誤りを超えて働く神──聖書無誤派の信仰をめぐって
※この記事は、特定の教派や立場を断定的に語るものではなく、信仰の在り方について考察する一つの試みです。信教・思想・良心の自由を尊重しつつ、あくまで一つの視点としてお読みいただければ幸いです。
1. はじめに──中心はどこにあるのか
前提として、この記事においては、聖書無誤派、つまり一言一句まで、その記述が歴史的に正しいという立場には立たないものとします。
聖書は神の霊感に導かれて書かれたものと言えるとしても、人間の歴史・文化・言語の中で形づくられた文書群であり、その成立過程には多くの人間的要素が関与しているということを強調することも可能だからです。
しかしその一方で、この記事において、キリストの贖罪と復活の事実こそ、信仰の中心にあるという理解を残すものとします。
この一点において、聖書の価値は無限であり、この中心を守ることこそが、キリスト信仰の根幹だと考えるとします。
その前提に立って、この記事において考察したいのは、このことです。
聖書無誤派の方々について、どのように評価することが出来るのでしょう。
2. 歴史的誤りを含み得る信仰──立場に有り得る限界
先述の通り、聖書無誤派を、聖書の一言一句の記述が、歴史的な意味などにおいても全く誤りのない神の言葉として捉える立場と考えてみます。
その立場は、神の全能と完全性を根拠にして、聖書そのものを完全な啓示と見なすでしょう。この姿勢は、神の言葉への絶対的信頼の表明として、ある意味において極めて敬虔であるように思います。
しかし、歴史的な観点から見ると、聖書の文書群には、文体や思想の変化、歴史理解の揺らぎなどがあるようにも見られます。
たとえば、創世記の天地創造や洪水の物語は、古代オリエントの宇宙観と共有点を持つと言われることもあります。また、四福音書の記述において、細部の違いが有ります。
こうした事実を踏まえれば、「一言一句が無誤である」と主張することは、ある意味で、人間の主張可能な限界を超えていると考えることも出来ます。
つまり、歴史的な正確さという観点からは、聖書無誤派の立場は誤りを含んでいる可能性があるというように見ることも出来ます。
しかし、ここで問題になるのは、誤りの存在そのものが信仰の価値を損なうものなのかという観点でもあると思います。
3. 福音を伝える熱意──行為としての善
聖書無誤派の方々は、聖書の言葉を文字通りに信じ、そのままの形で人々に伝えようとします。その姿勢は時に熱狂的に映るかもしれませんが、むしろ愛と使命の表れと見ることもできるでしょう。
キリストの復活を信じ、そのことを告白し、他者にも伝えようとすること──それ自体は、新約聖書全体を貫く中心的な価値観です。
使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙でこう語っています。
あらゆる方法によって、キリストのことが宣べ伝えられています。
そのことは私を喜ばせていますし、これからも喜ぶと思います。
この一節は、伝道の動機がどのようであれ、結果としてキリストが伝えられるならば、それは善であるという立場を示しています。使徒パウロは、神の真理を伝えるという目的において、形式や立場の違いを超えていました。
したがって、聖書無誤派の人々が、たとえ歴史的理解や科学的知識において不完全であったとしても、キリストの福音を伝える限り、その行為は神の前においてなお善であると評価できるのです。
さらに言えば、この箇所を聖書無誤派的に読むとするならば、これこそが神の御心であると理解できるでしょう。すなわち、「どのような仕方であっても、キリストが宣べ伝えられるならば、それは善である」と。
4. 自然主義的視点──外から見れば幻想
一方で、全くの科学的・自然主義的な立場から見れば、聖書無誤派の信仰は「非合理的」「迷信的」と映り得ることでしょう。
古代の宗教文書を現代の科学的真理と同等に扱うことは、知における誤謬と見なされることもあるでしょう。社会的には、宗教的な幻想を信じて行動する集団のようにも見えるかもしれません。
しかし、このような批判的見方の中でも、聖書無誤派の倫理的行為は残ると言えます。
祈り、他者への奉仕、献金、慈善、伝道──いずれも他者の幸福を願う愛の実践であると捉えることが可能です。
もしその背後に「神への信頼」と「隣人への愛」があるとするならば、たとえ信仰の内容が誤っていたとしても、その生き方自体は倫理的に尊重されるべきであるとも言えます。
ここに「信仰の構造的な逆説」があるとも考えられます。
外から見れば虚構であったとしても、内側では真実に生きている。
そして、神が実在し、もしもキリストの復活が真実であるならば、聖書無誤派の信仰も、その中心においては誤っておらず、「結果として真理を担う善」となり得ます。
5. 神学的な評価──誤りの中にある善
聖書によるならば、神は人間の誤りを通しても働かれるものと考えられます。モーセの焦り、ヨナの逃亡、ペトロの否認──いずれも神の意志に反する行為であったとも解釈できます。しかし最終的には、それらも神の計画を進める出来事となったと見られます。つまり、神は人間の不完全を通しても完全をなされると考えることが可能です。
この観点に立つとすれば、聖書無誤派の信仰もまた、誤りの中で用いられている可能性があるとも言えます。
もし聖書無誤派の熱意や行動が人々をキリストへと導くのであれば、その行為は、神の働きの一端であると見ることが出来るでしょう。
人間の誤解をも神は目的のために用いられるとも言えます。
使徒パウロのローマ書は、このように語りました。
神を愛する人々には、すべてのことが共に働いて、善となると、私たちは知っています。
この「すべてのこと」の中には、誤りも、未熟も、過信も含まれる。それらを通してさえ、神の摂理は働く。
そうするとすれば、聖書無誤派の信仰も、誤りがあるとしても善を生み出す信仰として理解することが出来るように思います。
6. 誤りをも超えて働く神
結局のところ、聖書無誤派の信仰は、歴史的・学問的には誤りを含み得るが、キリストの贖罪と復活を信じて伝えるという目的においては、明らかに善であると考えることが可能です。
人間の知識の不完全さを超えて、神はその中でご自身の真理を伝えられることがあると考えられます。
もしキリストの福音が真実であるならば、それを伝えるすべての行為──たとえ形式や理解に欠けがあったとしても──は、神の喜ばれる働きであると考えられます。
誤りを含む信仰であったとしても、誠実にキリストを伝える者は、神の御手の中にあるという理解です。
人は外の姿を見るものです。しかし、神は心を見るものといいます。
神は、物事に対する正確な理解よりも、誠実な信仰の心を尊ばれると考えることも出来そうです。
7. おわりに
私たちは皆、何らかの誤りを抱えながら生きていると言えるでしょう。
聖書無誤派も、そうでない考え方も、神を完全に理解することは出来ません。けれども、キリストの贖罪と復活を信じる心があるとすれば、その中心は一つであると考えることも出来ます。
信仰の真実性は、知識の正確さによるのではなく、向かう方向の誠実さによって確かめられるとも考えることが出来そうです。
神は、誤りの中にあったとしても、善を行う者を見ておられると考えることが出来るように思えます。
もしキリストの復活が真実であるとするならば──聖書無誤派の方々もまた、その誠実さにおいて、神の国の拡がりに仕える「誤りを含み得る善」として記憶されることになるのだと思われます。
