代弁としての信仰──言葉を借りて神を語る神学
※この記事は、信仰の在り方について考察する一つの試みです。信教・思想・良心の自由を尊重しつつ、キリスト信仰を見つめ直すための一つの視点としてお読みいただければ幸いです。
1. はじめに──「信仰の強度を借りる」という営み
信仰は、言葉を介して表現されるものと言うことが出来ると思います。
私たちは、自分の心の中にある信仰について、何らかの形で言語化しようとするものだと思われます。
しかし、そのとき私たちが使う言葉は、必ずしも「自分が創り出した言葉」ではないことでしょう。
多くの場合、先人の言葉、伝統にある言葉、聖書の言葉を借りて語っているものではないかと思われるのです。
これは決して不誠実というようなものではなく、むしろ信仰における誠実さの証明であるようにも思われます。
なぜなら、そもそも信仰とは「自分の内にないものを信じる力」であるようにも考えられるからです。そのため、他者の言葉を借りるという行為は、信仰という営みの内にそもそも含まれているもののように思われるのです。
個人的に、聖書の無誤性という概念に関しては、受け入れきれない部分が有ります。
もちろん、「無誤」という言葉の定義の仕方次第によっては「無誤」という言葉を受け入れられるようにも思われます。
しかし、聖書の中にある全ての言葉が一言一句すべて正しい「真実」として受け取ることは、かなり厳しいものがあるようにも思っています。
一方で、聖書の無謬性──すなわち救いに関してあやまりがないというような理解──には深い真実性を見ています。
その上で、キリストの復活の事実性を重んじる「復活派」という立場を掲げています。
この立場から見て、最近は「聖書無誤派」に見られるような信仰姿勢を理解して、その強度を借りるということをすることがあります。
例えば以下の記事も、その典型的な例だと考えています。
この行為は、個人の信仰を装うというようなことではなく、他者から学んだ信仰を媒介して、キリストの福音をより明確に伝える行為であるようにも感じているのです。
2. 三つの信仰構造──無誤・無謬・復活
信仰の理解には、いくつかの層があるとも言えるでしょう。
聖書無誤派
聖書の原典にある記述には全く誤りがないものと信じ、聖書は、文字通りの意味で完全であるとする立場。聖書無謬派
聖書は、救いの方法と信仰の核心において、あやまりがないと信じる立場。文化的・人間的な要素による限界についても認めることが可能。復活派
キリストの(贖罪と)復活の事実性を信仰の中心に据え、それを基軸にして、神の救いを解釈しようとする立場。
この中においては、聖書無謬派、復活派に近い立位置にいるものと考えています。
しかし、聖書無誤派の信仰には、独自の明確さと強度があり、キリストの贖罪と復活を語る時には、この立場を一時的に「借りる」ことで、神の福音についてより信仰をもって、提示することが出来るということがあります。
3. 聖書無誤派の強度──断言ということが可能な信仰
聖書無誤派の人々は、聖書の記述を文字通りの真実として受け取ろうとする信仰を持っています。
その信仰は、「神が語られた言葉である聖書に誤りはない」という信念に支えられているものと言えます。
その想いの強さは、単に頑固さというようなものではなく、神の主権に関する全面的な信頼という信仰の純粋さにあるようにも考えられます。
現代のように、すべてのことが相対化されやすい時代において、この明快な信仰の強度は貴重であるようにも思います。
だからこそ、この立場にある言葉を借りることが出来るように思うのです。
それは、その立場に有る信仰の力を利用するというよりも、神の真理をより明瞭に伝えるための共同の言葉を持てるように思われるからです。
4. 立場を借りることは不誠実ではない
「自らの立場と違う立場の信仰を前提に語ることは、不誠実なのではないか」と思う方もいるかもしれません。
しかし、それは違うのではないだろうか、とも思います。
なぜならば、これは「信じているふり」ではなくて、他者の信仰を理解して代弁することだと考えられるからです。
思想や哲学においても、ある前提を仮に置いて議論を進めていくということは正当な方法とされています。
信仰(神学)でも同じだと考えています。
「もしもこの信仰の立場(前提)に立つならば」という条件下で語ることは、理解と共感の行為でもあり、知的・倫理的な誠実さに基づく営みであると思われるからです。
5. 代弁というものについて──日常に根づく構造
実は、「代弁」というものは私たちの日常の中に多く存在しています。
「あの人は、こう言っていたよ。」
「先生は、こう言っていたよ。」
「あの本(教科書、インターネット、AI)では、こう書いていたよ。」
このような日常でよく聞く言葉は、すべて他者の意見を代弁しているものと考えることが出来ます。
私たちは、他者の言葉を借りて話すことで、生活や世界について学び合っていると言えると思われるのです。
信仰の世界も同じです。
「神学者が、こう言っているよ」
「使徒パウロ(聖書)が、こう書いているよ」
「キリストが、こう言っているよ」
と述べるとき、私たちは、それらの言葉を再びこの時代の中に響かせていると言えるのだと思います。
それは、代弁によって信仰の言葉が受け継がれているということを意味しているように思われるのです。
6. 使徒の代弁者としての信仰者
また、実は、このようなことを言うことも可能だと思われます。
キリストの贖罪と復活を語る者は、すべて使徒たちの代弁者です。
そして、信仰において、使徒ペトロや使徒パウロにおいても、神の福音を独自に創造したのではないと考えられます。
使徒たちもまた、聖なる霊によって神の言葉を受け取り、それを代弁したと考えることも出来るように思われるのです。
現代の信仰者が「キリストは復活された」と語るとき、それは新しい言説ではなく、およそ2000年前からの言葉を代弁していると言えるのです。
信仰とは、この代弁の連鎖の中に生きることと言えるのかもしれません。
信仰者はそれを「伝統」と呼ぶことも出来ますが、本質的には「神の福音を代弁し続けること」と言うことも出来るように思われます。
7. 聖書そのものも「代弁の書」
信仰においては、ここで、また他の洞察も生まれます。
聖書無誤派の方々が好む「聖書の言葉をそのまま並べるという信仰の形」こそ、代弁の本質を最も純粋に表す行為であるというような見方です。
聖書の言葉をそのまま並べて語る人々は、決して自分の理解を誇っているわけではないものと思われます。
むしろ、自らの限界を知っていると言えるようです。
「自分の言葉ではなく、神の言葉である聖書に頼りたい」という強い思いがある。自分の言葉を退け、聖書の言葉そのものを借りて語る。
それは「依存」というよりも、「代弁の純粋化」と考えられるようにも思われます。
8. 聖書著者たちもまた代弁者だった
預言者たちは、「主は言われる」という言い方を繰り返していました。
使徒たちは、「主の言葉が示された」というように証言していました。
聖書著者たちも、神の意志を完全に理解していたというわけではなかったと言えることでしょう。
しかし、聖なる霊に導かれ、その瞬間に神の言葉を代弁したというようにも考えられるのです。
したがって、聖書そのものが「代弁の書」であり、現代の信仰者が聖書を引用して語るときには、その人もまた同じ代弁の連鎖の中に入っていると考えることが出来るように思うのです。
そして、この鎖は、預言者、キリストから始まり、使徒、教父、改革者、教職者、現代の信徒たちへと続いているものと見ることも可能でしょう。
信仰とは、この代弁の連鎖に参加することであるとも考えられるのです。
9. 「聖書無誤派的な信仰」は媒介の強さでも有り得る
聖書無誤派のように、聖書の中にある言葉を一言一句において信じることは、知的には単純であり、愚かなように見えるものかもしれません。
しかし、実はそれは、媒介の強さを持つ信仰と言えるのかもしれません。
自分の言葉の存在を小さくし、聖書の言葉に自分を預ける。
これは、聖書の言葉に対する信頼の表れと言えることでしょう。
「神が語られた」と信じて聖書の言葉を引用することは、その信仰者を媒介としつつ、神を語ることであると見ることができるようです。
それはまるで、人間的な理性の限界を超えた、代弁的な信仰の極致であるようにも感じられます。
10. 神学者もまた代弁者で有り得る
学者がどれほど精緻に聖書を分析したとしても、最終的に語るのは「聖書の言葉の内にある意味」についてのものだと考えられます。
つまり、神学者もまた代弁者という理解になると思われるのです。
無誤派も、無謬派も、復活派も──
それぞれが異なる形で代弁している。
そのように見るとすれば、形式の違いはあっても、本質的には同じです。
信仰者の誰もが、神の言葉の翻訳者であり、媒介者であり、代弁者であると考えられるように思うのです。
11. 「言葉が肉となる」という構造の中で
ヨハネによる福音書1章は、「言葉(ロゴス)が肉となった」と記します。
この意味においては、言葉(ロゴス)=神の真理=キリストが、人間という姿かたちを取って、人間への代弁という形でこの世に現れたということを語っていると言えます。
預言者は神の言葉を預かる者として語り、キリストは父なる神の代弁者として生まれ、使徒はキリストの代弁者として語り、私たちはその連鎖の中で再び神の言葉を代弁していると理解することが出来るようです。
信仰とは、この「神の言葉の継承=代弁の鎖」に参加することに思われます。
その鎖のどこに立っていても、私たちは同じ言葉(ロゴス)の流れの中にいるようです。
それもまた、信仰共同体(エクレシア、教会)の本当の姿と言えるのかもしれません。
12. おわりに
信仰とは、神に関する言葉を借りて、神を語ることと言うことが出来るのかもしれません。
それゆえに、聖書を引用して信仰を語ること、あるいは他者に見られる信仰の言葉を借りて語ることは、いずれも「代弁」という同じ行為であるようにも思われるのです。
聖書無誤派的な信仰を持つ方が聖書の言葉をそのまま書き並べるとき、それは、自分自身を聖書の言葉への媒介者にするという信仰を実践していることになるようにも思われます。
そして、その信仰の姿勢と言葉を理解しようとし、その強度を借りて、再び神を語ろうとするとき、その連鎖はさらに一つ延びてゆくように思われるのです。
信仰とは、断絶ではなく連続。
創造というよりも継承。
そしてその継承に見える形が「代弁」と言えるのかもしれません。
神の言葉は、人を通して語られ、人を通して続いていく。
私たちはその一つの鎖として、今日もまた、神を語り継いでいると言えるのかもしれません。
