている特定の誰かの問題ではありません。それはあなたの問題であり、私の問題であり、「自分以外の誰か」の問題ではないわけです。ところが、自己の問題に向き合いたくないとき、人は他人や社会の中に問題を見出そうとしてしまいます。まったくありふれた話なのです。
K自身が学校の運営に関わっている以上、先の引用の「あなたたちのしわざです」はK自身も含めた教育関係者と保護者の全員、つまり「子どもたちに対して責任を持っているはずの私たち」に自覚を求めたものだと考えてよいと思います。想像上の悪者についてあれこれ言うことには意味がないからです。
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自分の思想をAとし、相手の思想をBとして、Aが正しくてBは間違いなのだと主張されることがあります。すごくよくあります。
しかし、主張のぶつけ合いというのは理解を生まないんです。議論に勝とうとするなら、相手のあら探しや揚げ足取りをすることはあっても、「相手を以前よりももっと深く理解する」ということは必要な仕事の一覧に含まれていないからです。
どのような思想やイデオロギーも、生身の人間である自己というものを理解させはしないし、同様に生身の人間である他者を理解させはしません。それが理解されうるのは、私たち自身がそれを「理解しよう」と言い始めて、実際にそれを試み始めたときだけです。そして、この世のどのような問題も、問題そのものが正確に理解されないままに解答や解決だけが与えられるということは絶対にありません。
私たちの生きている世界というのはかなりひどいものだと思うのですが、病巣は私たちの中にあって、外にあるのではないので、打ち倒すべきものが外の世界に存在するわけではないんですね。そもそも、それは打ち倒されるべきものではなくて、理解されるべきものなんです。倒すべき敵は最初から存在していません。
これは現実に山ほど存在している社会問題の数々を無視しているわけではないし、そこに対する政策的な議論とその実行が必要ないと言っているわけではないです。それでも、問題の根本を見ないなら、それは穴の空いたバケツに水を注ぎ続けるのと同じでしょう。
穴は私たちの中にあって、それはあなたや私の中にある空しさ、満たされなさといった終わりのない感覚を指します。その点が理解されない限り、いかなる論争も私たちの抱える問題を真に解決してくれることはないということです。
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問題の根本に向き合うこと、そこに安易な答えが存在しないという事実に向き合うこと。問題を解決したいのなら、その問題を理解すること。
これは私が本を書いたりnoteを書いたりするときの基本的なスタンスですが、どこでそれを学んだのかというと、おそらくそれはKの本によってではなかったかと思います。冒頭で触れたように、20世紀イギリスの知の巨人であるラッセルのスーパー論理的な哲学スタイルにもかなり影響を受けましたが、Kの指摘するような「言葉の議論の問題ではない」ということも同じ程度に重要だと感じています。
この世界を愛のない世界だと見なすとき、誰が「自分の中にはそれがある」と主張できるのでしょうか。結局、愛というのは抽象的なイデアの世界にあるのではなくて、あなたや私が現実に他人に対してどのように振る舞うかという問題でしかないようにも思われます。
一般に、哲学というのは本質的で普遍的な真理について語るものだと考えられています。そこで、科学的に厳密な真理の話は別として、仮に人間にとっての真理や本質や普遍性と呼べるようなものがどこかにあるとしたら、それは我々自身の現実、我々自身が生きる世界の中に見出すべきものなのではないでしょうか? それとも、それは単なる机上の空論、架空の概念、存在しない夢の国の話でしかないのでしょうか?
この世界が実際にかなりひどいものだったとしても、そこに加担しているのは他ならぬ私たちなのだから、それがひどいものであってほしくないなら、私たち自身がひどくないものにならなければならないでしょう。世界が正気であってほしいのなら、まず私たちが正気に戻るべきです。
書き手として、私はこの生きづらい社会を少しでもそうでないものにしていくために、ほんのわずかでもいいので、何らかの意味のある仕事がしたいと思っています。勝った負けたの表面的で無益な議論ではなく、もっと深いところに、誰かの胸の奥に届くような問いかけの言葉を書きたいと思っています。今回はその点を少し具体的に宣言したいと思って記事を書き始めました。
ひとまず、これが私の新年の抱負ということになりそうです。
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