神を信じることと聖書の記述──聖書無誤派と聖書解釈派の歩み
※この記事は、聖書と信仰の関係について考察する試みです。特定の立場を断定するものではなく、信教・思想・良心の自由を尊重しつつ、一つの視点としてお読みください。
1. 「神を信じるなら聖書すべての史実性も信じるべき?」という問い
以下の記事の中で取り上げさせて頂いた動画を観ていく中で、出演者の方が、このような言葉を語られているのを耳にしました。
神様は目に見えません。聖書に書いてあることを信じずして、どうやって神様を信じるのかということが不思議です。
神様だけ信じて、聖書の言葉を信じないというのは、見えない神様を何を根拠として信じているんですか?
聖書ではないでしょうか?
聖書のここは信じるけど、ここは信じないとなるとすれば、神様に対して、ここは信じるけどここは信じないということになりませんか?
正しいように感じられる言葉であるとも思います。
聖書に書かれている神様を信じるなら、その神様について書かれた聖書の中にある記述全ての史実性も信じるのが筋である、と思えるかもしれません。
けれども、現実はそう単純ではないとも考えます。厳然たる事実として、神様を信じることと聖書にある記述を全て史実と信じるということとは、必ずしも同じものではないと考えられるからです。
2. 聖書無誤派の立場
まず、聖書無誤派と呼べる立場の人々がいます。その人々は、「聖書は神の言葉であり、歴史的な記述という意味においても、聖書の一字一句に誤りはない」と受け取るものと思われます。
創世記に書かれた「天地創造」も、「ノアの洪水」も、実際に歴史の中で起こった出来事だと考えます。
聖書に根ざすことで、信仰理解に関しても、揺るぎない信仰が与えられているように見えます。
その純粋さと力強さが、宣教活動や信仰運動を推し進めてきたと考えることが出来ます。
しかし、この立場にも課題があるかもしれません。科学や歴史学からの批判にさらされると動揺しやすいという側面があるかもしれません。また、「そのまま信じられない人々」を排除してしまう危険性もあるかもしれません。
3. 聖書解釈派の立場
一方で、上記の聖書無誤派と違う立場を想定した場合、聖書解釈派と呼べる人々もいます。その人々は、聖書に収められている各文書について、その書かれた文学的形式に注意しながら、その中に込められた神のメッセージを大切にしようとします。
「天地創造」や「ノアの洪水」を、象徴的・霊的な物語として読む。
聖書の矛盾や課題について目を留めながらも、聖書が指し示している神を信じ続けようとする。
科学や現代社会との対話を重んじ、信仰を現代と調和させようとする。
この立場は「疑いを抱えてもなお信じる」という強靭さを持っているようにも思われます。ただし、理性や批判に偏りすぎる場合、信仰そのものが希薄になる危険性もあるかもしれません。
4. 思いやりとしての信仰
興味深いのは、聖書解釈派の人が聖書無誤派の人々を思いやるという光景も見られるということです。
「自分には信じきれないけれど、純粋に信じる姿は尊い」と評価する。
相手の信仰を直接的には否定せず、その純粋な信仰を守ろうとする。
お互いに異なる信仰の姿勢で聖書を読んでいても、同じ神を仰いでいるのだと、その信仰の在り方を尊重する。
これは、聖書が求めている「互いを受け入れる姿勢」の一つの表れと言えるのかもしれません。
一方で、聖書を理解する上においては、一見、優しく見える思いやりこそが、キリスト信仰への妨げになることがあると考えることもあるでしょう。
5. 「信仰の弱い人を受け入れなさい」
使徒パウロはローマ書の中で次のように言いました。
信仰の弱い人を受け入れなさい。しかし、考えの違いをめぐる言い合いは避けるべきでしょう。
聖書無誤派から見れば、聖書解釈派は「聖書の記述の事実性を信じきることのできない弱い人」に映るのかもしれません。
聖書解釈派から見れば、聖書無誤派は「科学的な知見に目を向けた上で信じるということのできない弱い人」に映るのかもしれません。
けれども、パウロは「裁け」とは言っていませんでした。言われているのは、「受け入れなさい」ということでした。
6. 歴史の中での聖書理解
この違いは近代になって突然生まれたものではなく、もっと長い歴史の中で育まれてきました。
初代教会と教父たち
たとえばオリゲネスやアウグスティヌスは、聖書を神から与えられた権威ある書として受け止めつつ、字義どおりの意味だけでなく、霊的・寓意的な解釈を重んじていたとされます。オリゲネスは、ときに字義どおりには不自然に思える箇所を「より深い霊的な意味を探るために置かれたつまずき」と理解したといいます。アウグスティヌスは寓意解釈を認めながらも、字義的意味を土台にすることを忘れず、両者の調和を追求したといいます。また、「聖書に誤りはない」と語ったといいますが、それは救いに関わる真理においてであり、現代的な意味での歴史的な正確さを保証するということではなかったと解釈することも可能であると考えられます。
中世カトリック教会
ラテン語訳聖書(ウルガタ)が唯一の権威とされました。重要なのは聖書本文の逐語的な正確さではなく、教会の伝承と権威ある解釈が基準とされたといいます。
16世紀の宗教改革(プロテスタント)
ルターとカルヴァンは「聖書のみ(Sola Scriptura)」を掲げていました。ただし、彼らも近代的な意味での「無誤説」を打ち立てていたわけではないでしょう。ルターは一時的に新約聖書にあるヤコブ書を「わらの書」と評していたとされます。ただし、最終的には正典として保持し、ヤコブ書を完全に排除したわけではありませんでした。
カルヴァンも「聖書は救いに関わる真理を教える書であり、天文学や自然哲学の教科書ではない」として、自然知との調和を認める姿勢を示していたとされます。カルヴァンは『創世記註解』の中で、神が人間に語るときには、ちょうど親が幼子に分かりやすい言葉で話すように、人間の理解に合わせて語られるのだと説明していたとされます。これは、歴史的な事実を逐一教えるためではなく、救いに関わる真理を人が受け取れるようにするための語りかけだと理解することが出来るのではないでしょうか。
17〜18世紀
伝統や権威よりも理性を第一とする啓蒙主義(「理性の光の時代」と呼ばれやすい)の影響下では、聖書を理性の光で批判的に読む動きが登場しました。一方でピューリタニズムや敬虔主義は、聖書を信仰生活の中において、より生きた形で適用しようと努めました。
19世紀以降
自然科学の進展と批判的聖書学の広がりの中で、アメリカのプリンストン神学派などは「聖書は一字一句誤りがない」と強調し、聖書の無誤説の体系化を目指したといいます。これに対してドイツでは歴史批評学が発展し、聖書を歴史的・文学的に解釈する自由主義神学が台頭しました。こうして、「聖書無誤派」と「聖書解釈派」との二極化が鮮明になっていったとも考えられるのです。
7. カトリックと正教会の理解
プロテスタントの立場とは異なり、カトリックや正教会はまた別の理解を保っているとされます。
カトリック
聖書は神の霊感を受けた言葉であり、救いに関わる真理において誤りはないと信じるとされます。ただし解釈においては、教会の伝統と教導者の権威を重視するとされます。また、聖書について、そのすべてが歴史的に正しいとまでは言わないとされます。正教会
聖書は神の言葉として大切にされますが、それは教会の典礼や伝統の中で生きている言葉であると考えます。聖書を単独で絶対視するのではなく、伝統とともに受け取られるため、近代的な「無誤説」よりも、霊的な読みを重視するとされます。
8. まとめ──信仰の中心は神
こうして見てくると、「聖書無誤派」と「聖書解釈派」の違いは、意見の対立というだけに留まらず、長い歴史と文化の中で育まれてきた応答であることが分かるようです。
無誤派は、聖書を文字通りに信じる強さと純粋さを示しました。
解釈派は、批判や疑問を抱えながらも信じる粘り強さを示しました。
カトリックと正教会は、教会の伝統の中で聖書を生かそうとしていると言えるのかもしれません。
それぞれに強さと弱さがあるようにも見られます。けれども、信仰の中心はあくまでも聖書の文字にあるのではなく、その向こうにおられる神、死んで復活されたキリストご自身であると考えることが出来るでしょう。
今日の教会や信仰生活においても、「聖書無誤派」と「聖書解釈派」の両方の立場は共に存在し続けています。私たちはその違いを理解しながら、互いに耳を傾ける必要があるのでしょう。
私たちが互いを受け入れ、互いに学び合うとき、信仰はより豊かにされる──それが歴史を通して語られてきた教えと言えるのかもしれません。
