聖書無誤派をめぐる考察──無誤と無謬のあいだで
※この記事は、特定の教派や立場を断定的に語るものではなく、信仰の在り方について考察する一つの試みです。信教・思想・良心の自由を尊重しつつ、あくまで一つの視点としてお読みいただければ幸いです。
はじめに
「聖書無誤派」という言葉は、聖書主義の中における、一つのはっきりとした立場のことを指しています。
この立場の方々は、聖書は原典において一言一句誤りがなく、そこに神の完全な言葉が宿っていると信じます。
その信仰は非常に真剣なものであり、長い年月にわたって数多くの教会を支えてきたものと言えます。
しかし同時に、「無誤」という言葉そのものがどのような意味で用いられているのかを考えることは、避けて通れない問題であると思われます。
日本語における「無誤」と「無謬」
日本語の「無誤」と「無謬」は、どちらも「あやまりがない」という意味を持ちますが、そこには微妙な違いがあると言えます。
「無誤」とは文字通り「誤りが存在しない」という意味で、文章や事実、記録などが完全に正確であることを意味するでしょう。
一方、「無謬」とは「謬り(あやまり)なし」、つまり判断や導きが正しいことを意味するでしょう。
「無誤」は固定的な「正確さ」を、「無謬」は流動的な「信頼性」を表しているように思われます。
この違いを踏まえると、「聖書の無誤性」と「聖書の無謬性」は似ているようでいて、焦点の置き方が異なることが分かります。
「無誤性」は聖書の内容そのものの正確さを重んじるもので、「無謬性」は聖書の信仰的・倫理的信頼性を中心に据えるものであると考えられます。
この微妙な差が、「聖書の権威」をどのように理解するかという問題に直接関わってくるものと思われます。
聖書の権威とは何か
聖書主義において、「聖書の権威」とは、信仰の中心的な概念です。
しかし「権威」という言葉は、意味が曖昧なまま用いられることが多いように思われます。「誤りがない」ことを意味するのか、それとも「謬った方向へ導かない」ことを意味するのか、この言葉を使い、受け取る人によって、定義が揺れるもののように見受けられます。
「誤りがない」ということを意味しているのが「無誤性(inerrancy)」であり、「謬った方向へ導かない」ということを意味しているのが「無謬性(infallibility)」であると考えられます。
無誤性は聖書の内容の事実的正確さを重んじ、無謬性は聖書の信仰的・実践的信頼性を守ろうとするものと考えられます。
どちらも聖書を尊ぶ立場ではありますが、着目するポイントが異なると考えられるでしょう。
無誤派の信仰とその形成の歴史
「聖書無誤派」の自覚は、近代以降の理性主義や科学主義が広がる中で形成されていったようにも捉えられます。
「聖書の権威」が相対化される危機の中で、「全く誤りのない神の言葉」という信仰は、聖書への信頼を守る防衛線として機能していたものと考えられます。
特に20世紀のアメリカでは、聖書批評学や自然主義に対抗する保守的なプロテスタント神学者たちがこの立場を強く打ち出し、1978年には「聖書の無誤性に関するシカゴ声明」が発表されました。
この声明の中で、「聖書は、原典において、すべての教えにおいて誤りも欠陥もない」と合意され、集まった保守的なプロテスタント神学者の中における信仰の方向性として受け入れられたとされます。
しかしながら、この声明も神から直接与えられた啓示とまでは断言できないようにも思われ、人間の会議によって合意された声明であるという受け取り方は重要であるように思われます。
この会議では、多くの神学者が議論を重ね、最終的に出席者の多数派による決定として文言が採択されたものと思われます。
つまり、この合意も、特定の時代と文化の中で生まれた信仰的合意であると考えることも可能に思われるのです。
無謬性というもう一つの理解
一方で、「聖書の無謬性」という理解は、より開かれた立場を示しているように思われます。
この立場における理解は、以下のようなものです。
聖書は神の霊感を受けて書かれましたが、その筆者たちは人間であり、文化的・歴史的な制約の中で、神を語りました。それでも聖書は、信仰と生活において謬ったことを書いてはいないと信じられています。
つまり、科学的・歴史的に全く事実でないとしても、そこに込められた神の意志――愛、赦し、救いの真理――に謬りは無いという立場です。
この理解は、聖書無誤派の立場には立たない多くの教派の伝統に見られるものであると考えられます。
「聖書の無謬性」という考え方は、実際のところ、特定の教派に限定されたものではないように思われます。
カトリック教会、そして多くのプロテスタント教会において、聖書が信仰と救いに関して繆りはないものとされているように思われるのです。
したがって、無謬性とは、キリスト教全体に共通する「聖書への根源的な信頼」を表す言葉であるとも考えられるでしょう。
無誤性が聖書の「記述の完全さ」を強調するのに対し、無謬性はその「導きの正しさ」を強調するものであり、両者の違いを理解することは、信仰の多様性を尊重しつつも、同じ神への信仰を見いだす道につながるように思われます。
聖書の中心を「記述」ではなく「キリストの啓示」に置く姿勢であるとも考えられます。聖書は、神の意思が人間を通して伝達された言葉として受け取られるものと考えられるのです。
そのため、聖書の信頼性は、記述の正確さというよりも、神がそこに啓示を残しているという信仰に根ざしていると考えられるのです。
それでも残る課題──どこまでを歴史的事実とみなすか
ただし、無謬性の理解も万能ではないように思われます。
聖書に記された出来事のどこまでを歴史的な事実として受け止めるかという問題は、現代においても議論が続いていると言えます。
象徴的・信仰的な意味を強調するあまり、出来事の史実としての側面を軽視してしまうという危険性もあるように思われます。
しかし、復活など、信仰の中心をなす出来事までを象徴として捉えてしまうならば、信仰はその根拠や意味まで失ってしまうため、境界線が極めて重要なものであると言えます。
そして、結局のところ、聖書の中において「何が史実で、何が象徴か」を最終的に判断できるのは人間ではないように考えられます。
それを知るのは神ご自身の領域(神業)であり、人間は、そのことの前に謙遜な姿勢を示すしかないのではないかと考えられます。
聖書の権威をどのように理解するか
このように考えると、聖書の権威を「誤りがないこと」として理解するよりも、「謬った方向へ導かないこと」として理解する方が、少なくとも、現代社会において調和的であるとは言えそうです。
聖書は、教科書的な科学書でも歴史書でもなく、人をキリスト信仰のもとへと導く聖典であるものと考えられます。
そこに記された神、キリストによる救いの意志は、時代や文化を超え、今現在も生き続けています。
したがって聖書の権威は、記述の完璧さにあるというよりも、神、キリストの救いそのものにこそあると言えるのではないでしょうか。
おわりに
聖書無誤派にある信仰は固いものであり、その熱心さは尊敬に値するものであると感じられます。
しかし現代においては、科学的知見や社会の多様性とも関係していく必要があるように思われます。
「無誤性」は信仰を守るための壁であると同時に、時には関係を閉ざしてしまう危険性もあるのかもしれません。
一方、「無謬性」は開かれた立場ですが、人間の理解を超える部分が多くある以上、容易にはっきりとした答えを出せるものではありません。
結局のところ、聖書がどこまで事実であり、どこまで信仰的な真理として読むべきかを決定するのは、人間には不可能であるようにも思われます。神の真理は、記述を超え、論理の限界を超えて働き続けるものと思われます。私たちはただ、その中において善く導かれることを求めつつ、聖書の言葉に耳を傾けるほかないのかもしれません。
聖書の権威とは、神が今現在も生きて語りかけておられると信じられる、現実の中にあるのだと考えられるのです。
