#問いの設計|なぜ人は自分最適を求めてしまうのか
組織の中で仕事をしていると、どうしても「あの部署は自分の都合ばかり言う」「現場は全体が見えていない」という不満が生まれます。
しかし、業務設計者の視点から見ると、実は「全体が見えている人」など、どこにもいないことに気づかされます。 私たちを含め、誰もが自分の立っている場所からしか、景色を見ることができないからです。
今回は、組織のあちこちで発生する「自分最適」という現象について。 それを否定するのではなく、設計の前提条件としてどう扱うべきか、少し掘り下げて考えてみたいと思います。
自分最適とは「生存戦略」である
まず、「自分最適」という言葉の持つニュアンスを、少し変えてみましょう。 それは「自己中心的」ということではなく、「自分の視野の中における、精一杯の合理性」です。
たとえば、営業担当にとっての最適は「入力の手間を減らし、顧客と話す時間を増やすこと」です。これが彼らの成果(生存)に直結するからです。 一方で、経理担当にとっての最適は「入力項目を増やし、データを正確に分類すること」です。これが彼らの責任(生存)だからです。
彼らは決して、会社全体の足を引っ張ろうとしているわけではありません。 ただ、自分に課せられたミッションを最も効率的に達成しようと、真面目に努力しているだけなのです。 自分最適とは、個人のエゴではなく、役割が生み出す必然的な引力のようなものです。
同じゴールを見ていても、見ている「次元」が違う
よく「同じゴールを目指そう」と言いますが、業務設計のレベルでは、これだけでは不十分です。
一つのプロジェクトを前にしても、 経営者は「投資対効果(ROI)」を見ています。 管理職は「進捗とリスク」を見ています。 現場は「今日の手順と負荷」を見ています。
全員が「プロジェクトの成功」という同じ山頂を目指していても、登っているルートも、足元の景色も全く違います。 見ている次元が違えば、選ぶべき「最適な道具(手段)」が変わるのは当然のこと。 この視点のズレを「わからず屋」と断罪してしまうと、組織の対話はそこで終わってしまいます。
善意がシステムを肥大化させる
恐ろしいのは、この「それぞれの正しさ」が積み重なったときです。 誰も間違ったことを言っていないのに、出来上がるシステムは、誰も使いこなせないほど複雑なモンスターになってしまうことがあります。
たとえば、勤怠管理のしくみを導入する場面。 本来は正社員の労働時間を把握できればよかったはずです。 しかし、リスク管理部門が「万が一のために派遣社員も把握したい」と言い出し、現場リーダーが「どうせなら工数管理も一緒にやりたい」と提案する。
これらはすべて、それぞれの立場からの「善意の改善案」です。 しかし、その善意をすべて足し算した結果、現場には「毎日15分かけないと終わらない日報」という重荷が残されます。 部分的な正しさの総和が、全体としての最適解にはならない。これが組織構造のジレンマです。
設計者の視座:重力を否定しない
では、業務設計者はどう振る舞うべきでしょうか。 「自分のことばかり考えず、全体を見ろ」と現場を啓蒙するのは、得策ではありません。 それは「重力に逆らって空を飛べ」と言うようなもので、長続きしないからです。
重要なのは、「人は自分最適を求める生き物である」ということを、設計の初期値(前提)に置くことです。
現場が自分の仕事を楽にするために選んだ行動が、結果として全体のデータ整備に繋がる。 そんな風に、個人の「利」と全体の「理」が重なるポイントを設計すること。
「入力してください」とお願いするのではなく、「ここに入力すると、あなたのあとの作業がこれだけ楽になりますよ」という導線(メリット)を用意する。 それが、自分最適という強烈なエネルギーを、組織の推進力へと変換する唯一の方法なのだと思います。
問いのバトン
こうして個々人が追求する「自分最適」は、やがて部門単位の「部分最適」となり、それが経営の望む「全体最適」と激しく摩擦を起こし始めます。
次回は、この「部分最適 vs 全体最適」という、組織における永遠のテーマについて。 どちらかを切り捨てるのではなく、その摩擦をどう飼い慣らせばいいのか、考察を深めていきたいと思います。
▼ 読後に効く処方箋
自分最適のメカニズムを理解した上で、さらに深く構造を読み解きたい方へ。
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