二人の信仰者の方に学ぶYouTube「創造論」について
はじめに
前回、ともみんさん・矢嵜風花さんのYouTube動画から「ノアの洪水」について学びました。今回も新たに関連する動画が公開されていたので、ご紹介したいと思います。
なお、私はお二人の活動や意見すべてに同意しているわけではありません。ただし、信教・思想・良心の自由を尊重したいと考えており、他の方の意見についても、なるべく尊重したいと思っています。
【参考】前回の記事について
YouTube動画について
動画タイトル:ヒトの先祖は猿ではない。ダーウィンの進化論は間違っている!?
チャンネル:ともみん牧仕の会いに行く教会
動画出演者:ともみん(石川ともみ)さん、矢嵜風花さん
動画公開日:2025年9月25日
動画出演者であるお二人について(前回と同じ内容)
ともみん(石川ともみ)さん
動画概要欄の内容を抜粋させて頂きます。
牧師 / 会いに行くキリスト教会の牧仕
東北大学理学部卒業後、牧師になるために神学大学院へ進学。一般の教会の牧師を辞め、会いに行くキリスト教会を始める。作家。建物の教会堂を持たず、日本中どこにでも誰にでも無料で会いに行く活動をしている。年間500人以上の人に会いに行き続け、会いに行った延べ人数が3000人を超える。
矢嵜風花さん
概要欄にプロフィールは書かれてありませんでした。
クリスチャンであり、ゴスペルシンガーとして活動されているそうです。
動画内容の要約
この動画は「人の祖先は猿ではない」というテーマで、学校教育で当然のように教えられる進化論と、聖書に基づく創造論を対比して語っています。出演者の一人はクリスチャン家庭で育ち、最初から「人は神に創造された存在」と信じてきたため、進化論に共感したことはないと語ります。猿から人への進化図を見たときの「なぜ今は進化しないのか」「科学は無秩序に向かうと教えるのに進化は逆に良くなると考えるのは矛盾ではないか」という主演者の疑問も語られます。また、地球が数億年の歴史を持つという前提を疑う視点も示されました。
歴史的背景として、アメリカでは今からおよそ100年前に「進化論を学校で教えることの是非」を巡って有名な裁判が行われました。この裁判は大きな社会的注目を集め、当時は聖書に基づく創造論が一般的だったアメリカにおいて、進化論が公教育に導入される転機となりました。その結果、進化論が学問や社会で優勢な立場を占めるようになり、創造論は次第に後退していきます。その一方で、両者を折衷し「神が創造の過程で進化を用いた」とする説や、神の名を直接挙げずに「高度な知性による設計」と説明するインテリジェント・デザイン論などが登場しました。しかし出演者は、こうした立場は聖書の記述に忠実ではないと批判的に見ています。さらに進化論は歴史の中で中立的に扱われたわけではなく、「優れた者だけが生き残る」という考えと結びつき、優生思想やナチス・ドイツの人種政策に利用された負の側面もあると指摘されています。
一方、日本では教育が進化論一辺倒で、創造論を知る機会はほとんどなく、多くの人は「他に選択肢がある」とすら知らないままです。理系大学でも話題になることは少なく、関心は薄いと語られます。ただ、テレビでの「進化論以外の立場」を知って驚いた例や、キリスト教教育で天地創造を学んだ経験、科学的な知見とアダムとエバを結びつける人の話など、別の選択肢を知ったときの新鮮な驚きも紹介されました。
結論として、出演者は「人は猿から進化したのではなく、神に創造された存在である」という聖書の記述を信じている立場を強調しつつ、対立を煽るのではなく「進化論だけが唯一の説明ではない」と提示することが大切だと締めくくっています。
筆者による考察──動画を見て感じたこと
聖書をそのまま信じる立場
今回の動画は、前回の「ノアの洪水」に続き、聖書の記述をそのまま信じるという立場を紹介していました。これは全くの「聖書の無誤性」を前提とするもので、私が「聖書無誤派」と呼んでいた立場に属する考え方と言えます。現代社会では批判の対象となりやすい姿勢であるとも考えられますが、それでも「神の言葉は正しい」と受け止める態度には、潔さと純粋さがあります。合理的な説明や科学的検証を超えて、ただ聖書の言葉に従おうとする姿勢は、ある意味で信仰の核心を体現しているとも言えるでしょう。ある面において、科学的な見解よりも神の言葉を信じることは自然であり、信仰者の素直な歩みを映し出しているようにも思いました。
若い地球説と教育の問題
動画では、地球が数十億年の歴史を持つという科学的前提に疑問を投げかける場面がありました。これは「若い地球説」と呼ばれる立場──地球の歴史を一万年以下とみなす理解──を示唆しているように思われます。もしこの立場を取るなら、私たちが学校で学んできた「地球は約46億年の歴史を持つ」という教育全体を根本から否定することになります。つまり、幼少期から「正しい」と信じ込まされてきた知識が誤りであったということになり、それは単なる驚きを超えて、深い悲しみや虚しさを伴います。教育の根幹が揺らぎ、世界の理解が一から組み直されるような混乱を引き起こす可能性があるとも思えるからです。
この点に関連して、私は「誤りを真実として社会に伝えることは、本来的には悪しきこと」だと考えます。人々が誤った知識を事実と信じ込まされ、その前提で人生や世界観を形づくってしまうならば、その影響は計り知れないものと感じます。しかし同時に、現代社会において「地球の歴史」を実際に見てきた人間は誰もいません。誰もが観測できない過去については、ある種の仮説や信念のもとに語らざるを得ないのです。そのため、この問題は単に科学的知識や宗教的信仰の対立にとどまらず、「何を根拠に真理とみなすのか」という人間社会の基盤に関わる問いを含んでいるとも言えるでしょう。
さらに重要なのは、このような信念・世界観の選択は「信教・思想・良心の自由」の領域に含まれるという点です。憲法において保障されている以上、進化論を信じる人も、創造論(及び若い地球説)を信じる人も、それぞれがその立場を持つことは許されているのです。したがって、これは単なる個人の思想にとどまらず、社会全体に大きな意味を持つテーマだと言えるでしょう。
このように考えると、若い地球説に関する問題は、教育や科学の正しさをめぐる議論にとどまらず、「誤りを事実として伝えてしまう可能性」「それをどう受け止めるか」という倫理的・哲学的課題を私たちに突きつけています。そして、信仰の立場から見れば、まさにここに「神の言葉を信じるか、それとも人間の知識に頼るか」という分岐点があるのだとも思います。
科学と信仰の立場の違い
自然科学は「神による超自然的な介入を前提にしない」という立場を取り、観測や理論の積み重ねによって知識体系を築いてきたと言えます。これに対し、聖書を信じる者は「神は歴史に直接介入される」と理解します。実際、キリストの復活を信じるならば、それは神が自然法則を超えて働かれた出来事を信じるということになると言えます。つまり復活信仰に立つ時点で、私たちはすでに「自然主義では説明できない超自然」を信じていると言えるのです。信仰者の立場も様々です。そう信じるキリスト信仰者はむしろ少数であるようにも思われますが、キリストの復活の延長線上に聖書の記述通りの創造や若い地球の理解を受け入れる姿勢がある、と考えることもできます。
このように聖書の記述を最優先する立場は「聖書原理主義」と呼ばれることもあり、キリスト信仰者の全体から見れば少数派であるようにも感じられます。また、社会において否定的に使われる場面も多いように思われますが、本来の意味は「聖典に記された原理に忠実に従う」というものだと思われます。つまり単なる盲信ではなく、聖書の言葉を最優先とする信仰姿勢と理解することも出来るのでしょう。
外部からの視点と信仰の核心
無神論や宗教的に自由な立場からは、こうした信じ方は非科学的で盲目的に映るかもしれません。しかし、これは仮定ではありますが、もし聖書が神の言葉であり、歴史的な記述としても正しく、そこに記された出来事が事実であるとするならば、この理解こそが正しいということにもなり得ます。結局のところ、焦点は「聖書を神の言葉としてどこまで信じられるのか」という点にあるとも考えられます。科学的証拠を優先するか、それとも啓示を優先するのか。その前提の違いが議論を大きく左右するとも言えるのです。
学びとしての価値
この問いはきわめて大きなものです。私自身、関心を持ち続けていますが、未だに最終的な答えを持っているわけではありません。それでも、この動画を通して「信じるとは何か」「科学と信仰はどのように交わるのか」という核心的な問いを深く考えさせられました。
教育によって与えられてきた知識と、聖書に記された神の言葉の間にある緊張関係は、単なる知識や理論の対立にとどまりません。それは私たちが何を基準に生き、何を土台として人生を築くのかという根源的な問題に直結しています。科学を選ぶのか、聖書を選ぶのか、そのどちらに重きを置くかによって、世界観も人生観も大きく変わってしまうからです。
潔く聖書の言葉を信じる立場には、外から見れば単純に見えるかもしれませんが、その背後には重い覚悟と確かな信仰心があるものと思われます。一方で、科学を学び、それを基準とする生き方にも理性的な魅力があると思われます。どちらを選ぶにせよ、私たちが避けて通れないのは「自分はどの前提に立って生きるのか」を真剣に問うことです。
だからこそ、この問題は単なる理屈の議論ではなく、個人の人生全体に関わる問いだと言えます。信仰を持つ人にとっても、そうでない人にとっても、「信じるとはどういうことか」を問い直すきっかけになり得ると思います。私自身も、このようなテーマを考え続け、探求し続けることが重要であると感じています。
