「聖書はすべて正しい」と信じる人たち──その信仰の強さと神の摂理
※この記事は、信仰の在り方と教派を超えた一致について考察する一つの試みです。特定の教派や立場を断定的に語るものではなく、信教・思想・良心の自由を尊重しながら、キリストの福音の本質を見つめ直すための一つの視点としてお読みいただければ幸いです。
1. はじめに──立場の違いに関して
キリスト教には、聖書の読み方や理解の仕方において、さまざまな立場があります。
その中でも、「聖書無誤派」と呼ばれる人々は、聖書を一言一句まで誤りのない神の言葉として信じています。
一方、そうした立場に立たず、聖書を、時代に制限されていた人間が神の霊感を受けて書かれたものとして読み取る立場もあります。
この違いは、信仰の形を分ける大きな線の一つですが、その違いが必ずしも対立や断絶を意味するわけではないと考えることも可能です。
むしろ、信仰の目的──すなわち、キリストの贖罪と復活を信じ、伝えることにおいては、同じ方向を向いていることが多いとも考えられます。
神は、異なる立場を通してもご自身の御心を実現されるといいます。それは、教会史の中において繰り返されてきたと見られる事実でもあります。
そしてそれは、まるで、異なる信仰理解も、福音の一点において一つになり得るということではないでしょうか。
2. 聖書無誤派の特徴──信仰の熱と行動力
現代社会において、聖書無誤派の信仰は批判の的になることがあります。
「科学と合わない」「文字主義的だ」と評されることもあるかもしれません。
しかし、そのような外的な評価を置いてみるとするならば、聖書無誤派の信仰には、現代のキリスト教においても、特筆すべき力強さがあるとも言えます。
それは、信仰に対する情熱と、伝道における行動力です。
聖書を文字通り信じるがゆえに、「この世界、人間には救いが必要である」という信仰を堅く抱いています。
その信仰は、単なる知識や理論を超え、「行動せずにはいられない信念」へと結実しているのです。
実際、世界中で新しい信徒を獲得している教会の多くは、何らかの形で聖書無誤派的な要素を持っていると理解することも出来ます。
街角での伝道、地域奉仕、福音集会、宣教活動──そのどれもが、「神の言葉に真実がある」という信仰から出ています。
信仰理解としては原初的と言えるのかもしれません。しかしその信仰が、人々に希望を与え、「信じる」という決断を促しているのです。
新約聖書に基づいて判断する時、この点において、聖書無誤派の働きは、明らかに顕著な善を生んでいると評価することも出来るでしょう。
3. パウロの視点──動機の違いを超える福音の力
使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙の中で、このような言葉を残しています。
ある人たちは妬みや争いの心から、またある人たちは善意からキリストのことを宣べ伝えています。しかし、どんな理由であっても、キリストが宣べ伝えられているのならば、そのことを喜びます。
パウロは、動機が良いものであろうとなかろうと、「キリストが伝えられる」という結果そのものを喜んでいました。
この視点に立つならば、周辺的な理解は差し置いて、聖書無誤派の積極的な活動を、「神の国の拡がりに寄与する働き」として前向きに受けとめることが出来るように思われます。
そうだとすれば、たとえ聖書無誤派の歴史理解が誤りを含んでいるものであったとしても、その中心に「キリストの救いを伝える」という熱意がある限り、その働きは神の目には善として記録されると考えられるのではないでしょうか。
つまり、神は「誤り」をも超えて働かれる方であり、誤りの中にあっても福音の真実があるということが可能であると考えられるのです。
4. 現代日本における信仰の現場──少数の中の熱き者たち
日本のキリスト教徒は、人口のおよそ1%ほどであるとも言われます。
その中で、街頭に立ち、トラクトを配り、祈り、伝道する人々がいます。
彼らの多くは、聖書無誤派、あるいはそれに近い信仰理解を持つ人々です。
聖書無誤派は、世の常識の中では、奇異に見られることもあります。
しかし、その姿はある意味では「信仰とは何か」を最も率直に表していると見ることも可能です。
見えないものを信じ、語り、行動するという行為そのものが、信仰の原型であるとも思われるからです。
その立場にいる人々の中には、社会的な地位や名誉を求めず、ただキリストの福音を伝えるために人生を捧げている人も多くいます。
それは、理論的には誤りを含むものかもしれませんが、実存的には真実な信仰を持っていると考えることも可能でしょう。
日本という世俗化している社会において、このように「信仰の熱」を保ち続けること自体が、神の働きの一部であるように感じられることもあります。
5. 協働の可能性──理性と熱意の共存
信仰の世界においては、理性的な探究と情熱的な信仰が対立してきたものであると捉えることが出来るようにも思われます。
しかし本来、それらは補い合うべきものであると考えることも可能かもしれません。
聖書無誤派にある「熱」と、そうでない立場にある「人間的な理性」。
この両者が交わるとき、健全なバランスを取り戻す可能性があるとも言えるのかもしれません。
熱意ある信仰は、人間の理性によって深められ、理性的な信仰は、熱意によって生きた力を持ち得る。
一方が他方を否定するのではなく、「異なる立場でありながらも同じ神に仕える」という自覚を持つことが、現代におけるキリスト教復活の鍵と言えるのかもしれません。
それは、教理の妥協ではなく、目的の一致。「キリストを伝える」という点において、異なる信仰理解の者たちが協働できる可能性を開くものであると考えられます。
6. 神の摂理──誤りをも用いる知恵
旧約聖書でも新約聖書でも、神は「不完全な者」を用いておられました。
モーセの焦り、ダビデの過ち、ペトロの否認──
いずれも神の計画を妨げるものではなく、神の栄光を際立たせる契機であり過程となったと捉えることも可能です。
同じように、今日においても神は、人間の信仰理解の違いをも超えて働いておられると考えられるようにも思います。
誤りがあるなら、それさえも用い、対立があるなら、それを通しても学ばせることが出来る。それが神の知恵のようにも感じられるのです。
神を愛する人々には、すべてのことが共に働いて、善となります。
この新約聖書の言葉は、まさにこの問題に通じているように思われます。
神は、信仰の熱も理性の探究も、共に働かせて、善に至らそうとしているというようにも感じられるのです。
7. おわりに
もしキリストの贖罪と復活が真実であるとするならば、その真実は、どの立場の信仰を通しても語られることがあり得ると言えます。
神は、一つの立場の中のみにおられる方ではなく、あらゆる器を通しても、語ることが可能だと考えられるのではないでしょうか。
聖書無誤派の情熱、そうでない立場の探究、その両方が神の義のために用いられるとするならば、そこにいる私たちは対立ではなく、協働へと招かれていると考えられるのではないでしょうか。
人間の誤りや偏りを超えて働かれる神の力を信じ、お互いの中にキリストの真理を見ることができるとするならば、それこそが「一致の恵み」であり、誤りを含み得る善とはまた別にある、共に仕える善の姿であると考えられるのではないでしょうか。
