幕末明治の古写真が語る歴史:内田九一写真館の撮影記録から見える時代の証人たち
一枚の写真に秘められた歴史
幕末から明治にかけて活躍した写真師・内田九一。その写真館で撮影された人物たちの記録を丹念に追うことで、歴史教科書には載らない「その日」の物語が見えてきます。古写真研究家・高橋信一氏の研究は、日記や伝記などの史料と照合することで、一枚一枚の写真に正確な撮影日を特定していく地道な作業の成果です。
内田九一という写真師
内田九一は弘化元年(1844年)、長崎に生まれました。上野彦馬より6歳若く、安政5年頃にポンペから写真術を学びます。慶応2年10月に江戸へ出て、明治元年9月には横浜・馬車道に写真館を開業。戊辰戦争景気で繁昌し、翌年9月には浅草橋・瓦町に支店を開業します。この浅草の店が後に本店となりました。
明治5年4月には明治天皇を撮影し、5月の「西国巡幸」に随伴して各地で撮影を行うなど、写真師として頂点を極めます。しかし明治6年頃から肺結核に罹患し、明治8年2月17日、享年32歳という若さで死去しました。実働わずか10年余りの生涯でした。
写真館のスタジオ演出の変遷
内田写真館の特徴は、スタジオ背景の変化から時期を特定できることです。初期の横浜時代には、長崎の上野彦馬が始めた「橋の欄干のような置物」を背景にした撮影が行われていました。その後、浅草では異なるデザインの欄干が使われ、明治4年9月頃からは「腰板」と呼ばれる背景に変わります。
この背景の変化は、写真の撮影時期を特定する重要な手がかりとなります。高橋氏は、こうした視覚的な情報と、被写体となった人物の日記や伝記を照合することで、驚くほど正確な撮影日の特定に成功しています。
歴史的人物たちの撮影記録
慶応3年6月19日、内田九一は松本良順とともに江戸の立花種恭私邸へ出張撮影を行いました。立花種恭は第11代下手渡藩主で、初代学習院院長を務めた人物です。
明治元年9月22日には、横浜で東久世通禧と三条実美を撮影。この日は英陸軍調練謁見の日でした。明治元年10月11日頃、明治天皇の東幸時には木戸孝允が撮影されています。
明治2年には伊藤博文、井上馨、大隈重信らが横浜で撮影されました。彼らが上京した時期を史料から特定し、撮影日を5〜6月と推定しています。さらに同じ頃、これらの人物を含む集合写真も撮影されており、明治新政府の中枢を担う人々の貴重な記録となっています。
浅草写真館の時代
明治3年になると、浅草の写真館で勝海舟、後藤象二郎、広澤真臣らが撮影されています。明治4年には伏見宮貞愛親王、慶應義塾の中津出身学生たちの集合写真、北海道開拓使留学生と黒田清隆の写真などが残されています。
明治5年から6年にかけては、有栖川熾仁親王が複数回撮影されており、その都度の日記記録が残っています。また、坂本龍馬の妻お龍として知られる写真も、実は別人であることが撮影時期の検証から判明しています。
明治7年には福澤諭吉と中上川彦次郎らの写真が撮影され、台紙裏面には撮影日が記されていました。渋沢栄一、伊達宗城らの写真もこの時期のものです。
内田九一没後の写真館
明治8年2月、内田九一は32歳で死去しますが、明治8年3月に写真館は焼失します。その後弟子たちが再建し、長谷川吉次郎らが営業を続けました。明治14年10月には北庭筑波が買い取って開業し、明治15年には2代目内田九一が買取り、明治20年代中頃まで営業が続きました。
古写真研究の意義
古写真関係の出版物やネット上のデータベースで公開されている古写真は膨大です。これらを繰り返し見て理解することで、誰も気づかなかった新しい「発見」があると高橋氏は語ります。
学問の出発点は「疑問」であり、専門研究者が少ない古写真研究の分野には、開拓の余地が十分あります。高橋氏はFacebookで研究成果を発信し、自費出版も行ってきました。研究ネタは無尽蔵で、仲間を増やしたいと呼びかけています。
過去を忘れない
「過去を忘れない」というサブタイトルが示すように、古写真研究は単なる趣味を超えた歴史の記録保存活動です。一枚の写真から、その日その場所にいた人々の息遣いが聞こえてくるような、そんな歴史との対話が古写真研究の醍醐味なのです。
内田九一写真館のスタジオ写真の変遷を追うことで、幕末から明治という激動の時代を生きた人々の姿が、より鮮明に私たちの前に現れてきます。
AI要訳
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