映画評30 『ジュリーは沈黙したままで』への疑問
1 性的グルーミングのおぞましさ
『ジュリーは沈黙したままで』(2024)は、ベルギー出身のレオナルド・ヴァン・デイル監督の初長編である。
主人公は、将来を嘱望されている15歳の女子テニス選手、ジュリー。扮するは演技経験のない現役のテニスプレイヤー、テッサ・ヴァン・デン・ブルックだ。
物語の中心は、男性コーチのジェレミー(ローラン・カロン)によるジュリーへの性的グルーミングという、きわめて深刻な問題である。
性的グルーミングとは、加害者が、性的虐待という目的を隠して16歳以下の少年少女に接近し、彼あるいは彼女を心理的にコントロールし手なずけ、親密な関係を築いていくプロセスのことだ。
すなわち、力関係において、思春期の選手に対して圧倒的に優位なポジションにあるスポーツのコーチなどの大人は、狙った選手に「君は特別だ」「将来性がある」などと言って、巧みに距離を縮め、最初は肩に手を置く、親身な相談相手になるといった行為に始まり、やがてセクシャルな身体的接触や秘密の共有へ、そして性行為へと及んでいくのが、性的グルーミングである。
2 核心を遠巻きにする手法は成功したか?
ただし、タイトルが示すように、本作ではジュリーがコーチのジェレミーから性的グルーミングを受けていたことは、ほのめかされるだけである。
テニスクラブ側のヒアリング(聞き取り調査)や家族との会話においても、ジュリーはあくまで沈黙を貫き、テニスの練習やランニング、筋トレに励み、それらのルーティンが終わると、愛犬の散歩で心身をリラックスさせる。
あるいは、選手仲間とのたわいもないお喋りのシーンが一度ならず挿入され、映画はあくまで静かに進行していく。
ジュリーがジェレミーと向き合う場面はあっても、決定的な出来事は描かれない。
つまり、全編をつうじて、核心を遠巻きにするようなシーンが淡々と続くばかりだ。
(ほとんどのシーンが、ジュリーの視点からのみ描かれていることも、ドラマチックな要素の抑制を生んでいる。)
もっとも、冒頭まもなくジュリーは、テニスクラブの先輩アリーヌが自ら命を絶ったこと、さらにコーチのジェレミーが指導停止処分となったことを知らされるが、このふたつの出来事の因果関係も、最後まで明らかにされない。
おそらくヴァン・デイル監督は、真相をはっきりと示すことより、前述のように、核心を遠巻きにするごとく、テニスの練習やトレーニングといったルーティンを黙々とこなす、ジュリーの日常をめぐる描写を積み重ねることにより、真相を暗示的に浮かび上がらせる手法を取ったのだろう。
だが残念ながら、このような一種の默説法(もくせつほう)ーー故意の省略ーー、あるいは表現を最小限に切り詰めるミニマリズムは、あまり成功していない。
端的に言って、97分の長編において、ラストまで事の真偽を明らかにしない描法が、カタルシスの欠如をもたらし、映画の流れを平板にしているからだ。
ショットとショットが、場面と場面が連鎖反応を起こして映画の熱量を増幅していくという、「傑作」の条件が欠落しているからだ、と言ってもよい。
(それゆえ、コーチによる選手へのグルーミングというテーマも、不完全燃焼のまま放置された、という印象が残る。)
したがって、物語にもう少し劇的な起伏/メリハリが欲しかったというのが、本作を見ての率直な感想だ。
そして当然ながら、そうした默説法およびミニマリズムは、ジェレミーコーチの行いについて、ジュリーが最後まで頑なに口を閉ざす、というプロットの弱点ともなっている。
むろん、コーチにグルーミングを受けた15歳の女子選手が、コーチのハラスメントに対して声を上げ、告発するのは容易なことではないだろう。
現実においても、コーチによって精神的に支配された思春期の選手が、葛藤にさらされ、彼の狙いどおり長いこと沈黙を強いられる、というケースは少なくない。
また、スポーツのコーチ以外でも、学校の教師、カトリックの神父、芸能事務所の社長などによる少年少女に対する性的虐待事件において、そうした事例は多く見られる。
ーーしかしながら、いうまでもなく、本作は劇映画なのだから、ベタな現実をフィクショナルな次元にまで【昇華】しえたのではないか。
たとえばーー僭越ながら私がヴァン・デイル監督だったらーー、ジュリーの葛藤や沈黙の場面をもう少し短く刈り込み、なんらかのかたちでジェレミーコーチのハラスメントが暴かれ告発される、という展開にしただろう。
作中に登場する理学療法士が探偵役になってジュリーの助っ人になり、真相究明に乗り出す、あるいはジェレミーコーチの視点も挿入し、彼の歪(いびつ)な性癖や狡猾さにも焦点を当てる、などをプロットに仕込んでーー。
(ここで連想されるのは、行方不明になった息子を探して、腐敗した警察や殺人鬼と果敢に対峙したシングルマザーの映画、『チェンジリング』(クリント・イーストウッド監督)だが、本作については拙記事「映画評25、26」を参照されたい。)
3 テニスシーンの迫力
本作の最大の見どころの一つは、ジュリー/テッサ・ヴァン・デン・ブルックが励むテニスの練習シーンだ。
下手の横好きだが草テニスが唯一の趣味である私は、その一連のシーンに目を奪われた。
テッサは現役のテニスプレイヤーならではの、強烈なサーブ(フラットサーブだけでなくバウンドしてから大きく跳ね上がるスピンサーブまで!)、力強いストローク、柔らかいタッチのボレー、ボールが潰れるほどの豪快なスマッシュを披露する。
とりわけ、サーブを打ってネット前まで走り、返球をボレーするサーブ・アンド・ボレーの見事さ! (残念ながら今日のテニスでは、ステファン・エドバーグやピート・サンプラス、あるいはマルチナ・ナブラチロワが得意としたこの優雅で華麗なプレーは主流ではない。)
そして、ジュリー/テッサのプレーを引きのカメラが活写するその一連が示すのは、ヴァン・デイル監督が秀逸なショットを撮れる映画センスの持ち主であることだ。
また彼は、役者の演技設計にも、自然光を多用する光線処理にも長けている逸材だ。
よって彼の今後の最大の課題は、やはり、物語/脚本にいかにして起承転結を持たせるか、であろう。
(前述の、それ自体は臨場感たっぷりのテニスシーンも、映画全体の構成からみるとあまりに断片的で、バラバラの点でしかなく、物語の中にうまく組み込まれていない)。
ちなみにヴァン・デイル監督は、見る者の琴線に触れる感情描写が、ミニマリズムと絶妙なバランスを保っている、ケリー・ライカート監督(米、『ウェンディ&ルーシー』『ファースト・カウ』など)の世界を目指してはどうか。
なお、本作の默説法に対して、「何を描くかではなく、何を描かないかで真相を示唆する卓抜な手法」といった意味の、一見もっともらしい賛辞が見受けられるが、けだし、それはまったくのピント外れだ。
🌕補説
1 大人同士の恋愛/性愛にあっても、非対称な力関係(優劣)における支配/被支配が存在することも見逃せない。
それが顕著に表れるのが、サド・マゾヒズムにおける嗜虐/被虐という「愛」のあり方だろう。
その場合は、当人たちが自らの意思によって互いの立場(サドあるいはマゾ)を選び取るので、彼/彼女らの関係は、大人による少年少女への性的グルーミングとはまったく異質なものであるが。
また成人同士の恋愛において、一組の男女(もしくは同性同士)のどちらか一方が、精神的に優位に立ち、相手を支配し翻弄するというケースも、フィルム・ノワールやサイコ・スリラーなどに多く見られる。
それらにおいても、むろん非対称な力関係のもとで恋愛/性愛のドラマが展開される。一例のみを挙げれば、ジョセフ・ロージー監督の破格の傑作、『エヴァの匂い』(1962)では、偽作家が「魔性の女/ファムファタール」によって振りまわされ骨抜きにされる様がまがまがしく描かれる。
2
ジュリーがテニスの練習に黙々と励むのは、間近に控えているテニスの選抜試験に合格するためだが、その一連を見てふと思ったのは、プロスポーツにおいて自明の前提となっている勝利至上主義のことだ。
プロスポーツ界は、戦力にならない選手を容赦なく切り捨てる非情な世界だが、スポーツ愛好家なら、選手であれ指導者であれ観客であれ、勝利至上主義を全否定することは難しい。
行き過ぎた勝利至上主義はいけない、と言うことには理があるが、しかし、選手なら誰でも勝利に執着するし、自分の応援する選手なりチームなりが負けて喜ぶファンはいない。
テニスの下手糞な私でさえ、アマチュア同士の試合では絶対に勝ちたいと思ってプレーしている(結果は伴わないが)。
ともかく、プロアマを問わず、スポーツにおける勝利至上主義の是非はーー「不倫」の是非と同様にーー永遠のアポリア/難問ではなかろうか。
