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しあわせの色を、ママにおしえてよ【第4話】

第3話
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茶色い蟹、赤い蟹


啓太さんがいる週末。
食パンをお願いしたら、啓太さんは旅行の企画もいっしょに持ち帰ってきた。

「明日、少し遠くにでもいきましょうか。海でも見たりして、温泉につかって。いったん、考えるのはやめましょう」

啓太さんはそう言った。

考えるのをやめて、どうなるの?
問題は消えてなくなるの?

私は言いたかったけれど、そうだねありがとう、とだけ小声で漏らす。そして気づかれないように、ふう、とため息をついて、私は一泊旅行の準備を始める。

なにか問題が起きたり、喧嘩したり。というか、私がこうして一方的にイライラしていたりするとき。
啓太さんはよく、海の見える旅館なんかを予約してくれる。
実際、そこにたどり着いたら私もとても心が澄みきり、穏やかになっていくのを感じ取ることができるし。帰りの車内では、「来てよかった」と彼に伝えている。

では。そこにたどり着くまでになにが必要かというと。
旅館に着くまでの車内で幸が飽きないようにおもちゃを準備したり。梅雨でもきっと幸は海に行くと言い出す。だから着替えは多めに。そしてスコップ、バケツ、網など海であそぶもの一式。汗をかくので下着もたくさん必要。渋滞にはまった車内で万が一のための携帯トイレ。日差しをおさえるために帽子、ネッククーラー。手持ち無沙汰なときのお絵かきグッズ、そして自分たちの着替え、私の一泊分の化粧品…………
こういう準備を、急に支度しなければならない母親の億劫さまでには、啓太さんは正直思考が追い付いていないよね。と毎回思う。

――――じゃあ、彼にそう言えばいいのにね。
私は自分の心の中でつぶやきながら、また今夜も黙々と準備をする。

啓太さんには、この間に幸が邪魔をしてこないように相手をしておくことをお願いする。
あれはどこでしょう。こっちにありましたっけ。
毎回そう聞かれても、余計な手間なので私がやった方が早いのだ。

――――私はめんどくさい人だよね。

自分で自分に毒づいたら、かわいた笑みがこぼれる。
私は幸と啓太さんの笑い声を遠くに聞きながら、準備を進めた。


車を運転できない私は、うしろの座席で幸の隣で相手をして過ごす。この車内で、すぐに物事に飽きて興味が移り変わっていく幸の相手をし続けることは、わりとしんどい。
お絵かきが15分で終了すると、次はしりとり。それは5分ともたないので、次はDVD。
いつものDVDで30分持たせようと思っても、今日はこれじゃないあれじゃないと言い出し、ディスクの入れ替えばかりしていて、まったく休まることがない。

ああ、私も免許、取ろうかな。運転中は幸の相手をしなくってもいいんだもんね。
ふと全力で安全運転中の啓太さんの背中を見てそんなことを思いつつも、そんな時間も余裕もまったくないとわかっている。私にとってはそれすらも、夢物語だ。

すっかりぐったりした頃、三時間の旅を終えて宿に到着する。目の前の海で遊んだ後はすぐに温泉に行きたかったので、まずは早目のチェックイン。

「幸と海に行ってきますよ。アコ、部屋で休んでいてください」

啓太さんにそう言われたけれど、私は結局日傘をもって彼らについていく。
宿ですべてを忘れて静かに休んだ方が、家族にも優しくなれるかもしれないのに。「休んで」と言われたら、なんだか素直に休めない私。
きっと、私もなにかがおかしいんだろう。

幸が海に足をすくわれないか。岩場でちゃんとケガしないように、啓太さんが目を離したりしていないか。
ちらちらと様子を見守りながら、私は持ってきたレジャーシートの上で、スマホの文字を追う。

来週、坂神さんに紹介する予定の企業情報を検索。
彼女は、自分がひたすら同じ作業に打ち込めることを長所としてとらえており、プログラマを目指していた。
しかし彼女と話を進めていくうちに、私は別のことを考えていた。真面目に企業の情報なども毎回こまめに調べつくす彼女は、社内でのシステム開発や保守・運用で活躍が期待されるプログラマやシステムエンジニアというよりも、困っている顧客に対し、常に自社製品情報を細やかに提供できる「カスタマーエンジニア」がいいのではないか。私はそう思い始めていた。
彼女はきっと、自分が所属した会社の情報は暗記できるくらい必死に頭に刻み込むだろう。そして顧客のそばで、困っていることを目の当たりにした方が、彼女自身もサポートはしやすい。そしてその真面目さと知識の豊富さは必ず、お客様にも重宝されるはずだ。

過去、就職サポートをした学生の中に、カスタマーエンジニアとして就職した人も数名いたことを思い出し、私はその会社の求人情報も確認する。ひとくちにカスタマーエンジニアといっても、扱っている業種はさまざま。彼女はどんな場所で輝くことができるだろうか。

海を前にして、日傘の下で。私は必死に生徒の将来を探す。
ここまで来てなにをしているんだろう。でも、私は今、教員としての使命をやり遂げる自分でいないと、気が済まない。

「ママ!!!」

気づいたら、目の前に髪をしっとり湿らせた幸が立っていた。

「見て! 蟹さん見つけたよ! たくさん!」

彼女が持ってきた小さな赤いバケツの中には、茶色くて小さな蟹たちが窮屈そうにうごめいている。

「すごいね。本当にたくさんだ。よくこんなにたくさん捕れたね。でも幸、お部屋に帰るときには海に帰してあげようね。いい?」

「どうして? さっちゃん、連れて帰りたいよ」

「この海が蟹さんの家なんだよ。勝手に連れて帰ったら、お母さんやお父さんと離れてしまうでしょ。車の中が暑くなって苦しいかもしれないし」

幸は、せっかく捕まえたのに。と何度も言った。私は同じことを繰り返し伝えた。そのうち、ものすごく不満な顔をして、わかったよ。と彼女はつぶやいた。
ああ、また私は、余計なことを言ってしまったかな。いつもママは余計なことばっかりだよね。

「さっちゃんも、ママと離れたらイヤ。だから、帰してあげる」

ふくれっ面で幸は、蟹たちをスコップでちょん、とつつきながらそう言った。

「ええ? パパとも、ですよね?」

遅れてこちらにやってきた啓太さんが言う。

「パパはいつも、いないじゃあーん。でも、お休みの日に、たくさんお菓子買ってきて帰ってくれるの。だから好き!」

いたずらっぽく笑う幸に、なんですってえ、と啓太さんが幸の脇をこちょこちょする。
キャハハハ! やめてよう!
幸が騒いだら、バケツがぼと、と浜辺に落ちた。わらわらわら……と逃げ惑う蟹たちを見て、三人でちょっとした騒ぎになる。

「蟹さん、待ってえ! 一回ここに戻ってえ! お家に帰してあげるからあ!」

幸がスコップを持って、懸命に追いかける。
いっしょになって、小さな小さな蟹を追いかけまわしながら。
彼女の本当の優しさはここに確かにあることを感じて、私はなんだか少し、ほっとしていた。



しかし私たちは、その日、少し蟹に向き合いすぎたのかもしれない。

「ああ! 蟹さんが…………」

幸がそう叫んだのは、部屋で豪華な懐石料理をこれからいただくというときだった。

「ママ! 蟹さんがひっくりかえっちゃってる! ああ、足取れちゃってるよ…………」

メインディッシュは蟹のお造りだった。大きくて赤い甲羅のズワイ蟹はひっくり返り、その身もあらわになった状態だ。私はこの身に蟹味噌をつけていただくのが、大好きだった。だからきっと、思いつめた様子の私を喜ばせようと思って、啓太さんが選んでくれたコースなのだが。

「大きい蟹さんだから、あの子たちのお母さんだったのかもしれないよ…………ママ、かわいそう…………」

普段なら、大人の料理もとくに気にしないし、幸の目の前の食卓にはしっかりエビフライも揚がっている。食物連鎖の流れとしては彼女のキッズプレートとこの懐石料理は同じようなもんなのだが、今日の彼女はすっかり蟹の味方だ。

「幸。この蟹さんはあの蟹さんとはまた、別の蟹さんなんですよ。あのね、毎日いただいているお肉もそう。幸の大好きなエビフライも、海で泳いでいた海老さんなんですよ。私たちは、それをいただきながら生きているんですよ。保育園でもやっていたでしょう、食育の時間に。『いただきます』は、そういう意味なんですよ」

啓太さんが極めて穏やかに幸に話をしてくれる。でも、幸は納得していない顔だ。

「きっと、幸は食育の時間の話は聞いていないよ。連絡ノートにはそんなこと書いてあったけど、命をいただくだとかそういう話は、幸は嫌がるし…………」

私は言う。
彼女はそういう「命」がどうのとか「死」がどうのとか、そんな漠然とした不安を感じさせる話を非常に怖がる。だからここではこれ以上続けるべきではないのに、啓太さんは諦めない。

「でもね、幸。ママは蟹さんが好きなんですよ。これ、いつも、旅館でおいしく食べているの、幸も知っているはずでしょう。ママが笑顔になる方が、幸もうれしいですよね。小さな蟹さんたちは海に帰ってゆっくり過ごしていますよ。これはまた、違いますから…………」

彼がこんなに必死なのは、私のためだということはわかってる。でも、これ以上もうなにも言わないでほしい。
幸を説得するその姿をみて、私が責められているように感じるのは、私が気にしすぎなの?
私がいつも、疲れて帰ってもなんやかんやとイライラしてうるさいから、あなたは私を黙らせたくてここに連れてきたの?
幸にも、私のご機嫌取りを強要するの?
この旅行を予約して車の運転して、それだけであなたは「やりきった。あとは蟹を食べさせるだけ」でミッションを達成できると思っているの?

私が今したいのはそんなことじゃ、ない。
今こうして、少しのきっかけで大人の話も誰の話も聞けなくなってしまう我が子のことを。この目の前の娘のことを話したいのに。

「…………もういい。大丈夫。ママが食べないで『蟹さんごめんね』って言えばいいんでしょう。わかったよ。幸、あなたは早く食べちゃいなさいね」

私は席をたって部屋の隅でテレビをつける。
普段は、食事中はつけない。お行儀が悪いわよって、私自身が決めつけている。
でももう知らない。
私は私の蟹をあきらめて、ここでとにかくゆっくりして英気を養っておく。
また明後日から訪れる2人での平日のために。
それでいいんでしょう。

アコ。
啓太さんが私を呼んだ気がするけれど。私はそれに気づかないフリをして、面白くもないバラエティをじっと見つめていた。
海が見える宿の夜は、ようやく陽が落ちて暗くなり始めた。静かな部屋で、バラエティのサクラたちがかわいた笑い声をたてている音と、幸がフォークをお皿にかち鳴らす音だけが響いている。



「明日はどうしましょうか。なにしたいですか?」

慣れない和室に興奮してなかなか寝付けなかった幸がようやく眠りにつくと、啓太さんがささやいた。

「…………明日の予定、決めてないってこと? うーん…………私もとくにコレってのもないけど……」

「近くには牧場があるみたいです」

スマホを取り出して、あたりの観光地を検索しながら啓太さんがいう。私も検索結果を見せてもらうけれど。

「………明日、臨時休業って書いてあるよ」

私はそう言ってスマホを突き返す。
ああ本当だ気づかなかった……と啓太さんは言いながら、別の場所を探しているようだ。

「うーんあとは……釣り掘。ですかね」
「………今日の蟹取りで幸がこの調子だったから…………今度は、お魚を食べれなくなるよ、啓太さんも」

私は考えることを諦めて、彼に背を向ける。
そうかあ、確かにそれは困りますよね。啓太さんのささやきが背中越しに聞こえる。
もうそのまま帰ればいいんじゃない。私はそっけなくそう答えた。

「…………蟹、残念でしたね。別室や一階のレストランに行って、アコに食べてもらえばよかったですね」
「そんなめんどくさいこと、旅館の人にお願いするのも嫌だしさ。別にいいよ。あのあと私の方に幸が来たときに、蟹は啓太さんが食べてくれたんでしょ」
「まあ……もったいないのでそうしましたが……」

――――あのね啓太さん。
旅行の根回しはもっと先にしておいてほしい。
こんな風になるんだったら、旅行は私を置いて幸と二人で行ってしまってほしい。
私は幸が目に入れば、駆けつけてしまうんだから。
私は母親なんだから。

頭の中ではいくらでも愚痴が出るくせに。
それでも私は声に出して言えなくて、背中で語っている気になっている。

こうして、啓太さんに気を遣われている感じもすごくイヤ。
でも、これで全く気にされないで関係ない話を延々されたら、きっともっとイヤ。
つくづくめんどくさい性分だと思う。きっと、啓太さんにだってそう思われてる。腫れ物を触るみたいに、啓太さんがそっとそっと声をかけてくるのがわかる。

「あの…………幸の保育園でのこと。なんだか、アコに背負わせてしまって。ごめん…………」

啓太さんは、小さな声でそう言った。

「…………なんのこと」

「保育園で、幸がサトちゃんの肘を外してしまったって。その日、きっとまたいろいろ、先生から言われたんでしょう。いっしょにいられなくって。ごめん」

アコに背負わせてしまって。ごめん。
いっしょにいられなくって。ごめん。

――――そんな言葉。聞いてどうしろっていうの。

私はその瞬間。
それまでこらえていたものが、心臓の奥深くで、ぱちんと確かにはじける音を聞いた。聞いてしまった。

「ごめんって………ごめんって言うならさあ!!!」

私は身体を起して立ち上がっていた。眠り始めた幸を気にすることなく、私の口は滑り続ける。

「もっと、主体的に、幸のことを調べたりしてよ! もっと、具体的にこうしたらああしたらいいかもって、私といっしょに考えてよ! 私、全部やってるよ? 幸の将来を考えたら、不安でたまらないから。でもさ、啓太さんは私と幸のことを受け止めてくれるつもりだけど、いつもそれだけじゃない。自分からのアクションはいつも、起してくれないじゃない。旅行に行こうっていってくれるけど、いつも私がいろんなことをやっているの、わかってる? どうして考えが先に及ばないの? いっしょに住んでいる時間が少ないから? 啓太さんは単身赴任の家にもどれば、自分の仕事だけできるもんね。いいよね単身赴任だなんて。好きなだけ仕事をして毎年お給料をあげているでしょ? 私の給料なんて、全然上がんないよ。時短も使って残業もできないで、好きな授業にも入れなくなって。役職だってこれからつけるように頑張る気持ちでいたのに。どっかの教授の本を準備したり、お金の精算したり、誰にだってできることばっかり。上がりゃしないよ、給料なんて。自分のしたい仕事はできなくなっていって、就職で一生懸命サポートをしても、私のケアが足りなくって、生徒の希望もかなえてあげられないし……」

涙が、止まらない。
関係ない話にまでいってしまっているって、わかってる。でも止まらない。私は最低だ。こんなこと啓太さんに言っても仕方ない。意味もない。
だって私が、自分で残るって言ったんだから。
ひとりで頑張るって決めたんだから。
そのはずなのに。私の口からは、こんなにも大切な人を、責めるような言葉しか出てこない。

「私…………私だって。もっと頑張りたいのに……保育園にお迎えにいっては、子どもがしでかしたことを謝ってばっか。『お母さんのせいではありません』だなんて言われるけど、じゃあ、なんなの? 私がこんな風に生んだからいけないんじゃないの? 私がひとりで育てているから、気が使えないってことなの? この子って病気なわけ? ハッキリさせろってみんな言いたいの? 幸が…………この子がおかしいってこと……」

「アコ!!!」

啓太さんの聞いたこともないような大きな声に、私はハッと我にかえった。
目を覚ました幸が、啓太さんの腕の中から静かに私を見つめていた。

「…………ママ、どうしたの?」

少しまだ眠そうに、幸は私を見上げて言った。

「ママ。怖い夢をみたの? …………さっちゃん、いっしょにいるからね。大丈夫だよ」

幸は目をこすりながら、そうささやいて、またすうと眠りにおちた。

…………それは、私が、幸が夢にうなされたときに言ういつもの言葉だった。

ママがいっしょにいるからね。大丈夫だよって。


――――私。こんな優しい子の前で。なんてこと…………





振り返らずに私は、部屋着の甚平のまま、その場から飛び出していた。





最終話へ続く



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