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【アドラー心理学 Vol.03】その劣等感は、なにを守ろうとしているのか?「劣等コンプレックス」とその背景

前回の記事

「劣等感って、ほんとに悪いもの?」

前回は、そんな視点から、
アドラー心理学の考え方をもとに、
劣等感が持つ「前に進む力」について考えてみました。


「できていない」と感じるからこそ、
「やってみよう」と思える。

その劣等感は、前向きなエネルギーを生んでくれる。

でも一方で、そうした劣等感に、
押しつぶされそうになるときもあるんですよね。

「またできなかった……やっぱり自分はダメなんだ」
「どうせ無理だし、やるだけムダ」

そんなふうに、
落ち込んで動けなくなったり、
挑戦する前から諦めてしまったり。

「前に進む力」になるはずの劣等感が、
かえって自分を縛りつける「重り」のようになってしまう。

この違いは、どこから生まれるのか?


今回は、
前回の終盤でも少しだけ登場した
「劣等コンプレックス」を深堀りしていきます。

劣等感が「前に進む力」ではなく、
「できない自分を守る壁」として働いてしまうとき、
そこには、どんな構造や関係性があるのか。

それを見ていきたいと思うのです。


「できない自分」を受け入れられないとき

「できなかった」
「うまくいかなかった」

そう感じた瞬間に、落ち込むだけでなく、
心のどこかで、自分を責める声が聞こえてくることって、ありませんか?

「ほら、やっぱり無理だった」
「こんなこともできないなんて、やっぱりダメなんだ」

ただ事実として「できなかった」というだけじゃなく、
まるで「自分という存在そのものを否定」されているような、そんな感覚。


そして、それがつらすぎて、
「できない自分」から目をそらしたくなる。

あるいは、
「そんな自分なんて、いなかったことにしたい」とすら思ってしまう。

そうなると、
気づかないうちに、自分を守るためのスイッチが入ります。

  • できない理由を、環境や他人のせいにしてみたり

  • あらかじめ「どうせ無理」と言っておいて、
    自分が傷つかないようにしたり

  • 逆に、「別に興味ないし」と興味ごと手放したふりをしてみたり

これらはどれも、
「"できない自分"と向き合いたくない」
という心の動きから生まれるもの。

この状態は、
「劣等感をどうにか処理しようとしている」からこそ、
やってしまうことです。


このように、
劣等感を「成長の出発点」ではなく、
「できない自分を守るため」に使ってしまう構造。

それこそが、
アドラー心理学でいうところの
「劣等コンプレックス」なんです。


「どうせ無理」と言いたくなるとき

「やってみたって、どうせうまくいかない」
「自分には向いてないし、失敗したら恥ずかしいだけだ」

そんなふうに、
「やる前から諦める」ような言葉を使ってしまうことって、ありますよね。

でも、先述したように、
「どうせ無理」という言葉には、
ただの「あきらめ」だけじゃなく、
自分を守ろうとする気持ちが隠れていると考えることができます。


たとえば、
本当は挑戦したいと思っていることでも、
それが「うまくいかなかった」ときに、自分が傷つきたくない。

だから、
「やらなかった理由」を、先に用意しておく。

「やらなかったから、失敗もしなかった」
「最初からやる気なんてなかったし」

そんなふうにして、
劣等感に触れないようにしている。


これは、アドラーが言う
「劣等コンプレックス」の特徴でもあります。

「劣等感」そのものよりも、
「それにどう向き合うか」のパターンが、
人生に大きく影響してしまうんです。


本当は「やってみたい」ことだったはずなのに、
「できなかったらどうしよう」という不安から、
劣等感を刺激される前に、ブレーキをかけてしまう。

つまり、「やらない」という選択によって、
自分を守りながら、同時に「自分の可能性」も
潰してしまっているんです。

そのため、このような状態が続くと、
だんだんと「できない自分」というのが、
「前提」になっていきます。

  • だから、やらない

  • だから、関わらない

  • だから、「できない自分」でいることが、当たり前になっていく

そのように、気づかないうちに、
「できない」が「前提」に変わり、
劣等感のエネルギーは、「前に進む力」ではなく、
現状を固定する鎖になってしまうんです。


前に進もうとするとき、「足かせ」になるもの

たとえば、
「次こそはうまくやりたい」
「少しずつでも変わっていきたい」
そんな前向きな気持ちが芽生えたとき。

それでもなお、
心のどこかで、こんな声が聞こえてくることがあります。

「でも結局、また失敗するんじゃない?」
「やっぱり、自分には向いてないんだよ」
「周りはもっとちゃんとしてるし、自分なんかが……」

せっかく前に進もうとしたエネルギーが、
そのたびに、見えない「足かせ」によって引き戻されてしまう。


この「足かせ」の正体は、
「過去の自分の失敗」かもしれないし、
「他人と比較したときの無力感」かもしれません。

でも、根っこをたどっていくと、
そこにはやはり、
「劣等感」とのこじれた関係があるように思うんです。

劣等感を、
自分を奮い立たせる原動力ではなく、
「自分を制限する理由」として使ってしまっている状態。


「どうせ自分は、またうまくできない」
「どうせ周りからは、そう見られていない」
「どうせ変わったところで、何も変わらない」

この「どうせ」という言葉に共通しているのは、
「期待しないことで、傷つかないようにしている」ということ。

裏を返せば、
「本当はもっとできるようになりたい」
「本当は変わりたい」という願いが、
ちゃんとあるということでもある。

でも、
その願いが叶わなかったときに
傷つくのが怖い。

だから、
「変われない理由」を、劣等感のせいにして、
「やらない選択」で自分を守ろうとする。

これが、「劣等コンプレックス」の持つ構造です。


「前に進もうとする力」と
「守ろうとする力」がぶつかって、
結果として、足踏みするしかなくなってしまう。

この状態が続くと、
行動も思考もどんどん勢いがなくなっていき、
「自分は結局こういう人間なんだ」と、
殻に閉じこもってしまいやすくなります。


「できない自分」を守るための、あきらめ

「どうせ無理」
「やったところで意味がない」

こうした言葉を口にする人を、
やる気がない、後ろ向きだとか言ってしまうのは、簡単です。

でも、その奥には、
そんなふうに言わずにはいられなかった、
切実さがあるようにも思うんです。


たとえば、

  • 自分なりに頑張ってみたけれど、うまくいかなかった

  • 一歩踏み出してみたけれど、恥ずかしい思いをした

  • 「やっても無理だよ」と言われて、傷ついた

そんな経験が、
何度も積み重なっていたとしたら……。


そもそも
「もう一度やってみよう」と思うこと自体が、苦しい。

できないことも苦しいし、
「できない自分」にまた出会ってしまうのも怖い。

そうやって、
自分がこれ以上傷つかないように、
あきらめの言葉で自分を守ろうとする。


「できないのは、環境のせい」
「やらないって決めてるだけ」
「別に、そんなこと興味ないし」

これは、
「向き合いたくないもの」から目をそらすための防衛です。

でもその奥には、
「ほんとはやってみたかった」
「ほんとは変わりたかった」という願いが眠っていることもある。


劣等コンプレックスとは、
劣等感そのものが悪いのではなく、
それを「感じないようにする」ために
エネルギーを使ってしまう構造だと、僕は捉えています。

傷つかないために、
感じない環境を作ろうとする。

でもその結果、
「ほんとうの願い」からも、遠ざかってしまう。

それが、
劣等感とコンプレックスの関係にある、
もうひとつの「しんどさ」なんじゃないかと思うんです。


その劣等感は、なにを守ろうとしているのか

たとえば、

「またできなかった……」
「どうせ自分なんて、何をやってもダメだ」

そうやって、
落ち込んだり、あきらめたりするとき。

その言葉の奥には、何があるんでしょうか。


「できない」と感じているその背景には、
「できるようになりたい」という気持ちがあったのではないか。

「どうせダメ」と言いたくなるその裏には、
「ほんとうは前に進みたい」「変わりたい」
という思いがあったのではないか。

そのように、
劣等感の裏側には、
「願い」が隠れていると思うんです。


でも、それがうまく表に出てこない。

なぜなら、そこにあるのは
「足りなさ」や「できなさ」だけじゃなく、
「それを見せることへの怖さ」
「できないままでいることの痛み」だから。


だからこそ、

「やってもうまくいかないからやらない」
「こんな自分なんか、最初から期待されてない」

という言葉が、自分を守るための鎧になる。

あきらめているように見えるけれど、
実はその鎧の奥には、「期待」がまだ残っているんです。

期待するからこそ、怖い。
望むからこそ、傷つく。

でも、その期待こそが、
劣等感の根っこであり、
エネルギーの源なのだと思うのです。


「もっとできるようになりたい」
「ちゃんと役に立てる自分でいたい」
「ちゃんと好きでいてもらいたい」

そうした願いが、かたちを変えて、
「劣等感」という名の違和感になっている。

その劣等感と向き合わずに
背を向けている。

そこに、「しんどさ」の正体があるんじゃないかと。


言葉の奥にある、ほんとうの願い

「どうせ無理」
「きっとうまくいかない」

そういった言葉を使っても、
心のどこかで「うまくいってほしい」と願っていたりする。

だから、こういった言葉は
「あきらめ」よりも「期待していない」という言葉の方が
適切かもしれない。

落ち込むのは、
期待はしていないけれども、
本心では前に進みたいと思っているから。

本当にあきらめていれば、
落ち込むことも、悩むこともありませんから。

劣等感に押しつぶされているように見えていても、
実は、そこにエネルギーが生まれているんですよね。


ただ、
そのエネルギーの「向き」が
適切とは言い難いだけ。

前に進む方向ではなく、
自分を責めたり、行動しない方向に向いてしまっている。

でもそれは、
「向きが違っている」だけであって、
エネルギーそのものがなくなったわけではないんですよね。

向きが違っているだけで、
エネルギーそのものがなくなったわけじゃないんだったら、
そのエネルギーの「向き」を整えてあげればいいだけ。

そうすれば、
「前に進む力」として、活かすことができるんじゃないの?と、
僕はそう思うんです。


たとえば、

「きっとうまくいかない」という言葉の代わりに、
「じゃあ、どうすればできるかな?」と問いなおしてみる。

「どうせ無理」という思考が浮かんだときに、
「ほんとは、どうなりたかったんだっけ?」と振り返ってみる。

そうやって、
投げ出そうとしていた言葉の奥にある願いに目を向けてみる。


その願いは、
たぶん最初から変わっていないと思うんですよ。

ただ、傷つくことが怖くて、
手放していただけ。

でも、
「前に進もうとしたい」
「まだ諦めたくない」
そういう自分もいる。

それに気づけたとき、
劣等コンプレックスから劣等感へ、
「後ろ向きなエネルギー」から「成長のエネルギー」へと
変わっていくと思うんです。


「できない自分」と、どう関わっていくか

劣等感には、ふたつの顔があります。

ひとつは、
「まだ届いていない」と感じるからこそ、
「届こうとする力」が湧いてくるという面。

もうひとつは、
「どうせ届かない」と思ってしまったとき、
自分を守るための「あきらめ」として機能してしまう面。

その違いを生むのは、
劣等感そのものではなく、その扱い方、
つまり「関係性」なんですよね。


「できない」と感じたとき、
その言葉を、自分を責める材料にするのか。
それとも、次に進むヒントとして受けとるのか。

その選択によって、
同じ劣等感でも、エネルギーの「向き」が
まるで変わってきます。

今回の話で言えば、
「劣等感が悪い」のではなく、
「劣等感を抱いた自分をどう扱うか」が、
問い直されるべき点なんじゃないかと思うんです。


たとえば、

  • できない自分に、どんな言葉をかけるか

  • 落ち込んだときに、どう行動するか

  • 誰かと比べそうになったとき、何を思い出すか

そうしたひとつひとつの選択が、
「劣等感との関係性」をかたちづくっていく。

言い換えれば、
「できない自分」と、どう関わっていくかということ。

その関係性の質が、結果として
「どんなエネルギーを持って生きていくか」につながっていく。

できる・できないの結果以上に、
その前後にある「在り方」が、人生の流れを決めていく。


前に進みたい気持ちと、立ち止まってしまう怖さ。

その両方を抱えながらも、
「どう扱いたいか」を選び続けていくこと。

それが、
アドラー心理学の「目的論」という考え方にも、
重なるように思います。


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