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しあわせの色を、ママにおしえてよ【最終話】

第4話
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海の漆黒が、包む夜に


夜の海はあまりに暗い。
その漆黒が私の心の奥底に染み入って来る。

海には、魔物が住んでいるという。その魔物が手招きするのが見えたら、海に誘われて帰ってこられない。
私は海岸に向かうための階段に座り、涙で熱くなった目をじっとこらえて、その漆黒の広がりの先の先までを見つめた。
誰も私を見つめ返す者はいない。ただただ、暗く大きな闇が、そこにあるだけだ。
ほっとしている私の中に、少しだけ残念に思っている私も存在していることに、本当は気づいている。

振り返れば、そこには煌々と照らされた、私たちが泊っている旅館が鎮座していた。
私はこんなときにも、遠くにだって走ってもいけない。そんな意気地もなければ、なにもかも捨てさってしまおうという夢も抱けない。
少ししたらしれっとした顔をして部屋に戻って、明日の朝にスムーズに出発できるように、部屋の片づけをさっそく始めるだろうことも、わかっている。

啓太さんは今頃、幸になんて言いながら、彼女のことを落ち着かせているんだろう。私がいなくなってしまって、幸が泣きじゃくって大変になっているかもしれない。言うことをきかなくって、幸が暴れてすぎて、部屋にクレームが入っちゃうかも。
そうだといい。啓太さんも毎朝の私のように、困っていてくれたらいい。何を言っても話を聞けないモードに入った幸を、どうしたらいいのかと悩んで頭を抱えていてくれたらいい。
そう考える私は、やはり意地が悪いよね。と自嘲する。


海をじっと静かに眺めるだなんて、いつぶりだろう。
幸を産んでからも海に来ることは何度もあったけれど。いつも、幸の様子を見てばかりで、この海が彼女の足をさらっていかないか、そればかりを気にしていて。じっと波がやってきてはまた消えていくサマを見つめる瞬間なんてなかったな、と気づく。
夜の海は、人々の喧騒もなく、静かで。時に、ザザア、と荒々しい声を出すこともあった。近づかず、入らず、触らず。寄せては返すその波の音だけに耳を澄ませると、時間が闇に溶けていった。


どれくらいの時間が過ぎただろう。
しばらくしてから、ふと、部屋の鍵もスマホも持ってきていなかったことに気づいた。
この宿の甚平は着ているから、最悪、受付に行って話をしよう。何をしていたんだろうと不思議な顔をされながら、部屋に内線でもかけてもらおう。
私は恥を忍んで申し出る決意をし、立ち上がる。

「ママ」

その瞬間、幸の声がした。
海に置いてきたはずのさっきまでの感情が、私の中にまた蘇ってくるのを感じる。

「ママ…………」
「アコ…………」

振り向くと。啓太さんの腕に抱かれて、幸は私をじっと見つめていた。
濡れて艶やかに光る、真っ黒な瞳で。
お尻につけた砂もはらわずに、部屋着の甚平で立ち尽くしているみじめな私を。

幸。
幸を今すぐ抱きしめたい。
そして啓太さんに私を抱きしめてほしい。
大丈夫。頑張ってるよって、いつもみたいに言ってほしい。
でも。今の私に。
そんな資格はまだ、あるんだろうか。

「…………アコ…………」

啓太さんがもう一度、私を呼ぶ。
その声が、私は、たまらなく好きだった。
今でもそれは変わらないはずなのに。

「…………アコ、アコって。そんな風に、呼ばないで!!! 子どもじゃないの!!」

私の口からは、思ってもない言葉が出る。子どもじゃないって言いだすのは、子どもな証拠なのに。

「…………幸の靴下、靴のそばに置いておいたでしょう。靴もどうして履いてないの。上着もないし…………夜に外に出たら、いつも風邪をひいちゃうんだから、気をつけないといけないのに…………」

違うの。そういうこと、今言いたいわけじゃない。
外に来てくれたのだって。私がいなくなったせい。
わかってる。わかってて、言ってる。
どこまでも私。子どものように、啓太さんを困らせたいのかな。

「えっと…………。じゃあ………アイちゃん?」

啓太さんが、私の機嫌を手繰り寄せるように、そっとその名を呼んだ。
アイちゃん。
とても懐かしい響きが、海の香りに乗って私の記憶に静かに届いた。


***


私が彼と出会って。飲み会で初めて話をして。
お互いを探る会話の中で、ご丁寧に苗字で呼ばれたのが、なんだか寂しくて。
「下の名前は、愛っていいます」
私が自ら仕掛けたとき。
「そうなんですね。ええと。……………アイちゃん、で、よろしいんですか? 僕がみんなのように、そう呼んでしまっても」
私は、ニコニコして頷いてみせたっけ。なんて、はしゃいで調子にのった女だったのだろう。今思い出しても恥ずかしい。

それからふたりきりで会うようになったとき。
彼は、何度目かのデートで、今日でアイちゃんはもうやめると言った。

「え? どうして」
少し寂しそうにする私に、彼は言ってくれたっけ。

「みんなと同じ呼び方は、なんだか、つまらないです。僕とあなたに流れる空気のように、特別な形がほしい。……アコってどうですか。けっこう、気に入っているんですけど」

アコ。
そうだ、その時から彼は、私のことを「アコ」というようになった。
特別なその響き。特別な形の関係。
それって、どういう意味? 
ハッキリさせたい私と、少しオブラートにしておきたい啓太さん。結局ハッキリした言葉は、プロポーズまでなかったけれど…………

アコ。

啓太さんがそう呼んでくれる限り。私は彼の「特別」なんだと、いつでも思わせてくれていた。
私はそれを、いつから「当たり前」だと思って、忘れてしまっていたんだろう。


***


「靴下とか上着は、ごめんなさい。わからなくって。泣いている幸はずっと、ママ、ママって言っていたものだから。慌ててしまったんです。急いで追いかけようにも、幸はもう寝る時間だしと思いつつ、けれど、ぜったい寝ないというし」

「まあ…………そうだろうね」

懐かしさに鼻の奥をつんとさせながら、私はつぶやいた。
幸は、パパ降りるーと言って、言い終わる前には啓太さんの腕の中からするりと降りた。しっかり抱っこしていても、あっという間に腕の中からすり抜けてしまう。こんな技をいったいどこで磨いてきたのかと、毎回驚く。

「幸。靴も履いてないんだから…………」
私が言って抱き上げようとすると、裸足で地面に力強く立ち上がった彼女は、私に向かって大きく腕を広げてみせた。

「ママ! おいで!」

小さな腕の、その指の先まで力を入れて、笑顔で彼女は言った。
よく見ると幸は、泣いていた。
煌々と光る旅館の逆光で暗くなっている表情の中にも、きらりと輝く雫が私の瞳に入ってきた。


――――毎朝、毎朝。
玄関までなんとか連れて来ては「やっぱり行きたくない」とごねる幸。私は振り絞った笑顔を見せて、彼女に腕を広げて言う。

「幸! おいで! ほら、ママが抱っこするから」
そして腕の中に入って来る彼女を抱きしめて、そっと伝える。
「幸。かわいいね。今日も大好き。いっしょに頑張ろうね」

…………ああ。忙しくって私。最近、それもできていなかったね。

小さな腕を大きく広げているその姿を、私は涙がにじんでうまく見つめられない。

「ママ! おいで!」

もう一度、大きな声で幸が言った。
私は膝をついて、彼女の腕の中に入っていく。
「ぎゅ!」
幸が強く、強く抱きしめてくれる。

「ママ。えらいね、えらいね」

いつも私がやるように。指で私の髪の毛を掬いながら、幸がそっとささやく。

「ママ。…………サトちゃんにいじわるしてごめんね。キライになった? さっちゃんのこと、キライ?」

嗚咽が混じって、私はもう声にならない。首をふって「キライじゃない」「そんなわけない」って伝えるけれど。
うまく、伝わってくれるだろうか。
この気持ちが。
あなたのことを一生キライになるはずないって心が。

「………………大好き……………」

かろうじて絞り出した言葉が、どうか、この子に届きますように。私は祈るように、娘を強く抱きしめかえす。

「さっちゃんも。大好き」

幸の腕が。心が。いつの間にこんなにも大きくなっていたんだろう。
いつもそばにいるのに。いつもいるからこそ私は、あなたの心を「見よう」としていなかったのかもしれないね。

私と幸を包み込むように、そっと啓太さんがしゃがみこんだ。

「離れていても…………家族は家族だって、僕にはきっと、言う資格はないです。でも…………まだ、信じてほしい。信じていたい。幸の親は僕とアコ。あ、えっとアイちゃん、か。…………これから先、どうなるかはわからないです。でも、幸はこんなに優しい。人のことをこんな風に抱きしめてあげることができるんです。この子は大丈夫です。そしてなにがあっても、僕たちで守り切りましょう。…………専門家に相談したら、幸が生きやすくなる可能性があるなら。まずは相談してみましょうよ。幸がこれから、もっともっとお友達と、笑って生きていけるよう。私たちは、できること片っ端から、やっていきましょう」

啓太さんは私のおでこに頭をこつんと突き合わた。背の高い啓太さんが、彼の元に甘えてきた私にいつもやってくれるように。

「幸の個性にどんな名前がついても。幸は、幸です。私たちの大切な娘に変わりはありません。怖がることはないんです。…………この前も、そういうことを言いたかったのだけど…………いつも決断をあなたに任せてしまって。だからきっと、いけなかったね。ごめん。
僕が単身赴任で忙しいからって。気を遣ってくれるのはもう、やめてくださいね。いっしょに相談も行きますし……いつでも、飛んでいく。必ずなんでも、話し合って決めましょう。いっしょにこの先を、考えていこう。だって、家族なんですから」

あの、その、アイちゃん…………
口ごもる啓太さんに、思わず笑みがこぼれてしまった。
「パパ、アイちゃんってママのこと?」
私の肩に埋もれていた幸は顔をあげて、きょとんとした声で言う。

「どうしてアイちゃんって呼んでるの?」
「それは……さっき怒られちゃったから…………」

あはは、と声に出して笑った後で。もういいよ。自然と私は口に出していた。
あなたに呼ばれるなら。やっぱり、アコがいい。
私とあなたの、特別な関係。

「アイちゃんって! 変なの!」

そして私とあなたの、からからと楽しそうに笑ってる、特別な宝物がここにいる。
それだけで。もうよかったのだ。
私はすべての感情をこの海に吐き出し、置いていく。
いや。きっと心の中にはまだ知らない私も残っている。
今か今かと、その出番を待っている感情たちが。
でも、その時は素直にまっすぐ、それを啓太さんに伝えよう。言葉にして初めて、浄化していく感情がある。それを私は知ったから。
もう。大丈夫。
ひとりじゃないって、わかったから。


白シャツの第一ボタン


一教員として、こんなこと言ってはいけないとは思う。
それでも。坂神さんの内定の報告は、私にとって誰が内定するよりもうれしかったのは間違いない。

「木下先生…………」

いつものように、職員室の自席で経理書類をまとめているとき。いつかと同じように、私の元にやってきた彼女は泣いていた。その手には、大切そうにスマホが握られていた。

「坂神さん、どうし…………」
「内定のお電話、先ほど頂戴しました…………!」
私が言い終わるのを待たずして、彼女は泣き崩れるようにそう言った。

「お、お、おめでとう!!!」

私の口から思わず大声が出た拍子に、職員室にいた先生たちからも拍手が沸き起こった。
坂神さんおめでとう! がんばったね!
いたるところから、祝福の言葉が飛び交った。
いつも頑張っている彼女の姿は、ここの職員なら誰もが知っていた。
自分の話をしすぎる。余計な言葉が出てしまう。あまりにも速くしゃべってしまう。落ち着きがない。
その個性から、就職は難しいかもしれないという声さえ、一時期はあがっていた。コミュニケーションがどうかな、とか。面接は彼女は不利だね、とか。
でも、彼女はやり遂げた。自分の色の花をしっかり、咲かせたのだ。


「先生…………本当にありがとうござました」

にぎやかになった職員室から移動して、いつもの空き教室で彼女と向き合った。何度もここで話をした記憶がよみがえってくる。

「私はなあんにも。坂神さんが頑張ったんだよ」

「いえ。実際、先生が調べてくださらなかったら…………私、このカスタマーエンジニアという職種も検討しなかったと思いますので、正直、ハイ。仕事内容を考えた限りは、私自身は、自分にはおそらくできない、難しいと思っていましたから。お客様に直接ご提案したりサポートするだなんて、大丈夫かなという懸念がありました正直。しかしながら、先生がさまざまな企業のカスタマーエンジニアを調べてくださったり、OBの方に連絡をとって情報収集してくださったり…………
『坂神さんなら大丈夫』『あなただからできることがある』と信じ続けてくださったから…………私、やり抜くことができました。ハイ。あの、本当に、そう思っているのです」

だから先生。ありがとうござました。
そう言って、坂神さんがきれいに折りたたまれたハンカチで目元を押さえながら、深々と頭を下げた。

その美しい所作を見て。私も熱いものが、胸の内側からこみ上げてきた。
この熱さを私は、忘れてはいなかった。いっしょに国家資格に向かって頑張る学生を指導してきた、あの頃と同じ熱さだった。
より胸の奥深いところから湧き上がる、この感情。
それは私の、教員としての情熱を呼び戻すには、十分すぎるものだった。


あのね。そんなことないんだよ本当に、坂神さん。
私。最初は坂神さんの頑張りに、頼っていただけだったと思う。偉そうに面接や話し方のアドバイスするだけで、あなたのためを思った気になっていた。それでもあなたの苦労は続いたよね。うまくいかないこともたくさん、あったよね。大変だったね。
でも。あなたは自分で調べ続けることを諦めなかった。腐らず、めげずに、真摯に、メモを取り続けた。
そして、こんな私をずっと、まっすぐに素直に、信じ続けてくれた。
だからあなたは、縁をたぐり寄せることができたんだよ。

『彼女の未来への道を照らすことができた』
この教員として、ひとりの人間としての自信を私にくれたのは。
坂神さん。あなたなんだよ。

「本当に………本当に、頑張ったよね」

個人的な私のその思いは、胸に秘めておくけれど。
彼女の頑張りは、何度も、何度でも称賛したい。

ふと思い立って、坂神さんに「あのメモ、また見せてくれる?」と聞いてみる。
はい、あります。
彼女はハンカチを持っていない方の手で、カバンを探る。
手渡してもらったそのメモは、あれからさらにくすみがかって、元の黄色の鮮やかさはない。けれど。私にはその色が、とても美しく見える。

「このメモ。坂神さんの人生のバイブルになると思うよ。辛いときに、見返したりしてさ。きっと支えになる。ぜひ大切にとっておいてね」

はい、そうします。
坂神さんはとてもいい笑顔を見せた。彼女のいつもの白シャツの第一ボタンは、もう閉まっていない。白い肌の首元がなんとも涼しげだ。

私はページをパラパラとめくっていく。彼女の努力が詰まった、分厚いメモ用紙。
私は「ちょっと失礼」と伝え、いつものペンを取り出す。

彼女の内定先の企業のメモに大きく、はなまるを描いた。
隣には「おめでとう! ありがとう!」と言葉を添えて。

「はい! 坂神さん。本当におめでとう。あとは卒業研究を終わらせて……あっという間に。卒業だね」

メモを閉じ、彼女に戻しながら、私は言った。

その「ありがとう」は、はなまるをつけた企業に宛てた言葉だろうと、彼女は推測するかもしれない。彼女を見出してくれて、ありがとう。もちろん、その気持ちもある。
でも、それは私から彼女への、心からの「ありがとう」だった。
私の教員としての情熱を呼び覚ましてくれた彼女への、素直には伝えきれない私からの感謝のしるしとして。

「うふふ。はなまる、ありがとうございます。光栄です、ハイ」
彼女は笑った。

坂神さん。こちらこそ。ありがとう。


「木下先生、よかったね」

自席に戻ると、いつものように上司がすっと隣に立つ。なにか、依頼事項があるときの流れだな。と、私はこれまでの経験で直感する。

「はい、本当によかったです……。それで、なにかご依頼が……?」
「はは、ばれたか。いや、非常にタイムリーな報告もあったけれど…………木下先生。夏休み明けの後期。次年度の就活生向けに、就職対策講座を行ってほしいんだ」
「え。次年度就活生、全員に、ですか?」
「もちろんそうだよ。次年度就活生八十六名の、後期のカリキュラムに組み込みたい。あなたの行っている就活サポートの実績は、みんなが認めているんだ。ぜひ、そのノウハウを他の教員にも見学してもらいたいとも思ってる。お願いできるかな? …………お子さんのこともあるけど、資料さえ毎回準備しておいてくれたら、代講も可能だから」

上司は、私が驚いて無反応でいたせいか、慌てるように最後の言葉を付け加えた。でも、私の心は最初から決まっていた。

「はい、ぜひやらせてください!」
「そうか。あんまり授業開始まで、期間がないかもしれないけど…………大丈夫かな?」
「大丈夫です。任せてください」

任せてください。
私の口からその言葉が最後に出たのは、いつだっけ。考えてみても記憶にない。
ああ私。こんなこと、言えるんだ。
私の知らない私に。ワクワクが止まらない。
母になっても私は、自分の可能性をもっともっと、広げていけるんだ。

「では頼んだよ。木下先生」

上司は満足そうに奥の自席へと戻っていく。
彼をびっくりさせたい。さすがだねって言われたい。
そして、坂神さんのように。たくさんの学生を、希望の道に進めてあげたい。
心臓が高鳴りつづけている。ありとあらゆる体内の血流が一気に流れだすのを感じる。その勢いに任せて、さっそく私は参考資料を自席に広げ、後期カリキュラムを書き出す。
なにをするかなんてまだ、わからない。でも。この一から考え出す瞬間が。
授業を受ける学生を想像して。さあ、何をしようかと作戦を考えるこのときが。
やっぱり私はたまらなく、好きだ。


しあわせの色


「さっちゃん、雨好きなんだ―――」

久しぶりの真夏の雨に、幸のご機嫌は朝からとてもいい調子だ。食事中に何度も席を立って窓の外を確認しては、そう言っている。

「私も雨は好きですよ。雨の日は、幸がいい笑顔になるからね」

啓太さんは丁寧に焼き鮭の骨を取りながら、さあ、わかったから座ろうね。といたって冷静に食事を進行しようとする。
パパも好きかあ~と言いながら、幸は戻ってきて、ほぐしてもらった鮭を手づかみしようとする。

「幸。ほら、保育園でならったお箸。パパに見せてあげよう。できるようになったもんね」

冷静な人がいると、私も彼女を落ち着いて導くことができる。
そうだった! パパ、見てて! 
幸は得意げに、ピンクの箸を持って、その腕前を披露する。
クロス箸になってはいるけれど、上手にご飯をつかめるようになった。前進している部分を、まずは褒めていく。

「幸、すごいですね。ここまで箸を使えるなら、もう大人の仲間入りですねえ」
「ええ? さっちゃん、まだ五歳ですけど~~~!」
「そうですねえ。五歳でこれはすごいですねえ」

幸は、からからと楽しそうに笑っている。その様子を見守りながら、私はいつもの黄色いカッパの準備を進めていく。
今日はこれから、みんなで駅前の役所に発達相談に行く予定だ。夏休みを啓太さんが前倒しにしてくれたので、平日に一緒にそろって向かう日を調整することができた。
彼女にどんな診断が下ったとしても。もう私には、恐れるものはなにもない。彼女が自分でもおさえきれないものが「なに」からきているのか。それがハッキリとわかったとき、きっと私たちは、今よりもっと笑っていられる。そう信じることができるから。


ご飯を終えて。幸が着替えをするときに、
「あ! パパ、今日、あれを着ていきたいよお」
そう啓太さんにささやくのが聞こえた。
なんだろう。新しい服、買っていないけど。
そう思いながらも、私は聞こえないふりをして、母子手帳をカバンに突っ込む。

こそこそこそ……
パパ、せーの、でだよ。
わかりました…………

小声で、でも私の真後ろで相談している声に笑顔が漏れてしまうのをこらえて、私はびっくりする準備をする。

……いっせーの……
「「ママ、いつも、ありがと~~!!!」」

私は、「後ろにいたの?!」という表情を携えて、後ろを振り返った。
そして、振り向いた直後。本当に驚いた。

「………え、その服………?」

「へへ。さっちゃんと、パパで作ったんだよ! どこにも売ってないんだよ! 特別、なんだよ!」

啓太さんと幸が、同じ柄のTシャツを着て並んでいた。
色はそれぞれ違う。幸のTシャツはピンク。啓太さんが白。二人の手には、水色のTシャツ。二人の胸元と手に掲げている水色のTシャツには、同じ四葉のクローバーが描かれていた。それぞれの葉っぱには、緑ではなく様々な色が使われている。

「クローバーはパパが描いて、さっちゃんが色を塗ったんだよ!」

誇らしげにTシャツを引っ張って見せる幸の顔が、私にはじんわりと、にじんで見える。

「描いた絵をTシャツにできるサイトを見つけて。注文してみたんです。みんなで、お揃いで。はは、どこのアトラクションに行くんだって感じですが。まあ、今日の発達相談が、初お披露目でもいいかもしれませんよね」

少し照れくさそうに、啓太さんが言った。
ありがとう……。私はぽろりと言葉をこぼしながら、そのきれいな水色のTシャツを受け取った。
ふたりと同じ、カラフルなクローバーが胸元に輝いている。

「これはねー、ママの色なの。お仕事のママは、赤。とっても楽しそうだし、今のママは、強い先生! って、感じがするの。ピンクは、お家のママ。いつもさっちゃん、抱っこしてくれて、ママ大好き! ってなるから、さっちゃんの好きなピンク。水色は、雨の日のママ。さっちゃんのこと、いつもタオルでぐるって巻いて、濡れちゃったねって拭いてくれるの。さっちゃん、あの拭いてもらうのが好きなの。水色のタオルで。だから水色。オレンジは、お布団干してるママ。お布団お部屋にいれて、そのままそのお布団の上で寝てるときのママは、ぽかぽかのオレンジ」

赤。ピンク。水色。オレンジ。
私の色のクローバー。そしてそれは私たちの、たったひとつのクローバー。

幸。水色のママ、ちゃんと笑ってた? すごく怒っている顔の日も、きっとあったけど。雨の日のママ、水色なんだね。綺麗な色だよね。
オレンジのママのこと、ばれてたんだね。でも、あの時間はやっぱり好きなんだよね。いっしょに布団に転がると、幸せな気持ちになるもんね。

「幸、ありがとう。ママ、この服が一番、好きになったよ。ママもこれ着て、今日はいっしょに、お話しに行こうか」

うん! 
うれしそうな幸の笑顔を見つめていたら、また涙が出そうになる。けれど私はそれを止めようとも考えずに、その身をゆだねてみた。
涙は頬を一筋、静かに伝った。とても心地はよかった。



幸せって。なんなのだろうと思う。
仕事を頑張って、認められること?
家族といっしょにご飯を食べられること?
大切な人といっしょに笑えること?

――――きっと。どれも正解。どれも幸せ。
そう、「私にとっては」。私はこれを幸せだと信じている。
でも、別の人にとっては、これは幸せとは言えないのかもしれない。
それでいい。
幸せには定義もないように、色も決まってない。
だからこそこの世界には、こんなにもたくさんの色が溢れている。

幸の瞳には。世界はこうも美しく見えていたんだね。
色にも、幸せにも。決まりなんて、ないよね。
彼女がこの先も教えてくれる幸せの数は、きっと生涯数えきることはできないだろう。それが楽しみで仕方ない。
毎日がいろんな色の愛で埋め尽くされている彼女の世界を、今日も明日も見せてもらおう。

幸。今日のママの色は、何色なのかな。
あわく透明なブルーだったらいいな。
あなたが好きな、今日の雨と、空の色のように。広い広い海のように。
穏やかでやさしい色で、ふたりを包み込みたい。


「やったあ! 雨だあ!」

幸は雨の下、やっぱりその身を捧げ全身で天の恵みを受けていた。
カッパの下の新しい服も、きっと駅に到着したらびしゃびしゃ。やっぱりねっていいながら、私は彼女を水色のタオルでくるんで、着替えようか、と言うんだろう。
手間のかかる話だ。そう。幸せって、手間のかかるものなんだ。

「あはは、幸、楽しそうですねえ」

「仕事の前にやられちゃうと本当にまいっちゃうけどね……まあ、私が着替え持って、いつも早めに出れればいいんだけどさあ」

「アコ、いつもありがとうございます。おかげで僕も、自分のことを頑張れる。でも本当にいいの? 単身赴任、いったんやめさせてもらう相談をしなくて…………」

「今のプロジェクトが楽しいって、いつも話してくれるじゃない。なら、やれるところまでやってきて。私もこれから、授業準備だなんだで、そっちに引っ込むつもりは当然ないしさ。お互い、やれるとこまでやろう」

啓太さんが私の顔を覗き込んで、確認してくる。それは、本心の言葉? って、口にはせずにささやいてくる。

「大丈夫だって言ったでしょ。…………もう、大丈夫。幸といっしょだから」

びしょ濡れの幸は、はやくこっちに来て! と私たちを手招きする。安心したように啓太さんは笑って、傘をたたんで幸に駆け寄った。

「ええ! ちょっとお。啓太さん!」
「だって。幸がすごく楽しそうだから!」
啓太さんは駆け寄って、びしょ濡れの幸を抱き上げて笑った。彼の胸元の四色のクローバーは、雨に濡れて輝いて見える。

「ああーあ。…………まあ。いっか!」

私も傘を閉じて、ふたりに駆け寄った。
直接肌で感じる夏の雨の匂いが、ずっしりと鼻をつく。Tシャツの上からしみ込んでくる雨は、不思議と私の心を、前へ前へと後押ししてくれるのを感じる。
朝の静かな雨の中ではしゃぐ親子は、周りからしたらどう見えているんだろう。でもそれは、気にする必要なんてない。
駅でまた服をかわかしたら、再出発だ。



もう、私は大丈夫。
いつだって私たちは、自分たちの幸せを塗りなおせるから。





おわり


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髙塚しいも|5児の母 もしこのような記事をサポートしたいという稀有な方がいらっしゃいましたら、ぜひともよろしくお願いいたします。5児の食費・学費にさせていただきます!