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【アドラー心理学 Vol.05】関係が壊れないように、頑張り続ける。「承認」と「努力」の関係性

前回の記事

「認められたはずなのに、うれしくない」
そんな気持ちになったことはないでしょうか。

たとえば、仕事で評価されたとき。
人から「すごいね」と言われたとき。

本来ならうれしいはずの言葉が、
どこかむなしく感じてしまう。

もっと頑張らないとダメなんじゃないか?
今の自分じゃ、まだ足りてないんじゃないか?

そんなふうに、
自分の中の「不安」や「足りなさ」のほうが強くなってしまう。


前回の記事では、
そうした報われなさの背景にあるものとして、
アドラー心理学でいう「補償」というエネルギー構造に注目しました。

自分の中にある「できなさ」や
「不完全さ」を埋めようとして生まれる努力。

それは本来、成長のきっかけにもなりうるものでした。

ですが、その補償が、
いつの間にか「他人からの承認を得るための努力」へと
ねじれていくことがあります。

すると、どれだけ成果を出しても、
どれだけ褒められても、安心できない。

むしろ、努力すればするほど、不安が増していく。

今回は、この
「他人との関係の中でねじれてしまう補償」について、
もう少し掘り下げてみようと思います。


他人の期待に応え続ける努力

「ちゃんとしていれば、嫌われない」
「期待に応えていれば、ここにいられる」

そんな前提が、
どこかに刷り込まれている感覚ってありませんか?


たとえば、職場でのふるまい。

本音では納得していなくても、周囲に合わせて笑顔を作る。
無理をしてでも、頼まれたことを引き受ける。
断ったら評価が下がる気がして、つい頷いてしまう。

あるいは、家族との関係。

「いい子」でいなきゃいけない。
心配をかけないように、弱音を吐かない。
期待に応えないと、がっかりされてしまう。

そんなふうに、
努力が「他人の期待に応えるための手段」になっていくと、
本来は選べるはずの行動が、
だんだんと「義務」に変わってしまいます。


しかも厄介なのは、
これは「頑張りたくないから嫌だ」と感じるような、
わかりやすい拒絶ではないこと。

むしろ、頑張りたいし、応えたいと思っている。
だからこそ、「苦しい」とはなかなか自覚しづらい。

でも少しずつ、
自分の中の「選べなさ」が増えていく。

疲れていても断れない。
納得していなくても、飲み込んでしまう。
誰かに喜んでもらうことで、自分の存在価値を確認するようになる。

努力の意味が、
「自分を育てること」から、
「居場所を確保すること」へと、すり替わっていく。

そんなふうに、
承認というかたちでしか安心できなくなると、
努力はやめられなくなるんです。


不安だから、やめられない

「頑張りすぎかもしれない」
「ちょっと立ち止まったほうがいいかも」

そんなふうに思う瞬間があっても、
なぜか手が止まらないことってありません?


本当は休みたいのに、
スケジュールを詰め込んでしまう。

誰かに頼りたいのに、
「大丈夫」と言ってしまう。

もう十分努力したはずなのに、
「まだやれる」と自分を奮い立たせてしまう。

  • サボってると思われたくない

  • 期待を裏切るのが怖い

  • 頑張ってない自分には、価値がない気がする

そんな「見えない声」が、背中を押している。
あるいは、脅している。

努力することでしか、
不安を抑えられなくなっている。

そんな状態が、
いつのまにか習慣になっている。


そして厄介なのは、
努力をやめる=「誰かとの関係が壊れる」という感覚が
セットになっていること。

たとえば、

  • 返信が遅れると、嫌われる気がしてソワソワする

  • 手伝わないと、冷たい人だと思われる気がする

  • 自分の気持ちを優先すると、ワガママだと言われる気がする

こうした感覚は、
単なる思い込みでは済まされない場合もあると思うんですよ。

実際にそういう目で見られたり、
そういう扱いを受けた経験があるからこそ、
「努力をやめた瞬間、関係が崩れるかもしれない」と思ってしまう。

つまり、
「努力」と「つながり」が、
強く結びついてしまっている。


努力しているから、認めてもらえる。
努力しているから、ここにいていい。

そう信じているかぎり、
たとえしんどくても、頑張りつづけるしかなくなってしまう。

でもそれは本当に、健全な関係なんでしょうか?


頑張っている「自分」だけが好かれて、
疲れていたり、弱音を吐いたりする「自分」は見せられない。

そんな状態では、
どれだけつながっていても、安心は生まれません。


努力してるのに、なぜか孤独

ちゃんとやっているのに、どこか満たされない。
誰かの期待に応えているのに、なぜか孤独感が消えない。

それって、けっして珍しいことじゃないと思うんです。


努力を重ねれば、信頼される。
頑張っていれば、認めてもらえる。

そう信じて行動してきたのに、
いつの間にか、その努力が「前提」になってしまっている。


できて当たり前。
頼られて当然。
気を配るのが普通。

そんなふうに、
自分の頑張りが「あって当然」になっていくと、
感謝やねぎらいは減っていきます。

それどころか、少し手を抜くだけで
「どうしたの?」と不安そうな目で見られることさえあります。

「これまでの努力」が、
その人の「基準値」になってしまう。

だから、努力を「やめる」ことが、
自分の価値を「下げる」ことのように感じられてしまう。

そうなると、努力はどんどん
「関係を保つための義務」になっていくんですよね。


ただ、
その義務を引き受け続けていると、
ある疑問が浮かんできます。

僕が関係しているのは、本当に「僕自身」なんだろうか?
それとも、頑張っている「僕のふりをした誰か」なんだろうか?

もし、自分の素のままでは関係を保てないとしたら?
もし、頑張っている状態でしか受け入れてもらえないとしたら?

そんな関係性のなかで感じる「孤独」は、
努力では埋まらないと思うんですよ。


それに、認めてもらうための努力って、
どこまでいっても終わらないんですよね。

もっと認められたくて頑張る
→ 少し評価された気がする
→ でも今度は「この状態を保たなきゃ」と思ってしまう
→ さらに頑張る
→ 疲れる
→ 疲れてもやめられない

そんなループに、
知らないうちに巻き込まれてしまいます。

しかもこの状態は、
他人には気づかれにくいんです。


成果も出ているし、頼まれたことにも応えている。
表面的にはうまくいっているように見える。

でも、内側ではどんどん摩耗していく。

だからこそ、
ふとしたときに孤独が顔を出すんだと思います。


誰のための努力だったんだろう

「誰かのために頑張る」って、
言葉にすれば美しいし、すごく大切なことのように思えます。

でも、それがずっと続くと、
どこかでこんな気持ちが顔を出すことはないでしょうか。


「こんなに頑張っているのに、なんで認めてもらえないんだろう」
「なんで僕ばっかり、期待され続けるんだろう」

本当は、自分の成長のために始めた努力だったはずなのに、
いつの間にか、「他人の期待に応えること」が目的になってしまっていた。

ここで見えてくるのが、
努力のエネルギーが向かう先の「すり替え」です。


もともと、アドラーが言うように、
補償とは「足りなさを埋めようとするエネルギー」でした。

「もっと成長したい」
「少しでも変わりたい」

そんな意志があるからこそ、僕たちは努力できます。

でもそのエネルギーが、
どこかで「証明」へと向かい始める。

「認められたい」
「ちゃんとしていると思われたい」
「見捨てられたくない」

そんなふうに、
誰かに自分の価値を保証してもらうための努力に変わっていく。


この変化は、
ものすごく静かに起きるから、
自分でも気づきにくいんです。

たとえば、

  • 本当はしんどいのに、断るのが怖くて引き受けてしまう

  • 「大丈夫?」と聞かれると、無理にでも笑ってしまう

  • 誰かに嫌われたくなくて、自分の意見を飲み込んでしまう

それらは一見、
思いやりや責任感に見えるかもしれません。

でも、その根っこには
「嫌われたくない」
「期待に応えなきゃ」という不安がある。

だからこそ、どれだけ頑張っても、
「認められた」という実感が得られない。

得られたとしても、
それは「一時的な安心」にしかならず、
すぐにまた「次の努力」が必要になる。

まるで、
自分の価値を保ち続けるための「月額課金」のように、
頑張り続けることが前提になっていく。


「誰かのため」と「自分を削ること」は、
同じではないはずです。

でも、その境目が曖昧なまま努力を続けていると、
「自分の人生を生きている感覚」が少しずつ薄れていくんですよね。

だからこそ、
時々立ち止まって問い直してみることが、大切だと思います。

「この努力は、ほんとうに"自分の意志"から始まっているだろうか?」
「それとも、"嫌われたくない"という不安に、動かされているのだろうか?」

そうやって動機を見直してみることで、
努力のエネルギーを、
自分にとっての「成長」に向きを変えられるかもしれません。


頑張り続けなくても、大切にされる関係はある

「頑張っていれば、嫌われない」
「ちゃんとしていれば、ここにいていい」
「期待に応え続けていれば、関係は続いていく」

気づかないうちに、
そんな「条件つきの安心」を、
自分の中に抱え込んでしまっていることがあります。

それは、これまでの人間関係のなかで、
何度も繰り返されてきた経験かもしれません。

  • 怒られたくなくて、いい子でいようとした幼少期

  • 期待に応えることで、評価を得てきた学生時代

  • 結果を出すことでしか、認められなかった職場の空気

そうやって、
「関係を維持するには努力が必要だ」という感覚が、
少しずつ染み込んでくる。

その感覚自体は、
ある種の「適応」なのだと思います。

でも、その適応の先にあるのが、
「頑張らないと居場所がなくなる」という不安だったとしたら。

それはもう、
「安心できる関係」とは言えないんじゃないでしょうか。


アドラー心理学では、
「人間の悩みはすべて対人関係の悩みである」とされます。

この言葉の解釈には幅がありますが、
僕はこう捉えています。

「自分がどう努力しても、関係が崩れてしまうかもしれない」
「本音を出したら、受け入れてもらえないかもしれない」

そんな不安こそが、
僕たちを最も深く追い詰めるのではないか、ということです。


でも本来、努力というのは、
関係の維持費ではなかったはずなんです。

むしろ、
「自分がこうありたい」と思う方向に向かって、
自発的に注がれるエネルギー。

それが、いつの間にか
「期待に応えなければならないもの」に変わってしまうから、
しんどくなる。

努力が努力じゃなくなる。

だからこそ、大切なのは
「努力しなくても大切にされる関係」の存在を知ることだと思うんです。


  • うまくできなかったときにも、責められない

  • 弱音を吐いたときにも、そばにいてくれる

  • 何もしていなくても、「いてくれてうれしい」と言ってもらえる

そんな関係性は、たしかに存在します。

でも、ただ待っていれば見つかるわけではありません。

それは「築くもの」であり、
「選びなおすもの」でもあります。

自分自身が、
「どんな関係に安心できるのか」
「どんな努力なら、自分をすり減らさずに続けられるのか」を知ること。

そして、
「自分を育てる努力」と
「すり減らす努力」の違いに気づくこと。

そこからしか、
ほんとうに健やかな努力は生まれないんじゃないかと思うんです。


報われない努力には、必ず背景があります。

そこには、
自分なりに守ろうとしてきたものがある。

でも、もし今その努力が
「やめられないもの」になってしまっているなら。

その頑張りが、
「不安に動かされるもの」になってしまっているなら。

一度立ち止まって、
自分にこう問いかけてみてほしいんです。

「この努力は、いまの自分を守ってくれているか」
「それとも、過去の安心にしがみついているだけなのか」

努力は、いつだって「やり直せる」ものだから。

そしてきっと、頑張り続けなくても、
ちゃんと大切にされる関係はあるから。


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